38話『婚約お披露目会』
王都レイヴァンの夜は、祝祭の光に包まれていた。
王宮の大広間には、金糸の垂れ幕が波打ち、天井から吊るされた星花のシャンデリアが、千もの光を放っていた。
集まったのは各地の貴族、聖職者、そして帝国からの賓客たち。
誰もが期待に満ちた笑みを浮かべていた。
――今日、リデア王国の未来を左右する婚約が発表される。
壇上にはルシアンが立ち、白の軍装に金の勲章を光らせている。
その隣には、淡い桃色のドレスを纏った“アメリア・ローズウッド”――
ではなく、リリー・ローズウッドが静かに立っていた。
奏楽隊が静かに音を奏で始める。
竪琴の音が重なり、空気が金色に染まる。
リリーは小さく深呼吸をして、背筋を伸ばした。
教皇マルケジウスの姿が、遠くの列席席に見える。
その視線は、まるで獲物を測る蛇のように冷たく、執拗だった。
リリーは、作り笑いの裏で小さく唇を噛んだ。
歓声が遠くに霞む。
胸の奥が、焼けるように痛かった。
壇上の中央に、教皇マルケジウスが歩み出る。
白金の法衣、そして琥珀の瞳。
彼が手を掲げると、場内が静まり返った。
「神の御心のままに。
この婚約が、リデアの平和と繁栄を導かんことを」
低く、響くような声だった。
しかし、その微笑の奥には――確かに、黒い欲が潜んでいた。
そして、リリーの首元に隠された呪印が、微かに熱を帯びた。
彼女の心臓がどくん、と跳ねる。
拍手と歓声が、まだ大広間の天井を震わせていた。
祝福の音が重なるたびに、リリーは胸の奥に小さな不安を感じていた。
――熱い。
まるで、心臓の奥に火種が灯されたように。
(どうして……? こんなに熱いの……)
ふと、教皇マルケジウスの目がこちらを見た。
その琥珀色の瞳が、ほんの一瞬――ぞくりと光を放った。
直後だった。
首元のリュミエールが、ぱちん、と微かな音を立てて弾けた。
鎖が光を帯び、宝石の中心に刻まれた紋様がうねるように輝く。
「……っ、あ……あああっ!」
リリーの喉から、押し殺した悲鳴が漏れた。
胸元を押さえる。焼けるような痛み。
皮膚の下で、教皇の呪印が脈打つように浮かび上がっていた。
紅い紋様が、リュミエールの青白い光と衝突し、火花のように散る。
――加護と呪いが、互いを拒絶しているかのように。
その瞬間。
「リリー!」
清らかな声が響いた。
全員の視線が振り向く。
そこに立っていたのは――淡いブルーグレイのドレスに身を包んだアメリア・ローズウッド。
アメリアはためらわず走った。
ルシアンが「危ない!」と叫ぶが、その声は届かない。
光が乱れ、風が吹き荒れる中――
アメリアはリリーの身体を抱きしめた。
「もういいの、リリー。もう苦しまなくていいわ」
その瞬間、まるで世界が息を呑んだ。
リュミエールが加護を共鳴させ、まばゆい金と青の光が2人を包み込む。
呪印の紅い光が弾け、灰のように消えていく。
「……ね……さま……?」
リリーの声が震えた。
アメリアは静かに微笑む。
「取り戻しましょう、リリー。貴女も、私も――本当の自分を」
眩い光がやがて収まり、リリーの身体がアメリアの腕の中で静かに息をしていた。
呪印は消え、肌にはうっすらと赤い痕が残るだけ。
安堵の空気がわずかに流れた――が、それは嵐の前の静けさにすぎなかった。
「……何をした、アメリア・ローズウッド」
低く響いた声に、場の空気が凍りつく。
壇上の奥から、教皇マルケジウスが歩み出た。
白と金の法衣が、光を拒むように黒く揺らめく。
アメリアは抱きしめていたリリーの身体をそっと寝かせ、顔を上げた。
「私はただ、妹を助けただけです」
教皇の瞳が怒りに燃える。
「黙れ!」
その怒号と同時に、グレオールが前に出た。
法衣の袖を翻し、両手に魔力を集める。
その瞬間、大広間の床に刻まれた魔法陣が光を帯びた。
「――《拘束陣》!」
紫の鎖が地面から伸び、アメリアとルシアンを絡め取る。
リリーの身体もその余波で引き寄せられ、苦しげに呻いた。
「やめろ!」
ルシアンが腕を振り払おうとするが、鎖は燃えるように硬い。
教皇が一歩前に出て、嘲るように微笑む。
「愚かなる者ども。神に選ばれぬ者が、聖印に触れたその瞬間から――すでに裁きは始まっているのだ」
雷鳴のような声が響き、教皇の足元に黒い霧が渦を巻く。
その中心に浮かび上がったのは、逆十字の紋章。
空気が震え、空間が軋む。
「……っ、これは――!」
ルシアンが顔を歪めた。
リリーの胸元のリュミエールが淡く光り始める。
(……お願い、リュミエール……力を貸して……!)
その時、ネックレスから微かな声が響いた。
――“聖と呪、ひとつの血から生まれたもの。
汝が守るべきものを見失うな”
その瞬間、アメリアの背後に柔らかな光が広がり、鎖が一つ、音を立てて砕けた。
教皇が驚愕に目を見開く。
「何だと……その光は……ヴァルハルトの聖印……!」
砕けた鎖の音が、鈍く大広間に響いた。
その瞬間――風が止まった。
時間さえも凍りついたかのように、光が静かに広がっていく。
リュミエールの首飾りが、淡い金色から白銀へと色を変えた。
やがて、そこから一筋の光が天へと伸びる。
「……なんだ、これは……?」
ルシアンが、アメリアの肩を支えたまま息を呑む。
教皇とグレオールの影が、光に照らされて後ろへと退いた。
――そして、光の中から“ひとりの青年”の姿が、ゆっくりと浮かび上がった。
長い銀髪。
瞳は湖の底を思わせる蒼。
彼は微笑んだ。
人のものとは思えぬほど静謐で、美しい微笑。
「――教皇マルケジウス。神の名を騙り、聖を汚したその罪、いまここで贖あがなう時が来た」
教皇の顔が一瞬で蒼ざめる。
「我は神の代弁者だぞ! 神の座に最も近き存在だ!」
「ならば問おう――」
リュミエールの声は澄んでいたが、その響きには雷鳴のような重みがあった。
「神とは、奪う者か。支配する者か。お前が信じているのは、神か、それとも己の虚栄か。」
教皇が後ずさる。
その法衣の金糸が、光に焼かれるように焦げついた。
「黙れ! この世界は秩序がなければ混沌に沈む!我はただ――導こうとしているだけだ!」
「導く? いいや、それは鎖だ。」
リュミエールの瞳が淡く光り、教皇の足元から黒い霧が立ちのぼる。
それは彼の内に巣食っていた“偽りの信仰”が形を取ったものだった。
「神は人を裁かぬ。愛と赦しを与える存在だ――それを忘れた者は、もはや光には還れぬ」
大広間の天井が震え、星花の装飾が光を反射する。
マルケジウスが叫び、グレオールがその前に立つ。
「やめろ……教皇様を……!」
しかし、リュミエールの光は止まらなかった。
まるで世界そのものが、真実を取り戻そうとしているかのように――。
そのとき、アメリアの手にリュミエールの光が重なった。
彼女はまっすぐに教皇を見つめる。
「あなたが奪ったものを、私は取り戻します。
帝国も、王国も、人々の心も――光を、取り戻すために」
リュミエールが微笑む。
「そう、それが真の“選ばれし者”。」
光が弾け、世界が白に包まれた。
リュミエールの指先が光を帯び、教皇の胸元へと伸びる。
黒い霧が暴れ狂うように立ち上がるが、その全てを包み込むように――白銀の光が、静かに、しかし確かに染み込んでいった。
「やめろ……! それは私の力だ! 奪うな!」
教皇が叫ぶ。
けれどその声は、悲鳴でも怒号でもなく、涙を含んだ震えへと変わっていく。
「私は……ただ……救いたかったのだ……」
その言葉に、アメリアの瞳がかすかに潤む。
彼女はそっと手を伸ばした。
「あなたも、誰かを救いたかっただけ。けれど、その方法を見失ってしまったのですね」
教皇の瞳が、かすかに光を取り戻す。
リュミエールの光が彼を包み込み、黒い霧が静かに溶け落ちた。
――光が弾ける。
白銀の光が消え、大広間には星花の花弁が雪のように舞い降りていた。
リリーは崩れた柱の陰でうずくまり、胸を押さえていた。
苦悶の表情に歪んでいた顔が、ゆっくりと安らぎを取り戻していく。
首筋の呪印が淡く光り、やがて黒い墨のように霧散した。
「……あれ……私……」
リリーの唇がかすかに震えた。
瞳の奥に宿っていた赤い影が、少しずつ透明になっていく。
アメリアは躊躇わず、彼女のもとへ駆け寄った。
「リリー!」
その声に、リリーの肩がびくりと震える。
顔を上げたその瞳に、かつての妹の面影が戻っていた。
「お姉、さま……?」
その呼び方が、あまりに懐かしくて、アメリアの胸が熱くなる。
「どうして……私……」
リリーは手を見つめ、震える声で言った。
「気づいたら……心の中が真っ黒で……止められなくて……」
アメリアは首を振る。
「もういいの、もう終わったのよ」
「でも、私――!」
リリーが言葉を詰まらせる。
涙が頬を伝い、床にこぼれた。
アメリアはそっとその手を包み、微笑んだ。
「私は生きているわ。そして、あなたも――まだ間に合う」
「お姉様……」
リリーがその言葉に縋るように顔を上げる。
「私……怖かったの。ずっと。お姉様が私のすべてを奪ってしまう気がして……愛されるのも、認められるのも、全部……」
アメリアは優しく微笑んだ。
「奪う事などしないわ。私はただ、あなたに笑っていてほしかったの。――だって、あなたは私の大事な妹だから」
リリーの瞳が潤み、堰を切ったように涙が溢れる。
その手が震えながらアメリアの頬に触れた。
「ごめんなさい……お姉様……ごめんなさい……!」
アメリアはその手を握り返し、静かに抱きしめた。
「謝ることなんてないわ。私たちは、やっとここまで来られたのだから」
リリーの嗚咽が、静かな祈りのように響いた。
その背後で、リュミエールの光が淡く揺れ、まるで微笑むように消えていった。
――姉妹を分かっていたのは、血でも運命でもなく、愛という名の、たった一つの光だった。
リュミエールの光が消え、長かった夜に、ようやく静寂が訪れていた。
アメリアは膝をつくリリーの手を包み、優しく微笑む。
その瞳には、もう怨みも怒りもなかった。
「お姉様……」
リリーは涙を拭い、胸元のネックレスに手を伸ばした。
淡い光を放つそれを、両手で包み込む。
「これは……私が持っていてはいけないものだと、今はわかります」
「リリー……」
「王妃の座も、同じです。
お姉様こそ、この国にふさわしい方だと思う」
その声には、もう迷いはなかった。
アメリアはそっと妹を抱き寄せる。
「ありがとう……。あなたがそう言ってくれるだけで、私は救われる」
その言葉を聞いて、ルシアンが二人の傍らに膝をつく。
静かに二人の手を包み、微笑んだ。
「二人とも……無事で良かった」
穏やかな声に、涙があふれた。
――終わったのだ。
呪いも、争いも、憎しみも。
これからは、ただ平穏な日々を築いていける。
誰もが、そう信じていた。
その瞬間――大広間の扉が、重く、鈍い音を立てて開いた。
月光が差し込み、闇を裂く。
外の闇の中から、ひとりの男がゆっくりと姿を現した。
長い外套の裾を引きずり、淡い灰金の髪が炎の明かりを反射する。
深紅の瞳が、静かに、しかし確かな意志をもって場を見渡した。
その気配――まるで夜の獣のように静かで、威圧的だった。
「……まさか、この地に“帝家の血”がまだ息づいていたとは」
低く響く声。
その一言が、まるで刃のように空気を裂いた。
ルシアンがゆっくりと立ち上がる。
燭火がその横顔を照らし、瞳に緊張の光が宿る。
「……レオナード」
男は堂々とした足取りで進み出ると、胸に手を当て、深く一礼した。
アメリアの瞳が見開かれる。
燭台の火が一瞬揺れ、かつて舞踏会で見たあの夜が脳裏に蘇る。
あの冷ややかで、どこか人を試すような笑み――。
「……お久しぶりですね、レディ・アメリア」
レオナードは微かに口角を上げた。
月明かりがその瞳を照らし、紅玉のように輝く。
「帝国の再建を進めていた。だが――まさか、我が血の同胞がこの王国に隠れていようとは思いませんでした」
「……どういう意味です?」
彼は一歩、アメリアのほうへ進み出る。
「あなたは――帝国皇室ヴァルハルト家の正統な後継者だ」
アメリアの息が止まった。
胸の奥が、まるで氷で締め付けられるように冷たくなる。
「待て」
ルシアンが前に出る。
だが、レオナードは眉一つ動かさず、冷ややかに言い返した。
「陛下。血は――真実を隠せない。そして我々帝国は、その“血”を取り戻しに来たのです」
リリーが蒼ざめ、震える声を漏らす。
「お姉様を……帝国に、連れ戻すつもりなの……?」
レオナードはゆっくりとリリーを一瞥し、再びアメリアを見つめた。
「連れ戻す? いいえ――迎えに来たのです。帝国の未来を背負う、“皇女アメリア”として」
その声は穏やかだったが、言葉の一つ一つが重く、逃れようのない宿命のように響いた。
誰も言葉を発せず、ただ夜風が吹き抜ける。
星花の花弁が月光に照らされ、静かに舞い落ちる。
――その夜、運命の歯車が、再び音を立てて動き出した。
燭台の炎がひとつ、音を立てて弾ける。
その瞬間、空気のすべてが――ルシアンに向かった。
「……帝国皇室の後継者、だと?」
低く絞り出すような声。
だがその声音には、怒りではなく、確信が宿っていた。
レオナードは冷ややかに微笑む。
「ええ。彼女の存在は帝国にとって希望そのもの。再び帝を戴く日が来るなら、その血を持つ者こそがふさわしい」
ルシアンの瞳が鋭く光る。
アメリアを守るように、その前に立った。
「……つまり、君は“皇女”を利用して再び覇権を握ろうとしている、そういうことだな」
「利用? 違う。導くのです。彼女が帝国に帰ることで、争いは終わる。それは――世界の安定のためでもある」
「“安定”の名を借りた支配だろう」
ルシアンの声が低く響いた。
その静けさの裏に、爆ぜるような激情が潜む。
レオナードの瞳が一瞬、細められる。
「陛下、あなたには理解できまい。血とは、王の正統性そのものです。彼女は帝国に属する――それは否定できない事実だ」
その言葉に、アメリアが小さく息を呑む。
ルシアンが、静かに振り返った。
そして、彼女の手をとる。
「……血がどうであろうと、関係ない」
その言葉に、アメリアの瞳が揺れた。
「彼女がどこで生まれ、どんな血を引いていようと――」
ルシアンはまっすぐレオナードを見据え、低く、はっきりと言い切った。
「彼女は、私の妃だ。この手で選び、この心で愛し、この国で守ると誓った。――誰にも、渡す気はない。」
その瞬間、燭台の炎が一斉に揺らぎ、まるで王の誓いに呼応するように輝きを放った。
レオナードの笑みが、わずかに崩れる。
「……王というものは、いつも感情で国を滅ぼす」
「それでも構わない。私は“王としての理”より、“人としての誓い”を選ぶ」
ルシアンの声は穏やかだった。
けれど、その言葉は剣よりも鋭く、確かな力を帯びていた。
アメリアは、ただその背中を見つめていた。
レオナードはしばし沈黙し、
やがて薄く笑った。
「……面白い。だが、あなたの理想がどこまで通用するか――見ものですね」
夜風が吹き抜け、燭火が一つ、ふっと消えた。
それが、闇の幕開けのように感じられた。




