18話『ネックレスの沈黙』
あの夜会から数日が経過した。
リリーの夜会での出来事が社交界に与えた波紋は、意外にも小さかった。
あれほどの怪しい行動が暴かれたにもかかわらず、誰も彼女を咎めず、誰も責めなかった。
「……そう。あれだけじゃ“足りなかった”のね」
私は部屋の鏡の前で、ゆっくりと髪を梳かしていた。
そこに映る私の顔――母の教えで誰にでも平等に“優しくあろうとした”昔の顔ではない。
誰にも縋らず、自分の足で立つための“悪女の顔”。
だけど、その顔に――ふと、疑念が差した。
「これでいいのよね?」
***
朝の報告で、使用人が一人、屋敷を去ったことを知った。
退職理由は「アメリアお嬢様のご様子が怖くなった」とのこと。
それを聞いても、私はもう何の感情も湧かなかった。
私は間違っていない。
私の正当性はリュミエールが保証してくれている。
ふと、机の上のネックレスに目をやる。
けれど――
リュミエールの声は、そこにはなかった。
「……?リュミエール?」
何度呼びかけても、返事はなかった。
ネックレスは、微かな温度すら持たない“ただの装飾品”のように沈黙していた。
***
「アメリア、最近様子がおかしいわよ……?」
母が何気なくそう尋ねてきたとき、私は答えに詰まった。
「いえ……少し、疲れたのかもしれません」
「……そう」
母はそれ以上、深く追及しなかった。
ただ、彼女の瞳の奥に、わずかな“不安”が宿っていたのをわたしは見逃さなかった。
ただ、それを見た瞬間、私は胸の奥に小さな痛みを覚えた。
あれだけ信じると誓ってくれた母の視線に、迷いを生じさせてしまったこと。
その罪悪感が、私を静かに蝕んでいた。
***
私は書斎に籠もり、リリーの動きを洗い直した。
香水の流通ルート、夜会の出席者、その後の反応――
すべてを分析し、対策を練り、“リリーを陥れる”ための道を模索した。
けれど、ページをめくる手が、ある瞬間ふと止まる。
「私……何をしているの?」
リリーの悪巧みを処するために、策を弄し、証拠を集め、敵を暴き――
暴き?暴いたあとは?
私は、ただ“守りたかった”はずだった。
母を。家を。名誉を。
そして、ほんの少し――愛を。
でも今、私は。
“リリーを潰すこと”だけが、自分の存在理由になっている気がした。
***
その夜、私はネックレスを手に取った。
「……リュミエール。私、何か間違えてるの?」
返事はなかった。
「私はただ、奪われたものを取り戻したいだけ。
壊された未来を、壊した人間に返してほしいだけ。
それって、いけないこと……なの?」
ネックレスは、沈黙を続けた。
まるで、“答えられない”のではなく、“答えたくない”とでも言うように。
その夜、私は夢を見た。
リリーは、小さな手でスカートの裾を掴んで、私のあとをちょこちょことついてきた。
「アメリアお姉さまー、待ってー!」
振り返ると、きらきらした瞳がこちらを見上げていた。
日差しの下で、リリーの金髪がふわふわと揺れていた。
——私は、あの子が大好きだった。
初めて「お姉ちゃん」と呼ばれた日、胸がぎゅっとなって、なんだか泣きそうになったのを覚えている。
その頃の私には“家族”というものがよくわからなかったから、嬉しかった。
あの子が熱を出せば、寝ずに看病した。
転んで泣いたら、包帯をまいてあげて、手を握ってあげた。
勉強が嫌だとすねたら、庭で一緒に花の名前を覚えた。
——あの子は、私を見て笑ってくれていた。
目覚めた時、瞳に涙が滲んでいた。
私が侯爵家の養女となったのは、まだ七つの春を迎えたばかりの頃だった。
──親を知らない子だった。
実の母は身分も名も定かではない女で、街外れの小さな礼拝堂に私を託し、名前だけを残して姿を消したのだという。「この子の名は、アメリアです」と。
孤児として暮らしていた私にとって、ローズウッド侯爵家への引き取りは、天からの救いのように見えた。
けれど——それは“見せかけ”だった。
*
「お前は、家の恥にならなければそれでいいんだ」
父のその言葉は、私の心に冷たく刺さった。表向きの微笑みはあった。綺麗なドレスも与えられた。けれど、そこに「父の愛情」はなかった。
私は、飾りだったのだ。
世継ぎができずに世間から圧力を受けていたローズウッド家が、「慈善事業」として引き取った、言ってしまえば“政略用の娘”。
私は、名を与えられたが、“血”は与えられなかった。
「祝福の名を持たぬ娘」──そう陰で呼ばれていたことを、幼い私は耳にしていた。
*
2年後、侯爵夫人である母が懐妊した。
屋敷は華やいだ。侍女たちは忙しなく動き、侯爵も常に上機嫌だった。
「本当の“娘”が、生まれるのだな!」
そして生まれたのが、リリーだった。
金糸のような髪に、湖のように澄んだ瞳。誰もが「奇跡の姫君」と讃えたその赤子に、私はそっと微笑んだ。
──やがてリリーは喋り、歩き、笑い、愛され、そして私の居場所をゆっくりと、確実に侵食していった。
でも――
母だけは、最後まで変わらなかった。
リリーを腕に抱きながらも、わたしを見つめて微笑んでくれた。
「あなたは、私の宝物よ。変わらないわ」
「……これはね、困ったときに、きっと力になってくれるはずだから」
そう言って、銀のネックレスをくれた。
冷たい輝きの奥に、母のぬくもりが宿っていた。
そして、父が病に倒れ、私達を残し天に召された頃からだ。
リリーと私の関係に変化が起きたのは。
私達は仲のいい姉妹だったはずだ。
なのに、
***
翌日。
ルシアンから、新たな書状が届いた。
《君が今どんな戦いの中にいるか、分かっているつもりだ。
だがどうか、自分を見失わないでほしい。
君は、“誰かを守るため”に選ばれた人だと、僕は信じている。》
その文面に、私はぎり、と指を立てた。
「……守る?」
そうだ。
私は“守るために”回帰した。
なのにいつからか、私は復讐のために動いていた。
リリーから奪い返すことが、すべてになっていた。
その歪みに――ネックレスは気づいていたのだ。
そして今、私の“意志の純度”が濁ったからこそ、声を失った。
「私……ごめん。忘れいてたわ」
私は、もう一度ネックレスを胸に当てた。
「私は……母を、守りたい。
ただそれだけだった。そして共に生きたい。
だから、愛することから逃げちゃダメなんだ」
その瞬間――
ネックレスが、ふっと温かくなった。
そして、微かな声が聞こえた。
『――ならば、再び目を開けよ。そなたの望みを、見極めよ』
リュミエールは、まだ去っていなかった。
ただ、“私が気づくの”を待っていたのだ。




