25話『つかの間のひととき』
「……こういうことを言ってはいけないかもしれないが」
馬車の中、ルシアンはふと窓の外に視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「はい」
私が穏やかに応じると、彼は微かに唇を噛むようにして、言葉を続けた。
「帰りたくない」
その一言は、驚くほど率直で、少年のように寂しげだった。
「ルシアン……」
名前を呼ぶ声が、思わず柔らかくなってしまう。胸が少しだけ痛んだ。
「このまま……君とずっとここにいたい。そう言いたいけれど、母君に怒られそうだ」
ルシアンは小さく息を吐き、少しだけ肩をすくめた。
「病状が重いわけではありませんが……罰が当たりそうですね、母からの」
「うむ。まったくだ」
冗談めいたやりとりの奥に、ほんの少しだけ本音が混じっているのがわかる。
窓の外には、ゆるやかな山の稜線が見えてきた。もうすぐ谷に差し掛かる。
「もうすぐ谷に着きます。そうすれば……すぐに王都に戻らなければなりませんね」
私が言うと、ルシアンは名残惜しそうに視線を落とした。
「……当分のあいだは、僕たちの関係も、内密にしなければならない」
「はい。だから……」
「会いたいときに、会ってはならないのか」
彼の低い声が、胸の奥にじんわりと染み込んでくる。
「そうなります」
私も視線を落としながら、静かに肯いた。
「――帰りたくない」
もう一度、彼は同じ言葉を零す。
たった数文字なのに、その言葉には、彼のすべてが詰まっている気がした。
「……まぁ」
私はそっと微笑んだ。
嬉しくて、切なくて、少しだけ泣きたくなるような気持ちだった。
木々の葉が風に揺れ、車輪の軋む音がかすかに響く。窓の外に広がるのは、北の大地特有の乾いた風景。
「そういえば……エルシア山脈って、帝国領でしたよね?」
ルシアンは隣で書類を読んでいた手を止め、軽く視線を上げた。
「ああ。正式には帝国の北端領。とはいえ、事実上は“無主の地”になってる」
「無主の地?」
「帝国の内政が崩れて久しい。王族は名目だけ。中央からの支配は、辺境までは届かない。山脈なんて、誰も管理していないのが実情だ」
私は膝の上で手を組みながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……内乱が激しいと伺いました、ヴァルハルト帝国は」
ルシアンは軽く頷き、視線を遠くに投げる。
「かつては大陸を支配した誇り高き大国家だったが、今は見る影もない。王家の血筋はすでに絶えた。残っているのは、玉座を奪い合う貴族と軍閥、そして教会の傀儡だけだ」
「……誰が統治しているのですか?」
「名目上は“皇帝代理”なるものがいるが、実態は空っぽだ。誰も国を治めようとしていない。皆、自分の取り分のことしか考えていない」
「……悲しいですね」
「いや。哀れなのは、その混乱の中で、民たちが何も知らされず、ただ搾取されていくことだ」
私は少し眉をひそめた。
「……リデル王国って、昔は帝国の属国だったんですよね?」
ルシアンは窓の外に目を向けたまま、少しだけ笑った。
「ああ、ずっと昔――いや、たかが数十年前まで、王国は帝国の“膝元”だった」
「でも、独立をしたと」
「先代の王――僕の祖父が、帝国の腐敗と圧政に耐えかねて、反旗を翻した。奇跡みたいな話だ。まともな軍もなかったのに、山岳地帯でのゲリラ戦で帝国を追い払った。帝国はそのとき、すでに内部が腐り始めていたんだろうな」
私は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……それなのに、今度は教皇庁の手が伸びてきている」
「戦場が剣から言葉に変わっただけさ。今の帝国は、王家が絶えて混乱してる。誰も国を治めきれない。だからこそ、教皇庁が“神の名”で人を支配しようとしている」
「……どうして王国を狙うんですか?」
ルシアンは彼女の方を見て、ゆっくりと言った。
「豊かだからだよ。帝国は荒廃して、土地も人も痩せ細ってる。だけど王国は、穏やかな気候と精霊の加護に守られているからね」
私は黙って頷いた。その手は無意識に、胸元のネックレスに触れていた。
「気になる?」
「ええ、少しは」
月が顔をのぞかせ始めた空を見ながら、ルシアンがふと呟いた。
「……帰りに少し寄り道しようか?」
私が目を瞬かせる。
「どこへですか?」
「帝都の郊外。《星花祭》の時期だ」
「星花……?」
ルシアンは笑うように答える。
「帝国にしか咲かない不思議な花があるんだ。星が降るように咲く白い花。昔は、その夜だけは戦も止まったって言われてる」
「戦も止まる……」
「幼い頃、一度だけ行ったことがある。誰もが灯りを消して、空と花だけを見る日だった」
私は静かに聞き入りながら、小さく尋ねた。
「……どうして、そこに寄ろうと?」
「君に見せたいと思って」
私はそっと目を伏せ、胸元のネックレスに手を添えた。
そうこうしている間に、馬車は静かに谷のふちへと辿り着いた。
ここから先は、もう車輪の入れる道ではない。
「ここからは――徒歩だな」
ルシアンの声に私はうなずき、厚手の外套を肩にかける。
夜気は思ったよりも冷たく、山あいの霧が白く地を這っていた。
風が止まり、あたりに静けさが満ちる。
まるで、世界そのものが、今だけ“この谷”を見守っているかのようだった。
満月が雲間から顔をのぞかせると、地面に淡い光が落ちた。
その光に照らされるようにして、私達は歩を止める。
――咲いていた。
銀にきらめく薄い葉、その中心から淡く青白い光を放つ小さな蕾。
《月白草》。
人を蝕むほどの毒を持つというその花は、まるで聖女のように、月明かりに包まれて咲いていた。
「……きれい」
思わずこぼれた私の声は、夜気に吸い込まれていった。
「毒があるとは、思えないな」
ルシアンがそう呟きながら、私の横に並ぶ。
2人の影が、月の光の中で寄り添って伸びる。
「母を苦しめているのが、こんなに美しい蕾だったなんて……皮肉ですね」
アメリアが膝をつき、そっと手を伸ばす。
その動きを止めるように、ルシアンがそっと言った。
「素手では触ってはいけないよ」
私がそっと手を引いたその瞬間、背後から軽やかな足音が近づいてきた。
「ルシアン様、お呼びでしょうか」
黒装束の従者が、谷の霧を割って姿を現す。
その背には、収容用の木箱と魔封の装置が備えられていた。
ルシアンは、月明かりに照らされた蕾を一瞥し、静かに命じた。
「花弁に傷をつけるな」
「かしこまりました」
従者が手早く準備を始める。白手袋をはめ、魔力を帯びた布で蕾を優しく包み込むようにして摘み取ると、それを慎重に魔封箱の中へと収めた。
その様子を、私は一歩下がった位置で見つめていた。
――まるで、聖なるものに触れるかのように。
それほどまでに丁重に扱われるこの花が、母を蝕んでいたという現実。
不思議な感情が、胸の奥でじわりと広がっていく。
魔封箱が丁重に馬車へと運ばれ、谷の夜がふたたび静寂を取り戻していた。
満月は高く昇り、谷の霧を淡く照らしている。
「……ありがとうございました」
ルシアンはうなずき、私の肩に外套をかけ直す。
そして手袋を外し、ゆっくりと手をこすり合わせた。
その仕草には、微かに緊張を解くような余韻があった。
そして彼は、月明かりの下で静かに言った。
「――さあ、帰路に戻ろう」
馬車の御者が合図を送り、二頭の馬がゆるやかに首を振る。
収容箱を積んだ馬車が、ぬかるんだ地面を軋ませながら動き出す。
私は最後にもう一度、谷を見下ろした。
《月白草》が、夜の風に揺れている。
まるでその毒すら、美しき祈りのように――。
♦︎勢力図
┌────────────┐
│ ヴァルハルト帝国(北方)
└────┬───────┘
▲ 帝国支配崩壊
│
┌────────────┐
│ エルシア山脈(帝国領・無主地)
└────┬───────┘
▲毒草月白草自生地
│
┌────────────┐
│ リデル王国 ◀─友好─▶【トラーネ連合】
└────┬───────┘
▲内政干渉
│
【教皇庁(教皇)】
▲信仰支配
│
【アレシア公国】(西隣・教会寄り)




