外伝:『雨の午後に、もう一度恋をする』
王宮の中庭を、細い雨が静かに濡らしていた。
春の訪れを知らせるように、しとしとと降り続くその雨は、決して冷たくはなかったけれど――静かで、少し寂しげだった。
「陛下は、お出かけを取りやめられました」
侍女のクララがそう告げる。
ルシアンは今日、地方領主との会合で外出予定だった。
けれど、雨のせいか、もしくは別の理由か、その予定は取りやめになったという。
私は、小さくうなずいた。
「わかりました。……今は、一人にしてくれる?」
「かしこまりました、王妃様」
雨の日は、少しだけ心が沈む。
それでも、今の私は――あの頃より、ずっと幸せだ。
手元には、日記帳があった。
回帰前に書き続けていたものではない。
これは、結婚してからルシアンがくれた、新しいものだ。
“これからの君の時間を、ちゃんと刻んでほしい”
そう言って、彼は自分で装丁を選び、金の栞をつけて贈ってくれた。
私はまだ、数ページしか書けていない。
あまりに穏やかで、言葉にしづらい毎日だったから。
けれど、今日のように静かな午後なら――何かを綴れる気がした。
「……そんなに真剣に見つめられると、嫉妬するよ」
声がして、振り返る。
そこにいたのは、雨に濡れた黒の上着を脱ぎかけたルシアンだった。
「あなた、会合は?」
「中止になった。君のそばにいられる口実ができた」
「……また、そういうことを言って」
くすりと笑って、彼はソファの隣に腰を下ろす。
日記帳を膝の上に戻した私の肩に、そっと手が伸びた。
「ねえ、アメリア。知ってた?」
「……何を?」
「昔、まだ君が僕のことを“怖いくらい遠い人”だと思ってた頃。僕は君のことを見かけるたび、嬉しくて言葉を飲み込んでた」
「…………」
「政略結婚なんかじゃない。最初から、君を好きだったんだ」
その言葉が、心の奥に深く染み込む。
あの頃の私は、ただ“家が選ばれた”と思っていた。
愛されているとは、思いもしなかった。
だから、自分の気持ちも、不用だと隠したままにしていた。
「私……ずっと自信がなかったの」
「知ってるよ。でも、君が泣いた夜も、笑った日も、全部見てた」
「そんなの……ずるいわ」
私は日記帳をそっと閉じ、顔を伏せた。
けれど、彼の指が私の顎をすくい、視線を重ねる。
「じゃあ、もう一回、君に恋をしてもいい?」
「…………」
その問いがあまりに優しくて、私は返事の代わりに――
そっと彼の肩に額を預けた。
雨音が遠くで響いている。
このぬくもりと静けさの中で、私ももう一度、彼に恋をした。
しばらくの間、言葉はなかった。
けれど、静寂は不安ではなく、安心の証だった。
ルシアンの腕が、私の肩をそっと包む。
窓の外では、相変わらず雨が降っている。
灰色の空はどこか懐かしくて、でも、どこまでも静かだった。
「――ねえ、ルシアン」
「ん?」
「私……ずっと、あなたの隣にいる未来なんて、想像できていなかったの」
彼の指先が、私の髪にそっと触れる。
「こうして今隣にいるのが不思議になることがある。だから……これからの当たり前を、少しずつ書き残すのもいいと思わない?」
私は、日記帳をもう一度膝にのせる。
白紙のページが、雨の光で淡く輝いていた。
「よろこんで手伝うよ」
「え?」
「“王と王妃は、雨の日に秘密の逢瀬をした”って。書いて?」
「……そんなの、恥ずかしすぎるわ」
「じゃあ、“王は毎日王妃に夢中になっている”の方だったらいい?」
私は頬を赤くして、膝で彼の足を軽く蹴った。
「ほんと、そういうのは得意よね」
「君を好きになったときからずっと夢中なのは本当だからね」
笑いながら、ルシアンは私の手から日記帳を取る。
そして、何かを書き込んで、そっと閉じた。
「見せて?」
「それは、あとでのお楽しみだよ」
彼は立ち上がり、机の上に日記帳を置いた。
そのまま、私の前に膝をつき、真っ直ぐに見上げる。
「君の過去も、悲しみも、全部知ってる」
「ルシアン、どうしたの……」
「でも、君のこれからは、全部――俺の手で、幸せにしたい」
まるで、もう一度プロポーズされているような言葉だった。
「……泣きそうだわ、そんなこと言われたら」
「泣いてもいい。僕の前でだけなら」
雨音のなかで交わされたその言葉は、きっと今日という日を永遠にしてくれる。
そして、彼はそっと唇を寄せる。
言葉よりも深く、確かに想いを伝えるように。
私も静かに目を閉じ、唇を重ねた。
それは激しいものではなく、ただ、静かで、やさしくて――
もう二度と、失いたくないと心から願える、そんなキスだった。
「……アメリア」
「なあに?」
「日記の最後の一行、毎日こう付け足して?」
「……なんて?」
彼はにこりと笑って、こう答えた。
「''今日も、王と王妃は、何度も恋に落ちた"」
「もう!」
私はその一行を、心の中にそっと刻んだ。
そして、また明日も、彼の隣で目覚めたいと願った――。




