1話『天使の仮面を被った妹』
春の陽が、カーテン越しに差し込んでいた。
鳥の声。風に揺れるレースの影。
目を開けて最初に見えた天井の模様。
窓際のラベンダーの鉢植え。
指先に残る、あのネックレスの感触。
処刑台にいたはずの自分が、今は2年前の姿でベッドにいる。
さっきまでの絶望が嘘のような、柔らかいシーツの上。
けれど胸の奥では、怒りと悲しみが冷たく渦巻いていた。
私を裏切った妹、リリー。あの子がこの家で無垢を演じていた、ちょうどこの時期に戻ってきたのね
前世。私は妹の“天使の微笑み”を信じ、すべてを委ねてしまった。
それが過ちだったと気づいたのは、すべてを失ってからだ。
でも今は違う。
「お姉様、起きていますか?」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
耳に残る甘やかな音色。丁寧な呼びかけ。
声を聞いただけで、すべての光景がフラッシュバックする。
王宮の法廷で震える声で「お姉様が、母様に毒を……」とそう訴えた、裏切りの瞬間。
私が処刑される時に見せた満足した笑顔。
私はゆっくりと体を起こし、冷静に答えた。
「ええ、どうぞ入って」
扉が開かれ、リリーが現れる。
光を背にして立つその姿は、まさに絵画のようだった。
黄金の髪、透き通る碧眼、小さな唇。無垢な少女の象徴。
「よかった。今朝は体調、どうですか?」
私は一瞬だけ息を飲んだ。
この日は風邪を引いて一日寝ていたことを思い出す。それほど大事にはいたらなかったけれど、めったに風邪をひかない私がすこしこじらせて寝込んだだけでリリーがとても心配してくれていたことを思い出した。
目の前のリリーは、前世と同じ顔をしている。
けれどまだ、この時の彼女は“無垢な仮面”をしっかりと被っていた。私はそれに全く気がついていなかった。
「少し……変な夢を見ただけよ」
「夢?」
「ええ。……すべてを失って、誰にも信じてもらえない夢。——でも、もう忘れたわ。朝からあなたの顔が見られて安心した」
リリーの表情が、わずかに揺れた。
私は知っていた。リリーは“不安定に壊れかけた姉の私”を見ると、いつも安堵するのだ。
自分が優位に立っていると確信できるから。
養女である私だが、父が逝去してからも当主になった母の跡継ぎ候補として育てられた。
この侯爵家の正当な血筋であるはずの妹を差し置いて。
その気負いもあって、私は常に控えめに生きていた。
「お姉様、またひとりで思い詰めて……心配です」
そう言って涙ぐんだふりをするのも、今思えば彼女の得意技だった。
私はわざと手を伸ばし、リリーの手をそっと握った。
「大丈夫よ。……あなたがいてくれるから」
演技は、完璧のはず。
相手が嘘をつくなら、自分もそれ以上の“仮面”を被ってみせればいい。
——これが、“悪女”として生きる第一歩。
「では先に朝食に行ってますね」
「ええ」
窓辺から差し込む光が、懐かしい部屋の天蓋を照らしている。刺繍入りのカーテン、優しい木の香り、見慣れた家具たち。どれも、まだ何も壊れていない、かつてのままの景色。
――本当に戻ってきた。
私は、ネックレスに宿る声に導かれ、過去に戻ってきたのだ。
「お嬢様、ご準備はいかかですか?」
「すぐいくわ」
ドアの向こうから聞こえたのは、かつての侍女・クララの声。彼女は前世、私に忠実だったが、リリーに操られ、最後は処刑に関わった人物だ。
けれど、今はまだ裏切られていない。全てが始まる前の、まっさらな時間。
私は震える息を抑えきれずにいた。安堵と恐怖、希望と後悔が渦を巻いている。
そして、胸元のあたたかい光を宿したネックレスに触れた。
「リュミエール……本当に、戻してくれたのね」
小さくつぶやくと、どこか満足げに微笑むような気配が、静かに胸の奥に広がった。
――これは、私の意志で選んだ未来。
私はゆっくりとベッドを降りた。
廊下に出ると、朝の香りが漂っていた。焼きたてのパンとハーブティーの香り。これもまた、懐かしい。
階段を降りた先の食堂に、私は“彼女”を見つけた。
母、マルグリット・ローズウッド。
早くに父を亡くしてから、このローズウッド家を長きに支えてきた当主だ。
ローズウッド侯爵家──王都の西、七つの領を束ねる由緒正しき一族。
中でも、現当主であるお母様は、王国史上最も強く、最も恐れられた“女侯”として知られていた。
政務においては鉄の如く、公的な場では貴族も軍人も彼女の前に頭を垂れた。
それでいて彼女の屋敷に仕える者たちは、彼女を“薔薇の主”と呼び、誇りをもって従った。
それは、恐怖ではなく──統治と慈愛、威光と知性を備えた“真の当主”としての敬意だった。
まだ若く、美しく、朗らかな笑みを浮かべて朝の準備をしていた。家令や使用人に指示を出す彼女の姿は、まさに私が誇りに思っていた貴婦人そのものだった。
「……お母様」
その姿を見た瞬間、私は足がすくんだ。
この光景は、もう二度と見られないと思っていた。いや、確かに一度は失ったのだ。あの日の記憶が脳裏をよぎる。
「アメリア?どうしたの、顔色が……」
母が気づき、こちらへ歩み寄る。その声、その表情、そして差し出された手。
私は、もう堪えきれなかった。
走り寄り、母の胸に飛び込む。
「……お母様っ」
声が震え、涙が頬をつたう。
戸惑いながらも、母は優しく抱きしめてくれた。ぬくもりが、あたたかい。懐かしい。ここが私の世界のすべてだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……守れなかった……」
「なにを言ってるの?大丈夫、怖い夢でも見たの?」
そう言って背中を撫でてくれる。昔の母と何一つ変わらない、優しい仕草。
私はこの時を、もう一度得られたのだ。
「もう、二度と……離れたくない」
心の底からそう思った。
***
食事のあと、部屋に戻る途中、私は大きな鏡の前で立ち止まった。
鏡に映る自分は、まだ十代半ば過ぎの幼さの残る少女。瞳は大きく、あどけなさが残っている。
「演じなきゃ。私、“悪女”になるって決めたんだから」
妹リリーの策略を防ぎ、母を守るためには、私はかつての“優しいだけのお嬢様”ではいられない。
前世の私が信じ、愛した人たちは、リリーの嘘に踊らされ、私を裏切った。
けれど、今回は違う。
私はもう、何もかも知っている。
「大丈夫よ、アメリア」
小さくつぶやいた瞬間、ネックレスがかすかに光った。
それはまるで、私の覚悟に応えるような輝きだった。
***
午後、書斎で過ごしていると、屋敷に“彼女”の足音が響いた。
「お姉さま、おじゃましてもいいですか?」
リリー・ローズウッド。
甘い声と無垢な瞳で、私からすべてを奪っていった張本人。
今はまだ“無邪気な妹”を演じている。
「もちろん。入って」
私は、完璧な笑顔で迎えた。
リリーは小さなかごを持って部屋に入ってきた。焼き菓子と花束。前世でも同じことをしていた。
「お姉さま、元気がないって聞いたから……私、お姉さまの笑顔が大好きなんです」
そう言って、にこりと笑う。罪のない少女の顔。
でも、私はもう騙されない。
「ありがとう、リリー。あなたの優しさに、救われるわ」
私もまた、笑顔で応える。
その場は、姉妹の微笑ましいひとときに見えただろう。
けれど、その笑顔の裏で、私の心は決して揺れていなかった。
――私は、必ずあなたの“仮面”を剥がす。
その時が来るまで、私もまた、仮面を被って生きる。
***
夜、ベッドに横たわった私は、ネックレスをそっと握った。
そこから、かすかに声が響く。
『そなたの選択に、意味があると信じているぞ』
リュミエールの声。
驚いた。精霊と会話が出来るだなんて。
「私、間違ってないよね?」
『未来は、そなたが選び続ける限り、無限に変わる』
「じゃあ、私は……もう二度と、あの絶望を繰り返さない」
光がぬくもりとなって胸元に広がる。
私は目を閉じ、静かに眠りについた。
明日から始まる、“選びなおした未来”に備えて。




