34話『呪印の始まり』
その日、私はひとり、礼拝堂へ向かっていた。
理由はうまく言葉にできなかった。ただ、お姉様に対して芽生えた黒い感情を、どうにか押し込めたくて――神様に許しを乞うように、静かな礼拝堂を訪れたのだ。
「どうして私ばかり……」
涙の跡を袖で拭いながら、私は祈りの姿勢を取った。
そのとき、背後から――しん、とした空気を裂くように、足音が近づく。
「祈っているのか、少女よ」
声の主は、白と金を基調とした法衣をまとった青年だった。
深紅の髪に琥珀の瞳、そして胸元には――赤い聖印のブローチがきらめいていた。
「……誰?」
「私はただの巡礼者。だけど、君のように美しく、苦しんでいる魂には目を向けたくなる」
私は、彼の言葉を信じたわけではない。けれど、その声音が不思議と心に染み入った。
「……お姉様が、何もかも持っていくの。お父様も、お母様も、いつもあの人ばかり……」
青年は黙って聞いていた。やがて、ゆっくりと腰を屈め、私の目線に合わせる。
「君は祝福されて生まれた。けれど、神は不公平だ。
その苦しみを癒したいと思うのなら……少しだけ、力を貸そう」
青年はそう言って、小瓶を差し出した。中には淡い銀の液体が揺れていた。
私が目を見開いた瞬間、青年の指が彼女の首筋へと触れる――
「これは……痛っ……!」
焼けるような痛みが走った。
首筋に、印が浮かび上がる。
「大丈夫。君は、これで“選ばれた者”になるのだから」
その日を境に、自分が自分でなくなっていくようだった。
いや――もはや、“本当の自分”がどこにいたのかさえ、分からなかった。
感情が膨れ上がるたびに、胸の奥が焼けるように痛む。
姉を見るたび、声をかけられるたび、
「どうして、あの人ばかりが愛されるの」
そんな声が、心の内側から囁いてくる。
まるで誰かが、魂ごと侵食しているかのように。
それでも私は――その違和感を、恐れるよりも先に、受け入れていた。
幸いにも、姉は私よりも前には出なかった。
少なくとも、あの頃の私には、そう見えていた。
誰からも愛され、気遣われ、優しくされて――
それでも姉は、決して私の立場を奪おうとはしなかった。
“私の居場所”を壊さないように、そっと後ろに控えていた。
……だからこそ、余計に腹立たしかった。
何もせずとも光を纏うその背中が、
私には、ただ――憎らしかった。
あの人は、“私に譲ってくれていた”わけじゃない。
最初から、私など眼中になかったのだ。
私は、選ばれていなかった。
生まれた時から、何一つ――。
そう思い詰めるほどに、心は澱み、息苦しさは増していった。
夜になればなるほど、胸の奥に溜まった黒い感情が暴れ出す。
姉の笑顔が浮かぶたび、爪で自分の腕を引っ掻きたくなる衝動に襲われた。
そしていつものように、私は一人、礼拝堂にいた。
静寂の中、蝋燭の明かりだけがゆらゆらと揺れる。
誰もいない聖堂の奥で、私はただ祈っていた。
「どうか、心を鎮めてください」と。
そのときだった。
「――その痛みを、消したいか?」
不意に、奥の陰から現れたのは、一人の男だった。
白金の法衣に身を包み、目に琥珀色の光を宿した青年。
静かで、どこか慈悲深い声音だった。
けれどその眼差しには、何か異質な冷たさが宿っていた。
「何者ですか?」
「私は神の使徒。貴女に救いを与える者です」
その人は言った。
“姉を妬む心”は、神が与えた“選ばれし者の兆し”だと。
“苦しむ魂”にしか触れられない、神秘の力があるのだと。
そして彼は、私の首筋にそっと手を触れた。
「……これは神の印。
貴女の心を鎮め、真の力を引き出すものです。かつて、主が貴女に与えたもの」
肌に触れた指先から、ぞわりと冷たい何かが流れ込んだ。
痛みではなかった。
熱でもなかった。
けれど、私の内側で何かが“塗り替わる”のを感じた。
そしてその日から、私はグレオール様の指示に従った。




