31話『失われた1日』
――朝。
窓辺から差し込む光に目を細めながら、私はゆっくりと身体を起こした。
けれど、すぐに眉間に皺が寄る。
「……あれ?」
身体のだるさはない。けれど、どこか、心に靄がかかっているような妙な感覚が残っている。
夢を見たような気がする。けれど、それが何だったのか思い出せない。
「今日って……何日?」
ふと、寝台の脇に置かれたカレンダーに目をやり、その日付を見た瞬間、心臓が軽く跳ねた。
(おかしい……昨日、何をしてたのか思い出せない)
前日の記憶が、まるごと抜け落ちている。
前の晩に誰と話したか、どこへ行ったか、何を食べたかすら、まったく思い出せない。
「まさか……わたし、ずっと寝てたの?」
寝台から降りて足元に視線を落とすと、ドレスが床に丁寧に畳まれて置かれていた。
その整った様子に、ますます不安が胸を締めつける。
(こんなふうに片づけた覚え……ない。そもそも、いつ着替えたの?)
そばにいた侍女に訊いてみようかと考えたが、何かがおかしいという確信だけが先に立ち、口を閉じた。
(……何かが変。何かが、違う)
胸元に手をやる。いつもならあるネックレスが
「……あれ?」
ない。
慌てて寝台の脇、ドレッサー、衣装棚、机の引き出し、すべてを確かめる。
「ない……どうして? どこへやったの……?」
思わず呟いたその声が、自分でも驚くほど震えていた。
「――エリナ!」
寝台から跳ね起きると同時に、声が出ていた。
扉の外にいた侍女がすぐに駆けつける。
「お嬢様、どうなさいましたか?」
「昨日……私、昨日は何をしていたの?」
強い語気に、エリナは一瞬たじろぐ。
だがすぐに、淡々と答えた。
「昨日は、王宮にお出かけになられていましたよ?」
「……王宮?」
脳裏に、ぽっかりと空いた空白。
昨日の記憶が、まるで霞のように手のひらから滑り落ちていく。
「どのくらい……王宮には、どれくらいいたの?」
「朝早くにお出かけになり、夕刻前にはお戻りでした。ずっとお疲れのご様子で、戻られてからはすぐにお休みに……」
覚えていない。
「ありがとう……もう下がっていいわ、エリナ」
「かしこまりました」
扉が閉まる音とともに、部屋は静寂に包まれる。
(私……王宮に行った? 本当に? 何のために?)
そして、なぜ、記憶が……
なぜ、ネックレスが――消えているの?
廊下から足音がし、扉を叩く音が部屋に響いた。
「アメリア?いる?」
「……お母様?」
返事を待たずに扉が勢いよく開かれ、お母様が血相を変えて駆け込んでくる。
「……どうなさったの?」
胸元を押さえ、息を整えながらお母様は一通の書簡を取り出した。
その手は、わずかに震えていた。
「たった今、王宮からの急使が……。 これを見て」
差し出されたのは、王印の封蝋が押された公式文書。
私は戸惑いながらも、封を開ける。
そこに記されていたのは――
『アメリア・ローズウッド嬢、王妃の座を自発的に辞退し、代わりに実妹リリー・ローズウッド嬢を推挙する旨の申し出を提出。これを受理したことを、ここに通達する』
「えっ」
目を疑った。手が震える。心臓が冷たい手で鷲掴みにされたような感覚。
「わたしが……辞退……?」
「……貴女の周りが、あまりに騒がしすぎるわ」
文書に目を通した私を見つめながら、お母様は低く、けれど焦りを含んだ声で言った。
「お母様……ごめんなさい……」
自分の口が、自分の意志でそんな辞退を申し出たなんて――到底信じられなかった。
「貴女を責めているわけじゃないのよ?まさか……リリーがまた、何かしたの?」
お母様の瞳に一瞬、鋭い疑念が走る。
私は黙り込んだ。
記憶が、まるで霧に覆われたように――なにもかもが曖昧だ。
「私……昨日のことが、はっきりと思い出せないの……」
お母様は驚いたように私を見つめ、そして言葉を落とした。
「……どうしてこんな」
その声には、母としての怒りと、何より深い“恐れ”が滲んでいた。
「あと……」
私はお母様を見据えた。
「ネックレスが……ないのよ。あの首飾りが、どこにも見当たらないの」
お母様の瞳が、わずかに揺れた。
「……ネックレス?」
「リリーが欲しがってたの。お母様、何か思い当たる事がありますか?」
息が震える。
「私が時を戻って来た事を打ち明けた時、驚かなかったですよね……」
「……」
「まるで、そんな事が起きる事は想定していたみたいに」
お母様は口を閉ざし、ゆっくりと目を伏せる。けれど、その沈黙が何よりの肯定だった。
「ねえ……あのネックレスには、一体なにがあるの?どうして、リリーではなく、私に」
「……実はね、アメリア」
お母様の声が、静かに部屋に満ちた。
「あなたを引き取った時――あのネックレスは、封筒の中に一緒に入っていたのよ」
「封筒……?」
「ええ。あなたの名前と、あの首飾りだけが入っていたの」
お母様はゆっくりと、胸元に手を当てた。
「貴女の出生を調べるつもりなんて、最初はなかったのよ。
けれど、ある時――トラーネ連合を訪れた際に、同じ首飾りを目にしたの」
お母様は、記憶を辿るようにゆっくりと語る。
「気になって、由来を調べてみたの。
それで……もう一度、あの封筒を開いたのよ。
あのときは気づかなかった、名前だけが書かれたあの紙を――火で炙ってみたの」
「……え?」
「文字が浮かび上がった」
お母様は、それ以上を語ることを躊躇うように、そっと口を閉ざした。
「だから……私の“回帰”の話を、信じてくれたのですね?」
「ええ。そうよ」
「じゃあ……あのネックレスに宿っていた加護の力だと?」
「本物だったのだと、すぐに思った。
でも、聞いてアメリア。どんな真実があろうと――あなたは私の、大切な娘。
そしてそれは、リリーも同じ」
「……わかっています」
「ネックレスを欲しがっていたリリー。ネックレスと共に記憶が消えたのだとしたら、あの子を疑うのが濃厚ね」
お母様が悲しそうにそう言った。
*L*
夜明け前の空気は冷たく、まるでこの決断の重さを映すかのようだった。
銀の手鏡に映るのは、姉アメリアの顔。
けれど、その瞳の奥には別の感情が渦巻いていた。
「……完璧ね」
私は低く呟いた。
指先に残る微かな魔力の余韻が、まだ肌にまとわりついている。
化身の薬は成功した。
声も、仕草も、歩き方すらも──お姉様そのものだ。
そして、私は王宮へと足を踏み出した。
*
王宮正門前。
「お通しして差し上げてください。ローズウッド家令嬢、アメリア様でございます」
警備兵が緊張した面持ちで頭を下げる。
私は表情一つ変えず、姉のように気品を湛えた歩き方で門をくぐる。
謁見の間。
すでに侍従たちの整列が終わっていた。
王太子・ルシアンが、玉座の脇に立つ。
私の姿を見るなり、微かに目を見開いた。
「アメリア……?」
「はい、ルシアン様──ですが、今日は“最後のご挨拶”に参りました」
一歩、また一歩。
私は姉のように、堂々とした足取りで玉座の前に進む。
「私は、アメリア・ローズウッドとして、このたびの王妃選抜を──辞退いたします」
場が凍りついた。
空気が、時を止めたかのように揺れる。
「それと共に──妹、リリー・ローズウッドこそが、王妃の器であると確信しております」
「……なに?」
「リリーは聡明で、強く、民を思いやる心を持つ令嬢です。
彼女こそが、王国の未来を担うにふさわしい存在……そう、私は信じております」
沈黙の中、私は微笑んだ。




