28話『王宮の舞踏会』
春の終わりを祝う王宮主催の舞踏会。
それは単なる社交の場ではなかった。
“次期王妃候補”を王太子ルシアン自らの言葉で発表する――
王国中が注目する、政治的な意味をも持つ公式行事。
そして、その最後に踊る“選ばれし者”こそが、未来の王妃と目される。
陽光が差し込むドレッシングルームで、リリー・ローズウッドは大きな姿見の前に立っていた。
その身に纏うのは、至る所に宝石を散りばめた煌びやかな純白のドレス。
細やかな刺繍が胸元から裾へ流れるように施され、腰には宝石が大きな輝くブローチが輝いている。
スカートは大胆なマーメイドカットから後ろにかけてふわりと広がり、まるで天使のようで皆の視線を奪う。
「やっぱりこれが一番ね……今夜の“主役”にふさわしいのは、これしかないもの」
鏡越しに、自分の姿をうっとりと見つめる。
侍女たちが周囲で手早く髪を整え、香水を選び、アクセサリーを準備している。
その手際もどこか、リリーの“選ばれる確信”に影響されたように落ち着いていた。
「王妃の座なんて、最初から決まっているのよ。アメリアお姉様? ふふ……あんな影の薄い、質素なドレスしか着られないような人じゃ、王の隣には立てないわ」
口元を隠して笑いながら、リリーは小さな金の耳飾りをつける。
その耳飾りは――母から譲られた、由緒あるローズウッド家の証。
けれどリリーにとっては、それすらも「王妃としてふさわしい自分」の装飾品でしかなかった。
「“選ばれし者”が最後に踊る……ってことは、わたしが、彼と踊るってこと。
みんなが見てる中で、未来の王太子妃として……完璧な姿を見せてあげる」
侍女の一人が「リリー様、本当にお美しいです……」と囁いた。
リリーは満足げに微笑んで言う。
「当然でしょ? 今日は、わたしの夜なんだから」
舞踏会の夜――
ローズウッド家の正門前。
石畳には月明かりが落ち、控える二台の馬車が、それぞれ異なる光を放っていた。
一台は家付きの黒塗りの馬車。私が用意した、いつもの控えめな送迎用。
そしてもう一台――
王宮から送られてきた、白銀の飾り馬車。
紋章入りの扉、金で縁取られた窓、付き人まで備えた豪華なそれは、誰の目にも明らかに“特別”だった。
私が支度を整えて玄関を出ると、ちょうど同じタイミングで、リリーが階段を降りてきた。
光を受けて煌めくドレス。きらきらと揺れる宝石の耳飾り。
リリーは私を見つけて、ぱっと花が咲いたように微笑んだ。
「お姉様も、準備できたのね」
「……ええ。馬車に行きましょう」
私が黒馬車に向かおうとしたそのとき、
リリーの背後から、馬車の御者が恭しく一礼した。
「リリー・ローズウッド様。王宮より、お迎えに参りました」
リリーはわざとらしく少し驚いたような顔をして、でもすぐに――誇らしげに微笑んだ。
「まあ……王宮ったら、気が早いわね。まるで、わたしが“選ばれる”と決まっているみたい」
そう言って振り返ると、私と目が合う。
そして、少しだけ申し訳なさそうな、でもわざとらしく優しげな声で言った。
「本当は、同じ馬車で行きたかったのだけれど……」
私は無言で見つめる。
リリーは艶やかに笑って、こう続けた。
「これは“わたしのために来た”馬車だから。ごめんなさい、お姉様」
“あなたを乗せてあげるわけにはいかないの”
そして次の瞬間、リリーはドレスの裾を軽やかに払って、
自分にだけ差し出された豪華な馬車に乗り込む。
扉が閉まる。
白銀の馬車が、ゆっくりと私の視界から遠ざかっていく。
あとには、静かな風と、黒塗りの控えめな馬車だけが残った。
私が静かに馬車へ乗り込もうとした、そのとき。
背後から、軽やかな足音が響いた。
「アメリア?」
振り返ると、母・マルグリットも準備をし出てきたところだった。
薔薇色のケープを羽織り、夜風に髪を揺らすその姿は、昔の名残を感じさせる凛とした美しさがある。
「馬車の音が聞こえたけれど、もう出発なの?……あら?」
お母様はきょろきょろと辺りを見渡し、不思議そうに首を傾げた。
「リリーは?一緒じゃないの?」
私は一瞬だけ返答に迷い、そして微笑んだ。
「……さきほど、王宮から迎えの馬車がいらして。そのまま先に向かいました」
「まあ……」
お母様は驚いたように目を丸くしたが、それは誇らしげな母の顔だった。
「やっぱり、リリーには特別扱いなのね。まったくあの子ったら……お姉様を待たずに、なんて」
小さくため息をつきながら、どこか嬉しそうな笑みを浮かべる。
「でもまぁ、今夜は主役のつもりでしょうから。うふふ、仕方ないわね」
その喜ぶお母様の姿を見ると、お母様からすれば娘の私達への平等な愛を感じ、そして胸が傷んだ。
ルシアンとはあの日から連絡を取っていない。
なんの策も練らないまま、日々は過ぎてしまっていた。
先日のことも、まるで夢だったのではないかと思い始めていた。
「大丈夫かしら……」
馬車の窓辺に頬を寄せて、思わずつぶやく。
春の終わりを告げる風が、街を柔らかく撫でていた。
夜空には淡い月。けれど、その美しさすら心に届かない。
馬車は静かに、王宮の門へと向かっていた。
煌びやかなシャンデリアが天井からいくつも垂れ下がる、王宮の大広間。
音楽と笑い声、香水の甘い香りが渦を巻くその中心に、ひときわ目を引く姿があった。
——純白のドレス。
ドレスの胸元から裾にかけて、繊細にちりばめられた宝石が光を受けてきらめき、まるでその身を纏った者が“祝福された存在”であるかのように錯覚させる。
「見て、リリー様のお召し物……素敵!」
「間違いなく、今宵の主役ですわね。王妃の座にふさわしいお方……!」
リリーの周囲には、貴族の令嬢たちが取り巻きのように群がり、まるで“戴冠前の妃”に仕える侍女のような振る舞いをしていた。
リリーは自信に満ちた笑みを浮かべ、ゆっくりと首を傾げながら、手元の扇で顔を隠す。
私は、少し遠巻きからその光景を眺めていた。
と、その時。
リリーが私の存在に気づき、ぱちりと目を細めた。
「……あら、お姉さま?」
取り巻きたちが一斉に私の方を向く。
リリーは滑るように歩み寄ってきて、ドレスの裾を優雅に持ち上げながら言った。
「見当たらないので。てっきり、来られないのかと」
「……お招きいただいたのに、来ないわけにはいかないでしょう?」
「ふふっ、今夜は楽しみましょう?お姉様」
リリーは私のドレスを見て、上品に扇で口元を隠しながら——
「そのシンプルなお召し物、とっても……落ち着いていて。まるで、使用人のようで素敵ですわ」
と言ってのけた。
周囲の令嬢たちが小さく笑い声を漏らす。
私は黙って一礼すると、リリーの脇を通りすぎようとし、足をとめた。
私は、穏やかな微笑を浮かべたまま、一歩も引かずに言い返した。
「ええ、たしかに派手ではありませんね。けれどこれは——」
私は、スカートの裾にそっと指先を滑らせる。
「〈星絹〉という、かつて王家にしか許されなかった布地で仕立てられたものなの」
リリーの眉がぴくりと動いた。
それは、伝説級の布。年に数メートルしか織られず、見る角度によって光が変わる“星を織り込んだ布”とも称される幻の素材。
「王都でもたった一人、王室御用達の針師エトワールだけが縫える生地よ。お母様がかつて依頼して、ずっと保管していたの。……知らなかった?」
扇を握るリリーの指が、かすかに震えた。
そんな姉のドレスを、彼女は先ほど“使用人みたい”と貶めたのだ。
「見る目がない方には、ただの布に見えるのかもしれないけれど……」
私はふっと、笑みを深めた。
「私はこの一着に、母の想いと、誇りと、祝福を込めているの」
リリーは言葉を失ったまま、何も返して来なかった。
周囲の取り巻きたちの目も、アメリアのドレスに向けられる。
たしかに……よく見れば、そのドレスはただの地味な布ではない。
灯りに反射して微細に輝くその繊維は、光を抱くように美しい。
「……ふふっ。まあ、趣味の違いというものですわね」
そう取り繕って、リリーは再び取り巻きの輪へと戻っていった。
*L*
「見る目がない方には、ただの布に見えるのかもしれないけれど」――ですって?
……あの言い方、まるで私が“見る目がない”って言っているようなものじゃない。
それに、“お母様の想いが込められている”ですって?
――まるで、あなたの方が私よりも“上等な想い”を背負っているとでも言いたいの?
ふざけないで。
私のほうがずっと綺麗で、ずっと華やかで、誰よりも目を引いていたはずなのに。
どうして、あんな地味な布きれに皆の視線が集まるのよ……。
笑って、その場を取り繕うのが精一杯だった。
本当は――悔しくて、仕方がなかった。
なにが「母の想い」よ。
そんなの、私には――
(……ないもの)
ぐっと唇を噛みしめる。
さっきまで誇らしかったこのドレスが、まるで虚飾の鎧みたいに思えてきて……どうしようもなく、腹が立った。
――でも、いいわ。
どれだけ綺麗事を並べても、最後に選ばれるのは私。
“本当に王妃にふさわしい女”は――
あなたなんかじゃない。
私よ、お姉様。
だって、私には。
私には、強力な後ろ盾があるもの。
その証は、誰にも見えない場所に刻まれている。
ざわり、と。肌の奥が熱を帯びる。
うなじの下、髪の下に隠れたその刻印が、ふいに淡く赤黒く輝いた。
*L*
煌びやかな灯りと音楽が響く会場の奥。
人々の視線が一斉にある一点に向けられた。
――空気が、変わった。
その人物の歩みに合わせるように、緩やかに道が開かれていく。
深い藍の軍礼装に銀の刺繍を纏い、ひときわ目を引く美貌と威圧感。
異国の使節にして、帝国屈指の名門公爵家の嫡男。
「帝国政務大使、レオナード・エル・ヴァルハルト閣下、ただいま御到着です――!」
王宮付きの執事の声が響いた瞬間、私の周囲に集っていた取り巻きがざわついた。
「えっ、帝国の……!?」
「なんて、堂々とした……!」
(帝国の大使?)
貴族たちの間に緊張が走るなか、お姉様の前で彼が静かに足を止める。
「またお会いしましたね、文官殿」
深く頭を垂れるその所作は、国を背負う使節というより、旧知の親しい友人のように見えた。
どうしてお姉様と?
*A*
「またお会いしましたね、文官殿」
声をかけられた私は、彼と視線を交えた。
レオナードの口元が僅かにほころんだ。
「ずいぶんと上等なドレスを着ている。……王太子殿下の随行役にしては、場違いなほどだね」
その口調はからかうようでいて、どこか探るようでもあった。
軽い言葉の奥に、こちらの反応を測ろうとする意図が透けて見える。
「私はてっきり、書類の山と格闘してるものだと思っていたよ」
「……殿下の随行?人違いではありませんか?」
私は微笑みを崩さず、静かに礼を返す。
「ふむ……言葉遣いも、所作も……どうも君は“ただの文官の娘”ではなさそうだ」
「勘違いなさっているようですが、それより――今日は舞踏会を楽しみにいらしたのでしょう? 他にも魅力的な方は大勢いらっしゃいますわ」
「それはもちろん。“王妃”という最も重要な椅子に座る女性が、気になって仕方ないからね」
目を細めたレオナードが、私の顔をじっと見つめる。
「それより……君のような“見過ごせない存在”の方が興味深い」
私は何も答えず、ただ静かに視線を返す。
静かに視線を交わしていた私たちのあいだに、
柔らかな音楽が一瞬止む。
そして、ほどなくして──
会場の一角に設けられた階段の上から、
誰もが知るその声が響いた。
「本日は、ご多忙のなかお集まりいただき、心より感謝いたします」
会場が一斉に振り返る。
そこには、深紅の礼装に身を包んだ王太子・ルシアンの姿があった。
ゆっくりと視線を巡らせ、穏やかな微笑みを浮かべた彼は、
まるで一人ひとりの名を知っているかのような丁寧さで言葉を紡ぐ。
「この舞踏会は、王国の未来を担う方々との、
新たな絆を結ぶ機会であると、私どもは考えております」
その一言に、場が緊張感を孕む。
誰が「未来を担う」のか──それが、今日選ばれるのだから。
「どうか皆様が、それぞれの魅力を余すところなく披露され、
心から舞踏会のひとときを楽しんでいただけますように」
ルシアンは軽く頭を下げ、静かに言葉を結ぶ。
「それでは──舞踏会の開宴を、宣言いたします」
会場が一瞬、静まり返った。
そして次の瞬間──、華やかな音楽が再び流れ始める。
私はレオナードから視線を外し、階段上の彼を見上げた。
──ルシアン。
深紅の礼装に身を包んだ彼は、舞踏会の主として完璧な振る舞いをしていた。
優雅に言葉を述べるその姿は、堂々たる“王太子”そのもの。
けれど──
目が合った、次の瞬間。
彼の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
会場中の誰にも気づかれぬように、けれど確かに。
その眼差しは、数えきれない客のなかで、
ただ一人、私だけを捉えていた。
胸の奥が、ふと熱を帯び、私は視線をそらした。
視線を最後まで逸らさなかったのは、彼のほうだった事には、気づかないまま。
「ふふ……わかりやすいなあ」
レオナードが、含み笑いを漏らした。
「……何が、ですか?」
私が問い返すと、彼は肩をすくめながらも、まっすぐに私を見た。
「いや……君は一体、彼の“何”なのだろうと、そう思っただけさ」
「……勘違いです」
私は静かに言い切った。
レオナードの目が、微かに細められる。
「なら──踊っていただいても?」
その手が、優雅な所作で差し出される。
断る理由など、なかった。
私はドレスの裾を摘み、ほんのわずかに礼を返す。
「喜んで」
*
音楽が変わり、ワルツが流れ始める。
レオナードが軽やかに私を導いた。
その動きは、まるで貴族の教本から抜け出したように洗練されていて、
私の動きに合わせて、寸分の狂いもなく寄り添う。
「踊りは得意なんですね?」
「君ほどじゃない。だが、こうして踊る相手が良いと、脚も冴える」
軽口を交わしながらも、
私たちのステップは、次第に音楽と一体となっていく。
まるで一輪の花が、夜に咲き誇るように。
緩やかに、しなやかに、
けれど確かな存在感で、私たちは舞踏会の中心を埋め尽くしていた。
──気がつけば、会場の空気が変わっていた。
息を飲んだように静まり返った空間の中で、
誰もが私たちの舞に、視線を奪われていた。
揺れるドレスの裾、すれ違う吐息、
手と手が触れ合う一瞬の静寂。
それらすべてが、計算された芸術のように美しく、
誰にも真似できぬ気品と緊張感を放っていた。
「……やはり、君は只者じゃないな」
低く囁かれたその声に、私は微笑むだけで応えた。
優雅な旋律に身を任せながら、レオナードと私は舞踏会の中心で軽やかにステップを踏んでいた。
揺れるドレスの裾、交わる視線、指先にかかる確かな温度。
――けれど、ふとした瞬間。
私の視界の隅に、ひときわ険しい表情が映った。
会場の奥――ルシアン。
彼はまるで、今すぐにでも誰かを叱責しそうな顔で、こちらを睨んでいた。
(……あんな顔、するのね)
そのあまりのわかりやすさに、私は小さく目を見開いた。
「凄い顔だな」
低く笑ったのは、目の前のレオナードだった。
彼はさりげなく視線を向け、そして肩をすくめてみせた。
「まさか、あの王太子殿下があんな顔をするとは思わなかったな。……君は一体、何者なんだい?」
「ただの侯爵令嬢ですわ」
「ほう、ただの、ね」
彼の口元には、愉快そうな微笑が浮かんでいた。
「――名を、聞いても?」
その問いに、私はほんの一瞬、ためらった。
だが、偽りはこの男には通じない気がした。だからこそ、私は静かに口を開く。
「……アメリア・ローズウッド。ローズウッド家の次期当主です」
その名を告げた瞬間、レオナードの眉がわずかに上がる。
「――ほう。
あの有名なローズウッド家の、次期当主様でいらしたとは」
レオナードはゆっくりと私から手を離し、品のある所作で一礼した。だが、その口元には皮肉とも取れる笑みが浮かんでいる。
「なるほど……道理で、只者ではないわけだ」
感心したように小さく笑うその様子は、皮肉でも嘲りでもなかった。
ただ、純粋に――面白がっているのだ。私という存在を。
レオナードはひとつ深く息を吐くようにして、私を見つめた。
「……益々、君に興味が湧いたよ」
その声は冗談めいて軽やかだったが、瞳は冗談ではなかった。
鋭く、好奇心に満ちた眼差し――獲物を見定めるような、それでいて美術品を眺めるような。
「君が“何者か”を探ることが、今夜の一番の娯楽になりそうだ」
そう言って、彼は笑みを浮かべながら再び私の手を取った。
まるで、次の一手を楽しみにしているチェスプレイヤーのように。
私が踊りの余韻を引きずったまま息を整えていると、レオナードがそっと顔を近づけ、誰にも聞こえないような声で囁いた。
「レディ・アメリア――君に、ひとつ提案がある」
彼の瞳が、冗談めかした色を捨てて、真剣な光を宿す。
「僕と、共に未来を歩まないか?」
一瞬、私は何を言われたのか理解できず、言葉を失った。
レオナードは微笑みながらも、口調を変えず続ける。
「王国と帝国、今こそ新たな時代を迎えるべき時だ。
君と僕が手を取り合えば――両国の絆は、かつてないほどに強くなる」
「それは……政略として、ということですか?」
「もちろん。それが建前だ。だが、本音は少し違う」
レオナードはふっと微笑んだ。
「君のような女性に出会ったのは、初めてなんだよ。
知性と品格、そして――芯の強さを併せ持った、まるで“未来の女王”のような存在に」
レオナードの言葉を静かに聞き終えた私は、
目を伏せ、ひと呼吸おいてからゆっくりと顔を上げた。
そして――凛とした声音で、しかし微笑を絶やさず、こう告げる。
「申し訳ありませんわ、閣下。
わたくし――政略結婚は、しない主義ですの」
その言葉はやわらかでありながら、
まるで剣のように明確な意志を帯びていた。
レオナードの唇に、ふっと苦笑が浮かぶ。
「……なんと、明快なお答えだ。ますます君に興味が湧いてきたよ、レディ・アメリア」
「そうおっしゃる方ほど、飽きるのも早いと思いますけれど?」
「さて、どうだろうね。それは――君次第だ」
軽く視線を絡めながら交わすやりとりは、舞踏会の中でも異質な緊張を孕んでいた。
それはまるで、ゲームの幕開けのように。
盤上に置かれた言葉と視線が、互いを試し合っていた。
*L*
――なによあれ。
帝国の男とまるで主役みたいな顔して踊って。
……ふん、くだらない。
帝国にでも取り入るつもり? いかにもお姉様らしい。
地味で古臭いくせに、そういうところだけは抜け目がないのよね。
けれど――
周囲の視線は一斉にお姉様へ向いている。
高貴で洗練された舞い。優雅で、気品に満ちた立ち居振る舞い。
……おかしいじゃない。
私の方が若いし、華やかだし、育ちだって“正統”なのに。
あんな養女が、どうしてあそこまで注目されているの?
(このドレスだって、最新の仕立てよ? 髪飾りも、靴も――全部完璧なのに)
音楽が止まった。
舞が終わり、閣下とお姉様は優雅に礼を交わすと、ゆっくりと歩き出した。
ふっと息を整えて、自然に彼の方へと視線を向ける。
きっと私に挨拶に来る。
そうよね、彼のような聡い方なら、私の価値を――
……なのに。
男は私の存在など最初から目に入っていなかったかのように、その横を――すん、と通り過ぎた。
え?
あまりにも、あっさりと。
一瞥すら、与えずに。
「っ……」
頬が熱くなった。
悔しさ? 怒り? いいえ――これは、侮辱よ。
なによ、帝国の男なんて! あんなの、きっと見る目がないのよ!
取り巻きの子たちが、気まずそうにわたしの顔を窺っていたけれど、
すぐに誰かが慌てて言葉をつなぐ。
「リリー様のお美しさに嫉妬して、あえて無視したのかもしれませんわ」
いちいち余計な言葉にしなくていいのよ!
「リリー様のような方が、王妃にふさわしいのは誰の目にも明らかですもの!」
そうね、当然よ。
私の方が上。私の方がふさわしいに決まってる。
……なのに、どうして。
彼が姉を見ていた、あの目。
周囲が息を呑んで見守ったあの舞。
まるで“本物の妃”のようだった。
……まるで、私じゃない誰かが主役の舞台みたいで――
「ふ、ふん……。田舎貴族風情が、見る目もないのね」
扇子をひらりと持ち上げ、わざとらしい笑みを浮かべる。
けれど、手の中の扇子が、ほんのわずかに震えていたことに、私は気づいていた
*A*
やがて、会場の空気がふっと変わる。
音楽が次の曲へと切り替わり、舞踏会における“主役の一組”――すなわち、
王太子が自らの手で踊る相手を選ぶ時間が、ついに訪れた。
壇上へと姿を現したのは、王太子ルシアン。
一瞬で、場の喧騒が止む。
会場が、ぴたりと静まり返る。
その沈黙の中で、彼の声が響いた。
「今宵、私は――この場で“王妃候補の名”を呼び上げるつもりはありません」
一瞬、会場全体がざわついた。
「婚姻とは、政でも、義務でもない。
――“意志”によって結ばれるべきものだと、私は考えています」
列席していたリリーが、ぴくりと肩を強張らせるのが見えた。
「ゆえに私は、“ただ一人と踊る”ことにしました。
それが王妃の座に繋がるものでなくとも――」
その言葉を残し、ルシアンは静かに壇を降りる。
「私の最愛の女性と」
その瞬間、会場の視線が――自然とリリーへと集まり始める。
やはり“本命”は彼女か。
この後、彼の手が向かうのは、当然――
……そう思われた、その刹那。
差し伸べられたその手は、まっすぐに――
私のもとへ、伸ばされていた。
「アメリア・ローズウッド嬢。踊ってくれませんか?」
時が止まる。
人々の視線が、一斉にこちらへ向く。
会場全体が、息を呑み、言葉を失っていた。
一歩、踏み出せば、すべてが変わる――。
けれど、ここで立ち尽くすことは、もっと多くを失う。
会場に集まるすべての視線が、私を突き刺していた。
リリーの驚愕と憤怒、母の沈黙、そして……
彼の瞳は、まっすぐに私を見つめている。
(躊躇っては、ならない)
誰にどう思われようと、私自身の“意志”で選ぶのなら――その手を、取る理由は、もう十分だ。
私は静かにスカートを摘み上げ、微笑んだ。
「光栄です、殿下」
その手に触れた瞬間――会場の空気が、音を立てて揺れた。
こんなはずではなかったのに――。
私はただ、妹リリーの暴走を正したかっただけ。
王妃の座など、もとより私の望むものではなかった。
そう、自分に言い聞かせてきた。
けれど――。
ルシアンは今、この場で私を名指した。
“ただ一人と踊る”と、万人の前で。
まるで、私の存在こそが“選ばれしもの”だと言わんばかりに。
政治ではなく、義務でもなく、“自分の意志”で選ぶと仰った。
私の名を、誰より強く、確かに口にした。
こんな公の場で。
……戸惑わないはずがない。
胸の奥が、ぎゅう、と熱を帯びる。
私は迷いを抱えたまま、けれど気高く一歩を踏み出した。
差し伸べられたその手に、誰よりも丁寧に応じるために。
曲の旋律が、しっとりとした高音へと移ろいゆく。
ルシアンの手に導かれ、私は彼と視線を交わしたまま、静かにステップを踏む。
けれど――その澄んだ瞳に、ふと翳りが差した。
「……君がレオナードと踊っているのを見たとき」
ルシアンが、低く、誰にも聞こえぬように私の耳元で囁く。
「正直、とても穏やかな気持ちではいられなかった」
舞踏の優雅なリズムに身を任せながら、私は一拍遅れてまばたきをした。
「まさか、殿下また――」
「はらわたが煮えくり返る、とはまさにああいうことを言うんだろうね」
彼の声音はさらりとしていたけれど、そこに確かに嫉妬の熱があった。
私は小さく笑みを浮かべる。
「……すぐに嫉妬なさる」
「……僕が一人としか踊らないと決めていたのに、君は随分と、楽しそうだったじゃないか」
その声音は、まるで拗ねた少年のようで――
それを隠すように真顔を装っているところが、余計に可笑しかった。
「僕だって踊りは得意なんだよ」
「ずいぶんと……負けず嫌いなのですね」
「君に関しては、ね」
「ですが……公にこんなことをしては、もう後戻りできないではありませんか」
小さく息を呑み、私が囁くと、ルシアンは静かに微笑んだ。
「後戻りなどしないよ」
その声に迷いはなかった。
そして――彼はそっと続ける。
「僕の隣に立つべきは、君以外にいない。
たとえどれほど波紋を呼ぼうとも、僕の心は変わらない」
次の瞬間、二人は旋律に身を任せ、舞い始めた。
それは、先ほどのレオナードとの舞とはまったく異なる空気を纏っていた。
気高く、優雅で、どこまでも真摯な――王とその“未来”を想起させるような、格式と想いに満ちた踊りだった。
ルシアンの所作は一分の隙もなく、アメリアの動きはすべてが自然に、しかし凛とした意志を帯びている。
まるで二人は、はじめからそうあるべくして“対”を成していたかのようだった。
会場が、息を飲む。
誰もが思い出していた――
王妃とは、美しさでも家柄でもなく、“王と並び立つにふさわしい器”を問われる存在であることを。
やがて曲が静かに終わると、拍手ではなく、ひと呼吸置いてからの、万雷のような喝采が響き渡った。
それは、ただの舞踏への賛辞ではない。
――王国の未来を、この夜に見たのだ。




