繋がる世界Ⅱ
目を開けて隣に目を向けた私は息を飲んだ。トシ兄が隣に座ってじっと私を見つめていたからだ。透き通るような澄んだ瞳に、私は一気に吸い込まれそうな感覚に陥る。
あんなにうるさかったエンジンの音はいつの間にか消え、バスの中はシンと静まり返っていた。
「トシ兄……いつからいたの?」
私は慌てて涙で濡れた頬を手の甲でごしごしと拭って鼻を啜った。その間も、トシ兄は黙って私を見つめている。自分が行くはずだった高校の夏の制服を着て。
「どうだった? ばあちゃんがいた旅館は。桃には少し大人すぎたかな?」
涙の理由には気にも留めずに、トシ兄は悪戯に言う。そして逡巡して「ごめん」と一言言われた。
「桃が見る世界を、俺は一緒に見られなかった。だから、わからなかったんだ。桃が苦しんでるの。いや、分からなかったじゃないな? 知っていたけど、知らない振りをしてたんだ。桃が言った通りだ。俺がもっと……ここでの時間をかけられたら、桃のそばについてやれたんだけどな」
「ううん。私の方こそごめん。あんな酷いこと言って。本当はずっと謝りたかったんだ。でも私全然知らなかった。トシ兄が自分がいなくなる前に、私の為にそんなことを考えていたなんて」
「知らせてたら面白くないだろ?」
そう言ってトシ兄は薄っすら笑う。それに私も小さく笑った。
「ありがとう。ちゃんとトシ兄の想い、受け取ったよ。あの場所でちゃんと私らしくいられた。あそこでいろんなことがあったんだよ? もう駄目かと思った時もあったし、思いがけない友達もできた。その子はね、ばあちゃんが温泉街にいた時の友達だったんだよ? あとね、すっごく美人なんだけど本当は蛇女でお風呂に入りに来る人を脅かすのが好きなの。変わってるよね? ばあちゃんがいた宿に案内してくれた人なんだけどね……」
私は夢中になって温泉街であった出来事をトシ兄に
話していた。それをトシ兄はただ微笑んで聞いてくれた。
「楽しそうで良かったよ」
話を聞き終えたトシ兄はホッとしたように言った。
「楽しいばかりじゃなかったけどね。でも今思い返したら楽しかったかも。トシ兄は、一度は琥珀さんに会ってるの?」
私が何気に聞くと、トシ兄はキョトンと首を傾げて言う。
「コハク、サン?」
「狐のお面を付けた人で、絶対に外さないし顔を見せてくれない人。人っていうか、狐なんだけどね、きっと。てっきり私、その人がトシ兄なんじゃないかと思ってたんだよ?」
「俺は会ってないよ。言ったろ? 俺には視えないって。でも、彼がきっと桃を連れてきてくれたんだな」
「わかるの?」
「なんとなくね」
「そうだ。それでその人にね? 会ったついでにトシ兄に聞いといてって頼まれたんだけど」
「なに?」
トシ兄は私を覗き込むように訊く。
「もう一つの想いはどうするかって……一体何のこと?」
「もう一つの想い――……あぁ、あれか」
まるで遠い記憶をようやく呼び起こしたようにトシ兄は言った。
「忘れてたの?」
「最近ちょっと記憶が曖昧になる。でも今思い出した」
何か言い方が琥珀さんぽいと思って「何なの?」と私が聞くと、トシ兄は突然話題を変えて聞き返してきた。
「桃、今通ってる中学を出たらどうしようと考えてる?」
「え? と――……それは……」
あまりに急だったから、当然言葉なんて全然用意もしてなくて、私は答えに窮した。そんな私を他所にトシ兄はそばで勝手に話を続ける。
「働くっていう手もあるよな。店の手伝いでもいいし、もちろん勉強したいなら学校に行かなくても今だったら……」
「トシ兄……私ね?」
私はトシ兄の話を遮った。でも自分で遮っておきながら、その続きが中々口から出てきてくれない。言おうとしたことは決まってるのに、いざ声にしようとしたら散らばって、まとまってくれない。
「桃?」と隣にいたトシ兄の声に促されて、私は一度息を整えた。
「うん……私ね? ここに来る前は、自分のことなんて誰も知らない、村からうんと離れた学校に行こうって考えてた。母さんも、今は学校に行かなくても通信制の高校もあるからって。それもいいのかなって」
「うん」
「――でもね? 今は私、トシ兄が行けなかった、あの高校に行こうと思ってる。行けるかまだ分からないけど、行きたいと思ってる」
「それが桃の本心?」
私はトシ兄の顔を真っすぐに見て言った。
「うん。本心だよ」
「そうか」とトシ兄は口元を綻ばせる。
しばらく間があって、トシ兄は学生鞄を手に突然席から立ち上がった。
「俺もう行くな?」
私はトシ兄を目で追う。そして話の途中だったことに気付いて慌てて呼び止めた。
「トシ兄待って、さっきの返事。もう一つの想いって何だったの?」
トシ兄は動きを止めて、落ち着いた様子で私を見た。
「その答えなら今出たから大丈夫」
「そうなの?」
私にはトシ兄の言ってる意味がまるで分からなかったけど、でもトシ兄が大丈夫と言ってるからいいんだと思えて、気付いたら「うん」と小さく頷いていた。そして最後に言おうか迷って、私は尋ねる。
「トシ兄、またいつか会えるよね?」
「――うん。桃が忘れないでいてくれるなら」
「私忘れないよ。忘れるわけない」
「うん。俺も絶対に忘れない」
その言葉を聞いて私は安心した。
バスが止まり、後ろの扉が開いてトシ兄は降り口に向かう。途中でトシ兄は振り返って、話の続きを始めるように言った。
「――だから桃」
「え?」
「今手に握ってるものが元に戻っていたら、きっと世界は繋がるよ?」
「え? それどういう……」
こと? と私は答えを聞こうとしたけど、トシ兄は「じゃあな?」と言ってバスを降りていってしまった。
そしてバスの扉が閉まると、エンジン音が再び鳴り出す。車体が震えるのを感じて、私はハッと我に返って目を開いた。
バスの中には運転手と後部座席に座る私だけ。行きのバスの時と同じ既視感に「また夢……?」と私は呟いて、徐に握っていた右手を開いて見た。
夢じゃない……。
開いた手のひらの中で、さっきまで割れていたビー玉が、丸い元の形に戻っていた。
トシ兄がバスを降りる時言っていた言葉を反芻する。
元に戻っていたら、世界が繋がる? どういう意味だろうと思って、私はそのビー玉を親指と人差し指に挟んで持つと、窓に向けて外の光に晒した。
目を細めながら見る透き通った丸いビー玉は、外の流れる景色に合わせて色を変えながら、私に光って見せた。




