30話『リリー、ネックレスを欲しがる』
――私よ。
あの人が手を取るのは、当然、私でなければならなかった。
舞踏会の頂点の時間、“主役のペア”として壇上に立つその瞬間。
ルシアン様が私のもとへ来るものと、誰もが思っていた。私も……そう、信じていた。
会場の視線が、まっすぐに私に注がれる。
ドレスの裾を整え、微笑みの角度をわずかに調整する。
“選ばれる”瞬間に備えて――私は、完璧だった。
なのに。
「アメリア・ローズウッド嬢。踊ってくれませんか?」
その言葉を、最初は聞き間違いだと思った。
けれど、ルシアン様の差し伸べたその手が向かっていたのは……私ではなく。
――お姉様だった。
心臓が冷水を浴びせられたように凍りつく。
「……なっ……」
息が詰まり、周囲のざわめきが遠ざかる。
脳が、認識を拒むように思考を停止させる。
お姉様が、その手を取る。
穏やかな顔で、少し戸惑ったように微笑んで……
まるで、“王妃の席にふさわしいのは自分だ”とでも言わんばかりに、当然のように。
ルシアン様の腕の中で、あの女が舞いはじめる。
誰よりも優雅に、気品高く……その姿に、会場中が息を呑んでいる。
まるで、物語の主人公のように。
何よ、これは――!
どうして、どうして私ではないの!
王妃候補として王宮に呼ばれたのは――私だった。
王からの特別な招待状。
専用の部屋。贅を尽くした衣装と髪飾り。
この舞踏会に至るまで、どれほど丁重に、格別に扱われてきたか。
それは、誰の目にも明らかだった。
「次期王妃はリリー様に確定だ」
そんな囁きが、何度も聞こえた。
私自身、それが“当然”だと信じていた。
なのに。
その全てを無視して――
胸が苦しい。
喉が焼けるように痛い。
笑わなければいけないのに、口元が震える。
誰よりも丁重に扱われていた私を差し置いて、どうして。
なぜ、お姉様なの?
全く興味のない振る舞いをしていたのに!
あの女にだけは、絶対に負けたくなかった――!
「リリー様……」
取り巻きのひとりが、気遣うように声をかけてきた。
けれど――彼女の目は、明らかに私ではなく、踊っている二人に奪われていた。
「まぁ、……まるで、陛下の妃のよう……」
「さすがローズウッドの血筋……麗しい……」
何を言ってるの。
あの女に血筋なんでないわ、どこの馬の骨ともわからない捨子なのよ!
貴族たちがざわつく。私の名を忘れたように。
私は、誰よりも愛されて育ってきた。
私こそが、ローズウッド家の正統な後継なのに――!
どうして……どうして、あの女が選ばれるのよ。
爪が手のひらに食い込むのも構わず、私は震える唇をかみしめた。
屈辱と嫉妬に、目の奥が焼けつく。
あれほど「王妃になるのは私だ」と思っていたのに。
気づけば、私は観客の1人に過ぎなかった。
――ああ、どうして、こんなことに。
高鳴る音楽も、湧き上がる歓声も、いまの私には遠い。
ルシアン様がお姉様に手を差し伸べた瞬間から、すべてが無意味に思えた。
――私を、選ばなかった。
足元がふらつき、喉が焼けつくように乾く。
目の奥が熱い。けれど、泣くものか。
私は、ローズウッド家の正嫡として育ったのだから。
取り巻きたちの気まずげな視線を振り払うように、私は舞踏会場を出て人気のない回廊に逃げ込んだ。
(お姉様さえいなければ――)
そんな思考に、微かに足音が重なる。
「……これは、どういうことですか?」
ひやりとした声が、背後から落ちてくる。
振り返れば、法衣の裾を引きずるような男が、ひとり立っていた。
白と金を基調にした聖職者の装い――けれどその瞳は、神の慈悲には遠い、鋭く乾いた琥珀の光を宿していた。
「……貴女は、“王妃”として導かれるはずではなかったのですか?」
まるで、自分の計画を邪魔されたことに苛立つような言い方だった。
「グレオール様」
「リリー・ローズウッド嬢。失敗は、許されませんよ。
――“聖なる使命”を果たせなかった娘に、神の恩寵など下りないのですから」
その言葉に、背筋が凍る。
「……話が、違います」
私は低く、押し殺した声で返す。
「私はふさわしいと認められたからこそ、王妃候補としてこの場に呼ばれたはずです」
男――グレオールは微動だにせず、ただ一歩、静かに前へ出る。
「ふさわしいと、“誰が”?」
その問いに、リリーの表情がぴくりと揺れる。
「……あなたでしょう?あなたが、教皇庁が私を推している――そう言ったから」
「他人頼みはいけません……やるべき事は全てしましたか?」
グレオールの口元に浮かんだのは、笑みとも冷笑ともつかない、形のないものだった。
「……!」
私の胸の奥が、かっと熱くなる。
お姉様を何度も陥れようとしたが、うまくいかなかった。
お母様に毒を盛ったがそれもバレて阻止された。
「他に何をしろと……!」
思わず漏れたその声に、グレオールの琥珀の瞳がわずかに細められる。
「……つくづく手のかかる人だ」
ゆっくりと近づいてくるグレオールが、私の肩にそっと手を置く。
「貴女はまだ“終わった”わけではない。むしろ、ここからが始まりです。……貴女が“本当の力”を手に入れる覚悟さえあるのならば」
その声は、甘く、冷たく、堕落を囁く使者のように響いた。
グレオールは、肩に置いた手をゆっくりと下ろし、袖の内から小さな黒革の袋を取り出した。袋の口を解くと、中から細長い銀色の筒が二本、慎重に取り出される。
「これは?」
リリーが眉をひそめて問うと、男は答える代わりに、アメリアのいる方角へと視線を向けた。
「……あのネックレスを、手に入れてください」
「……ネックレス?お姉様が肌身離さずつけているあのネックレス?」
「そうです。彼女が常に身につけている、首飾り。貴女が今後、“本物の意味で”王妃の座を得るために、どうしても必要なものです」
「なぜ? あれが何なのですか?」
グレオールは、答えなかった。
その代わり、指先で二本の筒をリリーの手に握らせる。
「質問は不要です、リリー嬢。今の貴女に必要なのは、“信頼”と“実行”です」
「……これ、は?」
「一本目には、非常に穏やかな“記憶をあやふやにする効果の薬”が入っています。夜、アメリア嬢の飲み物にこれを垂らせば、彼女は翌日起きた事は覚えていないでしょう。……そのうちに、ネックレスを外して奪うのです」
私の手がかすかに震えた。
「そして……もう一本は?」
グレオールは、わずかに唇を吊り上げた。
「“化身の薬”――一時的に、彼女の姿かたちを貴女に写すものです。……これを用いて、彼女のふりをし、公式に“王妃を辞退する”と宣言してください。そして、自らの“後任”として、貴女の名を口にするのです」
私は思わず息を呑んだ。
「……そんな、欺瞞を……」
「違います。“正当な調整”です」
グレオールは声を低く落とした。
「彼女が選ばれたのは、偶然ではなく“誤算”だった。……帝国と王国の均衡、教皇庁との関係、すべてを整えるには、貴女こそが“適任”なのです」
私はしばらく言葉を失った。
けれど、グレオールの視線がその迷いを許さないまま、まっすぐに私を貫いていた。
「貴女には――選ぶ権利がある。
偽りの栄光にすがる姉を見上げ続けるのか、
それとも、真に“自分の足”で、王座へと踏み出すのか――」
*A*
夜も更けた頃、私はそっと屋敷の扉を開けた。
先程の逢瀬の余韻がまだ体の内に残っている。
胸の奥には、ルシアンの熱い囁きと温もりが微かに残っていた。
けれど――
灯りの消えた応接間を通り抜けようとしたそのとき。
「ねえ、お姉さま」
低く、けれどよく通る声が、闇の中から響いた。
私が驚いて振り返ると、暖炉の脇にリリーが静かに立っていた。
その手には、夜会の礼装から着替えたばかりのガウン。
目元だけが、まるで眠るどころか、夜通し考え続けていたことを語っていた。
「“それ”、私に譲ってくれません?」
リリーの視線は、私の胸元――ネックレスを捉えていた。
その笑顔は、まるで何かを諦めた者のようで。
けれど、確かに、そこに宿る眼差しは――
“決して、諦めない者”のものだった。
「……王妃の座を譲るんだから、それくらい、いいでしょう?」
リリーの声はあくまで柔らかかった。
だが、その静けさの裏にある底知れない何かに、私の指先がわずかにこわばる。
「……“それ”って、ネックレスのこと?」
問いかけに、リリーは小さく笑った。
まるで、最初からその反応を待っていたかのように。
「うん。だって……綺麗じゃない? お姉さまの身につけていたものが欲しいの。お姉さまみたいになりたくて」
「……これは、お母様がくれた大切なものよ」
私の声は淡く、しかし、きっぱりとした意志を含んでいた。
「私もお母様の娘よ」
リリーは一歩だけ近づき、目線を合わせる。
「お姉様が嫁げば、この家は私が継ぐのよ?そのネックレスがあれば、不安もなくなるわ」
その言葉に、私は初めて、違和感ではなく――確信を覚えた。
「リリー……あなた、何を企んでるの?」
「企む? ……ひどいなあ、お姉さま」
リリーは口元を隠すように微笑んだ。
「ただ、ちょっと。未来の準備をしているだけよ」
「……」
「だから、そのネックレス、私に譲って? ね?」
夜の帳が、ゆっくりと屋敷を包み込む。
私の中に、初めて“妹の本気”が冷たく刺さる音がした。
「ダメよ。あげられないわ」
私はまっすぐにリリーを見据えて、言葉を返した。
リリーは一瞬だけ沈黙したあと、ふっと微笑む。
まるで、それも想定内だったかのように。
「そう……残念ね、お姉さま」
その声は、柔らかい絹のような音色をしていた。
けれど――その瞳の奥で、何かが冷たくきらめいた。
「じゃあ、しかたないわね」
リリーは軽く肩をすくめて、踵を返す。
「……王妃の座だけじゃなく、“それ”まで独占するなんて……ほんと、ずるいわよ、お姉さま」
その背中にはもう、妹らしい甘えも、素直な悔しさも、取り繕う影さえなかった。
私は、その細く美しい後ろ姿を見送りながら――
初めて、はっきりと「この妹と向き合うべきときが来た」と悟った。
リリーは、ただ拗ねているわけではない。
この夜を境に、何かが確実に動き出す――そんな予感が、静かに胸を締め付けていた。
リリーが去った扉の音が静かに響いたあと、私はその場に立ち尽くしていた。
心のどこかが、音もなく軋んでいる。
――なぜ、あんな風になってしまったの。
不意に、後ろから柔らかな足音がした。
振り返ると、そこにはお母様がいた。
「……アメリア?」
優しくも厳しいその声に、私は小さく息をのむ。
「お母様……」
振り向いたその瞳は、いつになく鋭いものだった。
しかしその奥には、混乱と焦燥が見え隠れしている。
「あなた……今日のことは、一体どういうつもり?」
その声音は、怒りというよりも――理解の追いつかない状況への戸惑い。
「リリーを差し置いて……貴女が、選ばれるなんて」
私はしばし、何も言わず母を見つめた。
その静寂が、かえって真実の重さを際立たせる。
「……何が起きているの? 何も知らせずに……」
「ごめんなさい」
私は一瞬だけ目を伏せた。
そして、意を決したように――小さく、けれど確かに頷く。
「お母さま。もしも私が、“一度すべてを失った”と言ったら……信じてくれる?」
母の体が、ぴたりと止まる。
「……え?」
「そしてその時……リリーが、何をしたかも――」
そこで、私の瞳が揺れた。
「なんの事を言ってるの?」
「私は、死んだの。罪人として処刑された。リリーに嵌められて」
母の口元が、驚愕に震える。
「だけど、ネックレスが、“時を巻き戻して”くれたの」
「……ネックレス……?」
「お母さまが、私に託してくれたこのネックレスが、奇跡をくれたのよ」
私は、ネックレスに手を触れる。
先程まで驚いていたお母様が、ネックレスの話をした途端、急に黙り込み落ち着きを取り戻した。
「そ、そのネックレスが……」
「お母様……?」
そしてポツリと、悟ったように言った。
「私は母親失格だったのね」
母の声が、小さく震えていた。
それは私の知る、あの温かく、芯の強い母の声ではなかった。
むしろ、どこか少女のように――痛みを訴える声だった。
「私が……きちんと二人を見ていれば、こんなことには……ならなかったのに」
私は目を見開いた。
「……お母様……」
「リリーが……貴女に……なんてこと……」
呟きながら、母はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
震える指先が、口元を押さえていた。
「……リリーが……」
私は言葉を失ったまま、母を見つめる。
ずっと気丈だった母が、こんなふうに取り乱す姿を、見たことがなかった。
「――私のせいだわ。
あの子に、きちんと愛を与えられなかった。
あの子に、嫉妬も執着も、正しく教えてやれなかった。
貴女を……守ることもできなかったのね……」
その言葉に、私の胸が締めつけられる。
「お母様、それは違うわ。誰のせいでもない。私は――」
けれど母は、涙に濡れた目で私を見上げた。
「いいえ、母親である私が、あの子の歪みに気づいていれば、防げたはずなのよ。
なのに私は、貴女に――あなたばかり辛い目に……」
私は、母の肩にそっと手を置いた。
「……お母様、こんな話、信じてくださるだけで嬉しいのよ……」
「ごめんなさい、アメリア」
母の声が、消えるように震えていた。
*L*
月明かりが、廊下の端にひっそりと佇むひと影を照らしていた。
私は、柱の陰に身を隠しながら、閉ざされた扉の向こうから漏れ聞こえる会話に耳を澄ませていた。
母と姉――。
愚かにも、あの二人は今さら愛情だの赦しだの、そんな戯言にすがっている。
それが私には、滑稽で仕方がなかった。
苦笑する唇の端を、きゅっと吊り上げる。
――あのネックレスが、まさか時を戻していたなんて。
通りでお姉様がやたらと強気で突っかかってきていたわけだわ。
“回帰”だなんて……でも、アレを私が使えば、勝ちじゃない?
私の指先が、そっと腰に隠し持った小瓶へと伸びる。
グレオールから渡された“薬”。
「お母様も、お姉さまも……頭の中が平和ボケしてるわね」
月の下、うっすらと笑みを浮かべながら、私は静かに背を向けた。
その瞳は、冷たく光を失っていた。
――深夜。
侯爵家の屋敷は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
お姉様の私室。姉妹であっても、勝手に立ち入るべきではないその部屋の扉を静かに開ける。
「……お姉様ったら、不用心」
私はほくそ笑む。
薄暗い廊下の陰からそっと身を滑り込ませ、音もなく床を踏みしめながら中へ入る。
窓際のカーテンが夜風に揺れ、月明かりが部屋を淡く照らしていた。
その光の下、お姉様は穏やかな寝息を立てている。
(この部屋……小さい頃、よく忍び込んだわ。あの頃は、ただ“好き”って気持ちだけだったのに)
胸の奥に沈んだ想いを打ち消すように、私は手の中の小瓶を見下ろした。
グレオールから渡された魔法薬。――一本は、記憶をあやふやにする薬。もう一本は、化身の薬。
「用心深いから飲みものに混ぜるより、直接口にした方がいいわよね」
ベッドの横にあるサイドテーブル。そこには、いつものように用意されたアメリア用のハーブティーがあった。だがそこには入れない。
私は、微かに笑みを浮かべながら瓶を取り出し、それを一滴唇にのせた。
唇にじわりと水滴が滲んでいく。
お姉様は違和感を感じたのか、寝返りをうつ。
「おっと、危ない」
そしてお姉様は、ペロリとその違和感である濡れた唇を舐めた。
やったわ!!
私は笑いそうになるのを必死で堪えた。
そしてもう一方の小瓶――化身の薬を、自身の袖の中へとしまい込む。
それを飲み、王城へ向かい、“アメリア”として王妃の座を辞退し、リリー(私)を推薦する。
完璧な“入れ替わり計画”。
「……お姉様が悪いのよ?私から何もかも奪ったんですもの、これくらい、当然よね」
月明かりの中、お姉様の寝顔を見下ろしながら、私は微笑んだ。
「ああ、いけない。忘れるところだった。この首飾りも頂くわね、お姉さま」




