24話『雪解けの蕾』
馬車はゆっくりと揺れながら、王都を離れて北方へと進んでいた。車窓の外には広がる田園と薄曇りの空。
まだ春の王都の朝は肌寒く、早朝の冷気がガラス越しに指先を冷やす。
しばし沈黙が落ちる。馬車の車輪が石畳を越える音だけが、控えめに響いていた。
「どうしたのですか?」
緊張している私とは対照的に、ルシアンはふいに微笑んだ。
「さっきの君を思い出して」
彼が言っているのは、出発前の一幕だった。
城門前に並べられた、馬車二台分もの装備と荷物。それらはすべて、私のために用意されたものだった。
防寒具に寝具、予備の衣類、医療道具、食糧、精霊灯。まるで遠征隊の荷台のようで、私は思わず目を丸くしたのだ。
「……こんなに必要ありません。これでは逆に足手まといになります」
そう口にした私に、側近たちは戸惑い、荷を減らすよう言う私をなだめようとしたが、ルシアンはただ静かに見つめていた。
そして一言――
『……わかった。君の判断を尊重しよう』
その声は穏やかだったけれど、どこか寂しげにも聞こえた。
「まるで戦地に赴おもむく兵士のような荷を用意されて、困惑してしまいました」
私は少しだけ、苦笑する。
「困惑させてしまったなら、謝ろう」
ルシアンはそう言いながらも、どこか楽しげな様子だった。
「でも、悪かったとは思ってないんだよ。……君に、何もかもを用意しておきたかった。寒さに震えることも、空腹に顔を曇らせることもさせるわけにはいかないからね」
その言葉はあまりにも率直で、胸の奥にすっと入り込んでくる。
「……私は、贅沢な環境が欲しいわけではありません」
「知っているよ。でも、君に与えられるものがあるのなら、僕は惜しまず与えたい。そう思っただけだよ」
私は視線を伏せた。そうしてしまうほど、顔が熱くなるのを感じたから。
「……では、次の街についたら、手袋だけはいただきます」
窓の外に目をやりながら、そっとそう言うと――
「え?」
ルシアンが、少し驚いたように笑う。
「それはつまり、今が寒いということか?」
「……はい。けれど、お願いするのはそれだけです」
「ふむ……じゃあ今は、こうしよう」
そう言ってルシアンは、自分の手袋を外し、私の手にそっとかぶせてきた。
「……っ」
思わず声が漏れた。彼の体温が残るその手袋は、大きくて、温かかった。
「満月の夜までに辿り着くには、ここからが勝負だからね。しっかり休んで、備えておこう」
私は黙って頷いた。
この人の隣にいてはいけないと思う瞬間と、この人の隣にいたいと思う瞬間が、どうしてこんなにも交錯するのだろう。
そんなことを思いながら、私は指先に残る体温を、静かに抱きしめた。
馬車の揺れは、子守唄のように静かで――私は、いつの間にかうとうとしていた。
冷えた窓ガラスに額を預けたまま、浅く呼吸を重ねていく。
*
私は、ふと眼の前に目をやった。
そこには、窓際に小さく身を寄せるようにして眠るアメリアの姿があった。
長いまつげが頬に落ち、薄く開いた唇が、かすかに吐息をこぼす。
その肩が、時折小さく震えているのを見て、私はそっとため息をついた。
「……こんなところで無防備に眠るなんて」
そっと腰を浮かせ、マントの留め具を外す。
彼女を起こさないように細心の注意を払って、その上着をそっとかけた。
ふわりと広がる香り。私のものであり、彼女のものである――そんな曖昧な距離の中に、体温だけが確かに存在していた。
隣に腰掛けると、自分の方へ引き寄せるようにして彼女の身体を軽く支える。
倒れかけたアメリアの頭が、そっと私の肩に触れた。
彼女は目を覚まさない。ただ、静かに眠っている。
その重みと温もりを受け止めながら、私はふと、かすかな笑みを浮かべた。
「……起きたら、君は、嫌がるだろうな」
冗談めかして呟いたその声に、返事はなかった。
けれど、その静寂すら心地よく受け入れる。
私の瞳が、アメリアの寝顔にそっと落ちる。
触れたい、けれど触れてはいけない。
伝えたい、けれど伝えるべきではない。
そんな想いを抱えたまま、私は静かに目を閉じた。
馬車はゆっくりと、霧の深い北方へと進み続けていた。
***
どれくらい眠っていたのだろう。馬車の揺れが、夢の境から私を連れ戻してきた。
ふと目を開けると――視界のすぐ隣に、見慣れない横顔があった。
「……っ!」
慌てて身を起こそうとした瞬間、肩にふわりと掛けられていた温もりが滑り落ちる。
私の肩に羽織られていたのは、ルシアンの上着――しかも、その内側には微かにルシアンの香りが残っていた。
頬が一気に熱くなる。
「おはよう。……よく眠れていたようだね」
落ち着いた声が降ってきた。見上げると、ルシアンが目を細めて微笑んでいた。
まるで何事もなかったように。けれど、その瞳にはどこか優しい、守るような色が宿っていた。
「す、すみません……その、よりかかって……しまっていた、ようで……」
私はうつむき、焦って上着をたたむ。
顔が熱くてまともに彼の方を見られない。胸の奥がそわそわと騒がしい。
「いや、気にしなくていい。君が安心して眠ってくれたなら、むしろ嬉しいよ」
ルシアンはあっさりとそう言って、窓の外に視線をやった。
その横顔があまりにも自然で――私はますますどうしていいか分からなくなる。
「……ありがとうございます」
ようやく絞り出すように呟いた言葉は、馬車の揺れにかき消されそうだった。
けれど、それでもルシアンには届いたようで、彼は少しだけ顔をこちらに向けた。
「礼なんていらないよ」
その一言が、妙にくすぐったくて。
私はもう一度、小さく――けれど確かに、頭を下げた。
馬車の中に、ひとときの静けさが戻っていた。
けれどその空気を、ふいにルシアンの低い声が破った。
「……嫌じゃないなら、また――」
その言葉は、途中で途切れた。
私は顔を上げる。ルシアンは窓の外を見たまま、続けなかった言葉を飲み込んでいた。
「え……?」
思わず問いかけると、彼は少しだけ顔を背け、かすかに目を伏せた。
「……いや。なんでもない」
そう言って、軽い口調で言い添えた。
私は何も返せず、胸の奥に広がった何かを、そっと押し殺すしかなかった。
そして、わざとらしいほど自然に、ルシアンは話題を変える。
「ところで――リリー嬢のことなんだが」
それは、まるで何事もなかったような、淡々とした声だった。
でも、その目の奥にあった光は、確かにさっきまでと少し違っていた。
私は、背筋を正すように姿勢を整えた。
「……何か、お気づきのことが?」
小さくうなずいたルシアンの視線が、静かにこちらへ戻ってくる。
「……君は、王室と宗教勢力が対立していることは知っているかい?」
唐突な問いだった。
けれど、それは避けられない核心――この国の深部に潜む闇へと触れる扉だった。
私は一瞬、返答に詰まり、そして小さく頷く。
「はい。少しは……」
「この国では、王室の力は絶対ではない。
教皇庁――いや、正しくは“神の代理人”を名乗る彼らは、代々、王権の正統性に干渉してきた」
低く、静かな口調だった。
「僕は……その対立の妥協点として、“即位”を受け入れざるを得なかった。
王位を継ぐということは、王宮に残る人間たちの命運をすべて背負うことと同義だ」
彼の目が私を見た。その瞳には、どこか痛みを宿した光があった。
「だから、政略結婚が必要だった」
「そうですね」
「ローズウッド家との」
「……はい」
「僕は君がいなくなったあとの、ローズウッド家と」
「……そうです、よね」
「リリー嬢は聖職者と深くつながり、宮廷に強いパイプを持つ。政教和解の象徴として、彼女が“王妃候補”に擁立された理由だ」
「はい」
「でも、結果、僕も殺されたよ」
「……え?」
「もともと僕の即位に、教皇庁はローズウッド家から妃を立てることを条件にしていたことは知っていた?」
「ええ、それなりには」
ルシアンは回帰前にも即位が決まっていた。
もちろん、ローズウッド家の名が上がっていたのも知っていた。
政略結婚であることへの抵抗が、私の心を揺さぶっていた。
この時代に、それを当然として受け入れなければならないのはわかっていた。
でも、どうしても。
ルシアンに政治利用されるということが、受け入れがたかった。
『私は政治ではなく、私はあなたの妻として愛されたかった』
「なのに、殺されたのは変だとおもわないか?」
「そうです……ね」
ふと、リリーの慈善活動が頭をよぎる。
「リリーの仕業ですか?」
「……彼女は、子を孕んでいた」
唐突に静かに落とされたその言葉は、私の胸を鈍く突いた。
「……」
口を開きかけたものの、何も言葉が出なかった。
喉の奥に重たいものが詰まったようで、息を吸うことすら苦しい。
子を、孕んでいた――
「でも、僕は彼女とは一度も寝室を共にしたことがない」
「え?」
「怪我の後遺症でそもそも寝たきりだったからね」
怪我の…後遺症?
馬車の揺れが、静かに心臓を揺らす。
「でも、妊娠の知らせと同時に、僕は毒を盛られた。――つまり、彼女は、僕を“父”としては必要としていなかった。欲しかったのは、王妃の座と、跡継ぎだ」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「倒れた僕の枕元で、彼女は静かに微笑んでいたよ。“残念でしたわね、殿下”と」
静謐せいひつな笑みが、ルシアンの唇に浮かんだ。
「彼女は誰の子を身ごもっていたのか」
「……」
私は、言葉を失っていた。
胸の奥で冷たいものが静かに広がっていく。
そして、
「それは、リリーの相手への嫉妬ですか?」
そう、思わずポツリと。
呟いてしまった。
「……嫉妬? 君は、政略結婚にそんな感情を抱くものだと思っているのか?」
ルシアンの声音は、どこか試すようで――けれど、その奥にほんの微かな苛立ちの色があった。
ああ、やっぱり。
たとえ相手がリリーであっても――
たとえそれが政治のための結婚であっても――
愛は存在しないと言い切られるのは、どうしようもなく胸を軋ませた。
「……そうですね。以前も、そうおっしゃっていましたものね」
過去の記憶がよみがえる。
私が、政治ではなく、“私自身”として彼を選ぶことがあっていいのかと問うたあの日。
彼は、迷いもなく――「選べない」と言った。
「僕は変わっていない」
その言葉に、心がまた少しだけ削られる。
「君は……そういったことを割り切っているのだと思っていた」
「というのは?」
「ミカエル・エインズワースに――縁談の申し入れをしたと」
「……あれは」
「君は政略結婚に、肯定的なのだとばかり思っていたよ」
「私は、“政治”で結婚を選ぶつもりはありません」
静かに、でもはっきりと告げる。
「ならば――ミカエル・エインズワースのことが、好きだったと?」
その言葉に、思わず息が詰まった。
(どうして、こんな話になるの……?)
「ミカエル様には、縁談を断られました。
……それで、すべて終わったことです」
「――では、今も彼のことが好きなのか?」
ルシアンの瞳が揺れていた。
「申し訳ありません。私が……つまらないことを聞いたせいで、話が逸れてしまいました」
冷静な声を装ったけれど、心の奥は少しざわついていた。
これ以上、この話を続けても――答えの出ない感情が絡まり続けるだけだ。
私は一呼吸置いて、意識的に話題を戻す。
「では……リリーの、お腹の子の父親は。誰だったのでしょうか」
静かな問いだった。
けれど、ルシアンはすぐに答えなかった。
「……」
彼の沈黙は、何かを飲み込むような色をしていた。
やがて、ぽつりと――
「君は、家族のことばかり気にするんだね。本当に感心するよ」
皮肉ともつかぬ言葉に、私は少しだけ眉をひそめる。
「当たり前ではありませんか。家族です」
「……少しも、僕のことが気にならないのが……気に食わない」
呟くような声だった。
「え?」
思わず聞き返すと、ルシアンは小さくため息をついて、そっぽを向いた。
「現状の王妃候補は――リリー嬢だ」
「……ああ」
「君が、辞退したからね」
拗ねたように口を尖らせて言うその姿に、思わず笑ってしまいそうになる。
――まるで、子どもみたい。
「ルシアンが殺される未来が、このままでは――また繰り返されてしまいますね。……それは、どうしても回避しないと」
自分でも驚くほど冷静な声だった。
「……」
ルシアンは何も言わない。ただ、静かに私を見つめていた。
「……気が回らず、申し訳ありませんでした。もっと早くに気づくべきでした」
「……」
それでも、彼は口を開かない。
その沈黙に、私は困ってしまって――
「そんなに……拗ねなくても」
思わず、小さな笑みが漏れる。
「……」
それでもルシアンは無言のまま。けれど、その視線には、わずかな拗ねた色が残っていて。
どうしよう、と唇をかむ。
「どうしましょうか……?」
自嘲気味に問いかけると、ようやく彼の唇が動いた。
「君が……辞退しなければいいんじゃないのか」
「……え?」
瞬間、胸の奥がきゅっと軋んだ。
「君が王妃候補を降りなければ、僕は君を選べる」
私は、リリーに王妃の座を譲るべきだと思っていた。
その方がすべてがうまく収まると――そう思い込もうとしていた。
王国と教皇庁の均衡。宮廷内の圧力。ルシアンの即位を妨げないための最善策。
そしてなにより、私自身が王妃の座を望んではいないという“言い訳”。
だが。
それは、ただの逃避だったのかもしれない。
ルシアンが、また命を落とすという結末にたどり着いてしまうのなら。
ふっと、顔を上げ、静かに口を開いた。
「――ご安心ください。リリーにそんなことは、もう絶対にさせません」
その声は、自分でも驚くほど澄んでいた。
「私がこの王国を支える、立派な王妃として、彼女を教育します」
言いながら、胸の奥が少しだけ軋んだ。
あの子を救いたい。ほんとうに。
幼い頃、私の後を追って小さな靴で庭を駆け回っていたリリーの姿が、ふと胸に浮かぶ。
リボンを結びたがって、鏡の前で何度もやり直していたあの日のことも。
リリーがこんな風に歪んでしまったのは、きっと私のせいだ。
姉として。家族として。
――だから、今度こそ。
「私は、ローズウッド家の当主として、この王国を支えます」
「――危惧なさらないで」
私はゆっくりと顔を上げ、まっすぐにルシアンを見つめた。
その瞳に宿る微かな不安と疑念を、ひとつずつ払うように。
胸の奥から静かに、しかし確かな思いがあふれ出す。
「ローズウッド家は、これまでも、そしてこれからも……あなたに忠誠を誓います」
それは、王になる彼に捧げる言葉であると同時に――
一人の人間として、ルシアンという名を持つ青年に向けた、私の誓いだった。
「たとえ私が王妃でなくとも」
そう前置きしながらも、言葉の端には熱がこもっていた。
「あなたの未来を脅かす者がいるのなら、私はローズウッド家のすべてを懸けてお守り致します」
それが、どれほど重い意味を持つ言葉か、私にはわかっていた。
だが、迷いはなかった。
ルシアンの命を、未来を、二度と誰にも踏みにじらせはしない――そう、心に刻んでいた。
それにしても、リリーをどう是正すべきか――。
彼女はあまりにも巧妙で、狡猾で、そして何より「善意の仮面」を被るのが上手い。
「……リリー嬢のことだが」
沈黙を破ったのはルシアンだった。
彼はふと目を伏せ、どこか諦めにも似た吐息を漏らす。
「以前から噂になっているだろう? 彼女の――よからぬ噂が」
その言葉に、私の中で記憶が甦る。
花の寄贈、孤児院への寄付、礼拝堂での朗読会――
“慈善活動”という名の帳に包まれた、奇妙な影。
「……魔導士の、噂ですか」
私の問いかけに、ルシアンは静かに頷いた。
「そう。正確には、“魔導士と思しき男”だ。名前も素性もはっきりしない。
ただ、リリー嬢の周囲で、常に彼女の背後に控える姿が目撃されている」
「王宮は……どこまで、調べを?」
ルシアンの眼差しが、ふいに鋭さを増す。
「正式な捜査には至っていない。というより、“できない”んだ」
「なぜですか?」
「彼女は“王妃候補”だからだよ。教皇庁からの後ろ盾があり、逆らえば政治的に不利になる。
不用意な動きは、政教関係をさらに悪化させかねない」
私は拳を握りしめた。
――また、教皇庁。
すべての影に、その名がちらつく。
「ならば、私が」
思わず口をついて出たその言葉に、ルシアンが目を細めた。
「君が?」
「私は王妃候補ではありません。ローズウッド家の次期当主として、個人的な動きならば取れるはずです。
たとえそれが“妹を疑う”という罪になっても、放置するよりはずっと良い」
ルシアンの表情が、ほんの僅かに綻んだ。
「……君は相変わらず、恐ろしいほどの覚悟を隠し持っているな」
「恐ろしいのは、あの子の心の闇です」
そう返すと、私は小さく息を吐いた。
リリーの裏にいる“魔導士”――
この王国を蝕む、もうひとつの病巣。
私が見つけ出さなければならないのは、リリーの“間違い”ではない。
本当に是正すべきは、彼女の“後ろ盾”の正体だ。
それにしても――
今になってようやくわかる。
教皇庁が“ローズウッド家の娘”を王妃として推挙した本当の理由は、血筋や家格のためではなかった。
あれは最初から、“私ではなく、リリーでなければならなかった”ということだったのだ。
私は、彼らにとっても邪魔だった。
私では、都合が悪かった。
だから――処刑された。
「ローズウッド家の娘」という名目が欲しいだけなら、誰でもよかったはずだ。
“誰でもよかったわけではなかった”。
私では、駄目だった。
教皇庁にとって、必要だったのは“従順で、操りやすい”リリーでなければならなかった。
――リリーは彼らの思い通りに動いている。
慈善事業を通じて教会関係者との繋がりを広げ、王宮の一部を信徒で埋め、王妃候補としてふさわしい“善き娘”を演じている。
すべて、計算ずくで。
ぞくりと背筋が冷える。
回帰前、私が殺されたのも、ルシアンが毒を盛られたのも――偶然ではない。
「まさか」
私の唇から言葉が漏れた。
閃いた思考が、心の奥底にあった恐れと重なり合う。
「ルシアン、もしかして。リリーの後ろ盾は……教皇庁なのでは?」
ルシアンが静かに、息を吐いた。
その表情に、いつもの柔和さはなかった。
口元に苦く微笑を浮かべながら、目は鋭く細められている。
「……おそらく」
認めたくなかった。
「正式な証拠はない。だが、リリー嬢が頻繁に教皇庁の使者と会っていた記録は残っている」
「記録、というのは……?」
「王宮の謁見録だ。教皇庁が『特別祈祷』の名目で何度もリリー嬢と面会していたことが、記されている」
「なぜ、そのような記録が公になっていないのですか?」
「公にすれば……宮廷に仕える聖職者たち全員を敵に回す。下手をすれば、信徒たちからの反発すら招く」
ルシアンの瞳が、どこか諦めに似た陰を宿していた。
「それでも君は、リリー嬢を王妃にというのか?」
私はすぐには答えられなかった。
「ですがリリーでなく私が王妃になったとしても、教皇庁は納得しないということでしょう?」
自分の口から出た言葉は、どこか冷たく響いた。
「……そうだな」
ルシアンもまた、その現実を否定しなかった。わずかに伏せた目元が、静かにそれを認めていた。
「何か他に、手立てを……」
言いかけたとき、不意に胸の奥で、違和感が膨らんだ。
あれ?
「――それがわかっていて、どうして……私に王妃にとおっしゃったのですか?」
問いながら、心がざわめく。
政略的に不利な私を、あえて選ぼうとする理由。その裏にあるのは、何なのか。
ルシアンはしばらく黙っていた。
やがて、静かに息を吐き、まっすぐに私を見た。
「君が、王妃になってほしいからだ」
その言葉は、あまりにも率直で。
「……え?」
思わず、聞き返してしまう。
「君がいい、と……僕はそう言ってる」
その声に、迷いはなかった。
信じられないような気持ちで見つめていると、ルシアンは少しだけ目を細めて微笑んだ。
「ローズウッド家だとか、家格だとか、他の貴族だとか……そんなことはどうでもいい。
君が、王妃にふさわしいと、僕はそう思ってる」
胸が締めつけられる。
「買いかぶりすぎです……」
言葉が、震える。
「わからないか?」
「え?」
「君が好きだということだよ」
静かに、だけど確かに彼は言った。
「僕は、はじめから政略結婚なんて考えてない。
君でなければ意味がないと、ずっとそう思ってた」
思わず目を逸らしそうになって、けれど逸らせなかった。
彼の真っ直ぐな瞳が、私のすべてを射抜いていたから。
「……ですが私が王妃になれば……」
言葉を紡ぐのが怖かった。
けれど、黙っていることのほうが、もっと怖かった。
今度こそ彼を守ると、そう決めたから。
「――教皇庁との衝突は避けれません」
それは、ただの不安や臆病な想像ではない。
前世、私たちはすでに経験している。
“王妃”という称号に仕掛けられた罠。
その裏で蠢いていた陰謀。
そして、最愛の人が毒に倒れ、命を落としたあの結末。
私は、未来を変えるためにこの時をやり直した。
でも、もし――私が王妃になれば、あの悪夢が再びすべてを連れ去ってしまうかもしれない。
私は、震える声で問おうとした。
けれど、先にルシアンが口を開いた。
「――それはつまり、妻になってくれるってことだと、受け取っていいのかな?」
不意を突かれたように、私は彼を見上げた。
「え……?」
彼は静かに笑っていた。
優しい、けれど決してふざけているわけではない。
覚悟のようなものが、そこにはあった。
「何度死ぬ未来が待っていようと、どうでもいい。
今は――君の気持ちだけが知りたい」
その目はまっすぐだった。
どんな陰謀や策略も通じない、ただひとつの真実だけを求める目。
「……」
返す言葉を探そうとして、私は言葉に詰まった。
“愛してる”
その一言が喉まで出かかったけれど、怖くて言えなかった。
私はまた、彼を失うかもしれないのに――。
でも、それでも。
彼のその言葉が、私の心を少しだけ救ってくれた。
「……私の気持ちは……」
唇が震えた。
「……あなたを、守りたい」
それが、今の私の、すべてだった。
ルシアンは、目を細めて、そっと私の手を取った。
「では君のその願いを、僕に叶えさせてくれないか」
「え……?」
「僕が君を守るよ、アメリア。
君が僕を守りたいと思ってくれるなら、僕だってそうしたい。
二人でなら、乗り越えられるかもしれないだろ?」
彼の手の温もりが、胸の奥に深く染みこんでいく。
「……はい」
私は、小さくうなずいた。
「でも、でも例えだとしても死ぬなどと言うのはだめです。貴方がいなくなっては困ります」
私は叱るように笑ってそういった。
「そうだな、僕も君がいなくなるのはもう耐えれない」
ルシアンも笑って頷く。
私の手を包み込むその手が、ほんの少しだけ力を込める。
この選択が、また血を呼ぶ未来に繋がるかもしれない。
それでも――私はもう逃げない。
彼と共に歩む未来を、私は心から望んでいるのだから。
「まずは……教皇庁の動きを止めなくてはなりませんね」
静かに、けれど揺るぎない決意を宿して告げると、
ルシアンもまた、表情を引き締めた。
「――教皇庁だけじゃない。
王宮の中にも、僕の歩みに異を唱える者はいる。
その背後関係も含めて、洗い出す必要がある」
「リリーの背後にいる者も……あの魔導士も含めて」
運命に翻弄され続けた過去に、終止符を打つために。
そして、今度こそ――未来を、自分たちの手で掴むために。
「それにしても……君は、どうやら根っから“王妃の器”らしい」
「え?」
「僕は今、君のことしか頭にないというのに」
真顔でそんなことを言うルシアンに、私は思わず吹き出しそうになった。
「次期国王がそれではこまります」
肩をすくめて返すと、彼は冗談とも本気ともつかない顔でため息をついた。
「僕はただの男として、君のそばにいたいんだ」
「……まぁ」
「呆れられてもいいよ」
ふてくされたように言うものだから、私もつい口元を緩めてしまった。
「呆れたりしませんよ」
「今だってまだ、君から愛の言葉が一度もないことに不服だ」
子どもみたいな言い方に、とうとう私は苦笑する。
「言いましたよ。“政治的な結婚はいたしません”と」
「……分かってるよ」
「なら、いいではないですか」
「……ちゃんとした言葉で聞きたいんだ」
どうやらこの人は、遠回しな表現では納得しないらしい。
「――お慕いしております」
少しだけ声が上ずってしまった。
ルシアンは一瞬目を見開いて、すぐに、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「君はいつだって、そうだ」
「え?」
「遠回しで、まっすぐで、ずるいんだよ」
「……?」
「――あのときも」
突然、真面目な声色に変わった彼の瞳が、私の奥を覗き込んでくる。
「“あの時”……?」
「回りくどく言っただろう? “もし、わたくしがあなたを選びたいと思ったとしても、それは許されることなのでしょうか”って」
私は、ほんの少しだけ、目を逸らした。
あのときの私は、確かに、精一杯だったのだ。
「……あれは、覚悟の言葉だったのです」
「その覚悟がどの覚悟の意味なのか見定めたかった」
「ルシアンは遠い存在ですもの、当然ではないですか」
「そうであったとしても、君の言葉はいつも複雑すぎて、僕はつい意地の悪い返しをしてしまった。
あの“選ばない”という発言……今でも、悔いている」
「あれは、お怒りになられていたのではないのですか?」
「違う、君から明確な言葉が聞きたかったんだ」
「それは申し訳――」
ルシアンはそっと、私の唇に人差し指を当てて遮った。
「……聞きたいのは、それじゃない」
まっすぐな瞳が、私を見つめていた。
「……好きです」
その言葉を、ようやく伝えられた。
震えた声で、けれどはっきりと。
ルシアンの表情が、やわらかくほどける。
「――それが、ずっと欲しかった」
優しく告げると、彼はそっと私に口づけた。
この唇に宿る温もりが、かつて失ったすべてを赦してくれるようで――
私はようやく、彼の胸に身を委ねることができた。




