22話『リリーの毒』
その日は、やけに空が静かだった。
風もなく、鳥も鳴かず、庭の花が咲いているのに、何も香らない。
――嫌な予感がした。
胸元のネックレスは、微かに震えていた。
まるで、私に“何かが近づいている”と告げるように。
***
「……お母様が倒れた?」
その知らせを聞いたのは、昼食を取ろうとしていた矢先だった。
報せに来たのは、最近入ったばかりの若い侍女ミア。
新人にしては、彼女の声は妙に落ち着きすぎていた。
そして――何より、彼女の袖口からは“微かな香り”がした。
これは……。
記憶にある、前世で母が倒れたときに香ったかおりと、まったく同じだ。
「……まさか」
私は椅子を蹴るようにして立ち上がり、母の部屋へ駆けた。
***
寝台の上、母は浅い呼吸を繰り返していた。
額には汗。
唇はうっすらと紫に染まり、目は虚ろに開いている。
「お母様!」
医師はすでに呼ばれていたが、診断は歯切れが悪かった。
「……毒のようなものではありますが、はっきりとした成分が不明で……」
分かるはずがない。そんな簡単なものを、リリーが使うはずがない。
でもどうして?
貴女はいま、全てが上手く行ってるじゃない。
なのに何故――お母様が……
***
「お姉さま、お母様はご無事なんですか?」
遅れて部屋に現れたリリーは、まるで“今知った”ように心配した顔をしていた。
かつての私であれば、このリリーの全てを疑う事なく信じただろう。
だが今は、怒りの方が先走って冷静を保つので精一杯だった。
もう騙されない。
「リリー。あなた……」
その先を言いそうになって、母の存在に気が付き私は言葉を飲み込んだ。
「? 私、お母様の体調が悪いと聞いて、心配で……」
「そう。なら、答えてちょうだい」
私は懐から、入手したばかりの“香袋”を取り出した。
それは、母の枕元で先程見つけたものだ。
「この香り、“ただの香袋”じゃないわよね? これは王都では使用が制限されてる毒性の高い香草を含んでいる。どうしてこんなものがここにあるの」
こんな短時間で調べ上げるのは不可能だった。でも、私は地下牢でリリーが言っていた言葉を忘れてはいない。
”お姉さま、知ってる?月白草って。冥土の土産に教えてあげるわ。お母様の枕元に添えておいた香袋があったでしょう?私が送ったもの”
「…………」
リリーの顔が、一瞬だけひび割れた。
やはり、間違いない。
「知らないとは言わせないわ」
「……お姉さまは、私を疑うのね」
「疑ってるんじゃないわ、断定してるのよ」
部屋が静まり返る。
母の寝息だけが、かすかに響いていた。
私はそれを確認する。
「あなたは母を“支配下”に置きたかった。
だから、体調を崩させて、世話を焼くふりをして信頼を得る。
その一方で、私の周囲を切り崩し、悪女の噂を流す。
そういう魂胆なんでしょう?リリー」
「……お姉さま、一体どこでそんな悪知恵を仕入れてきたのかしら」
「あなたがしている事を口にしただけよ」
***
「お姉様はお母様が倒れて正常な判断が出来ていないようですわね、わたくし一度席を外しますね」
「待ちなさい……っ」
リリーがそう言い部屋を出ていったあと、私は母のそばに戻った。
眠るように目を閉じる母の手を、そっと握る。
「私は、もう何も奪わせない。二度と。
この手で、全部守ってみせるから」
…⋯どうすれば。
私はどこで間違えたのだろう?
母の危機は、回避できたはずなのに、何故。
「⋯⋯月白草」
あの時、リリーはそう言った。
ルシアンなら、何か知ってるかもしれない。
《困った事があればいつでも頼ってほしい》
数日前にルシアンがくれた文書を思い出す。
そうだ、私はまだ協力者を一人も見つけていない。
だが、先日ルシアンを拒んだばかりだ。
これは、あまりにも都合が良すぎるのではないだろうか。
私は眼の前で眠る母の姿を見て、まぶたを閉じた。
もう、つまらない意地をはっている場合ではない。
「待っていて、お母様」
私は、扉を静かに閉じた。
母の寝室の前に立ち尽くし、ひとつ、深く息を吸う。
屋敷の廊下は静まり返り、まるで息を潜めているようだった。
風が吹き込んだ窓辺のカーテンが揺れている。
この静けさは、心細くもあり、しかし決意を強くさせる。
私は控えていた侍女に小声で告げる。
「馬車の準備を。……王宮へ向かいます」
侍女が驚いた顔を見せるも、すぐに準備をした。
誰にも悟られてはいけない。
王宮に出入りすることすら、今の私には命取りになりかねない。
けれど、それでも。
母の命がかかっているのだ。――躊躇している暇など、もうない。
馬車の中で、私は静かに拳を握った。
*
王宮にたどり着く頃には、夜はすっかり更けていた。
けれど、迎えの兵士に名を告げると、彼らはすぐさまルシアンの私室へ通してくれた。
廊下の先、扉の向こうに、あの人がいる。
私は立ち止まり、唇を噛んだ。
何を言おう。どう頼めばいい。
あんな風に拒絶しておいて、今さら手を借りたいだなんて――。
けれど、扉は、私が迷うよりも早く開かれた。
「……アメリア?」
変わらない声だった。
少し眠たげで、それでも私を見た瞬間、真剣な色が宿る。
私はほんの一瞬、何も言えず、彼を見つめ返した。
私は、小さく頭を下げる。
「……お願いがあって、来ました」
ルシアンは、一歩、近づいてくる。
まるで、はじめからそれを待っていたかのように。




