11話『逆襲の序章』
翌朝。
屋敷にざわめきが広がったのは、早朝のことだった。
「奥様の侍女が、持ち場を放棄して姿を消しました」
報告に、私は一瞬だけ目を細める。
母付きの侍女・ノエル。穏やかな性格で、前世では終盤までリリーに買収されなかった数少ない側近のひとり。
その彼女が、何の前触れもなく姿を消したという。
「ありえないわ。彼女はそんなことをする人じゃない」
私は即座にノエルの部屋を確認させ、足取りを洗わせた。
使用人からの証言によると、昨夜リリーの部屋に呼ばれたあと、ノエルは自室に戻っていない。
「……リリー」
私は奥歯をかみしめた。
これは“口封じ”だ。ノエルが何かに気づいた、あるいは気づきかけていた。
その可能性だけで、彼女は排除された可能性がある。
優しさを装い、笑顔で人を“始末”する――
それが、妹リリー・ローズウッドの真の姿。
***
その夜。
私はネックレスを握ったまま、自室の窓辺で風に吹かれていた。
『リリーは、そなたの異変に気づいている』
「ええ。きっと前よりも“慎重に”潰しに来るわね」
『そなたは、耐えられるか?』
「耐えるだけじゃ足りない。……私は、勝たなきゃいけないの」
そうでなければ、また同じことが繰り返される。
またすべて奪われる。
また、母を失い、ルシアンとすれ違い、そして私は――処刑台に立たされる。
「私は、今度こそ終わらせる。妹の“無垢な仮面”を、私の手で引き剥がす」
リュミエールの声が、低く震えた。
『誤ることなき選択を』
「分かっているわ」
***
数日後。
いなくなった侍女のかわりにリリーが自ら“母の世話”を申し出てきた。
「お母様のお部屋に、今朝はわたしがお茶をお持ちしますね」
母も「リリーが来てくれるなら嬉しいわ」と微笑む。
それが“悪事”であることは明確だ。
前世でもこの日、母が突如高熱を出し、寝込んだ。
お茶に混入されていたのは、神経を鈍らせる“オピウム由来の鎮静成分”。
私は、先に厨房に指示を出しておいた。
“母の茶器だけ、別の場所で用意しなさい”。
そして母の部屋へ向かったリリーを、私は廊下の陰から見つめていた。
「……こんなにわかりやすかったのね」
リリーがティーカップを手に微笑むその横顔。
それは“聖女の仮面”のままの、美しい妹の顔だった。
だが、その瞬間――
ティーカップがすり替えられていたことに気づいたリリーの表情が、ほんの一瞬だけ、凍った。
私は、息を潜めながら、心の中で告げた。
――それでいいのよ、リリー。
あなたの本性を暴くのは、もうすぐ。
ティーカップのすり替えに気づいたとき、リリーの顔に走った一瞬の動揺。それは、ごくわずかな“綻び”だった。けれど、私には確信に変わる決定的な“証”となった。
あの子は、やはり何かを混ぜていた。
前世と同じように、母を弱らせ、力を奪い、“家”を乗っ取ろうとしていた。
だが、今回は違う。
私は細心の注意を払ってそれを阻止する。
何度でも。
私はもう“何も知らずに見逃す姉”ではない。
***
その日の午後、私はあえてリリーを自室に呼んだ。
「お話があるの。二人きりで」
何も知らないふりをして。
あの子がどこまで“演じられるか”を、この目で確かめるために。
「お姉さま。なんでしょう?」
リリーは、変わらぬ笑顔で現れた。けれど、瞳の奥には警戒の色があった。
「侍女がいなくなって傷心なさっていたけど、リリーのお陰でお母様、昨日よりだいぶお元気になられたわ」
「そうですか。よかった……ずっと元気でいていただきたいですものね」
言葉の端々に、わずかな“焦り”が混じる。
私の視線は、まっすぐにリリーを射抜いていた。
「ねえ、リリー。あなた、いつからそんな風に笑うようになったの?」
リリーが一瞬、止まった。
「え?」
「天使みたいに、何もかも赦してくれそうな顔。……でも本当は、私のことを憎んでいるんでしょう?」
「……なにを、仰ってるんですか?」
「とぼけないで。私、思い出したの。……あなたが私の髪を切った日のこと」
昔、私の筆記具が盗まれ、髪に墨をこぼされ、唯一大事にしていたカールを切られた。
それは使用人の“悪戯”として処理されたが、本当は――リリーの差し金だったのだろう。
リリーは黙ったまま、目を伏せる。
その肩がわずかに震えていた。
私は続ける。
「私が邪魔?」
「……お姉さまって、まどろっこしいですわね」
その声は、あまりにも静かだった。
仮面を被った、あの“天使”の声。
けれどその直後、リリーはゆっくりと顔を上げて、微笑んだ。
その笑みは、もう“無垢”ではなかった。
「いつも“控えめで優しい姉”でいれば、何も失わないと思っていたんでしょう? でも、それじゃ何も手に入らないって、気づいてないのはお姉さまの方ですわ」
「……それがあなたの本音?」
「違うわ。“事実”よ」
それは、初めて見る妹の“素顔”だった。
計算も、演技もない。
むき出しの嫉妬と憎悪――そして誇り。
「私はね、お姉さま。あなたが羨ましかったの。養女のくせに全部最初から持っていて。なのにそれを、“気づきもせず”にいるところが、いちばん憎いわ」
静かな告白。
だけど、私はもう揺れなかった。
「だったら?あなたの思い通りにはさせない」
「……そのつもりでしょうね。でも、私だって、黙ってやられたりしませんわよ」
リリーは、そう言って立ち上がった。
「お姉さま。今日のこの話、忘れてくださいね。……いつもの姉妹に戻りましょう。お母様が嘆くわ」
「戻らないわ。もう戻れない」
「……なら、お互い、望む形で終わらせましょう。お姉さま」
それはお互いの宣戦布告だった。
扉が閉まり、リリーが去ったあと、私は息を吐いた。
「正体を隠そうとはしなかったわね」
背中を支えるように、ネックレスが微かに震えた。
『もう迷いはあるまい』
「ようやく、本当の“戦い”が始まる」
妹リリーの天使の仮面は、もはやひびだらけだった。
次に崩すのは――あの子の“居場所”そのもの。




