繋がる世界Ⅰ
私が村に帰るの日の早朝――
ここへ来たときと同じように、私はまた一人で温泉街を後にする。みんなの顔を見たら絶対に寂しくなるから、見送りはしないでと牡丹ちゃんと兼光さんに伝えて出てきた。
誰もいない温泉街を、私は一歩一歩噛みしめるように石畳の上を歩いていった。川のせせらぎだけが、来たときと変わらない音で私を見送ってくれる。
温泉街の入り口に差し掛かった私は、一度振り返ろうと足を止めた。でも、ここにあるものを一つでも目にしてしまったら、またみんなの元に戻りたいと思ってしまうんじゃないかと不安になった。心が揺らぐんじゃないかと思って、私はそのまま前を向いてまた歩き出した。でも最後にやっぱりこの目に焼き付けておきたくなって、私は来た道を振り返る。
すると九十九温泉街がたちまち霞んで見えなくなるところだった。白い煙に覆われて、霧と化して消えていく。まるでそこに何もなかったかのように。
ううん。見えないけど、本当はそこにある。私は知ってる。そして、自分にはもう必要のない場所だってことも。でもまたいつか、来られるといいな。そう思って私は前を向いてまた歩みを進めた。
しばらくすると来た時に降りたバス停が見えて、無意識に私の足取りは速くなる。すると突然後ろから声がした。ここにいる間随分と聞き慣れてしまったその声に私は足を止める。
「ゆえに――……君のおばあさんの守神はあの人形だったわけだけど……君はお守り代わりにいつも墨玉を持ち歩いているだろう?」
うんちくを並べられるのもこれで最後かと思って、少し名残惜しく感じながらも私はゆっくりと振り返った。彼はいつもと変わりない狐のお面顔で私に語りかける。詰襟のシャツにたっつけ袴。足下は裸足に下駄。これも出会った時と同じだ。
「ここではないどこかの異国では、薬を自身の体のためではなく、お守りとして体内に取り入れているらしい。つまり……君のしていることは間違っていない」
「ありがとうございます」
私はクスリと笑いながら言った。言われてる意味は何だか分からないけど、とにかく私がそのままでいいと言ってくれているんだと私は解釈する。
「琥珀さん……」
「何だい?」
「トシ兄は、ここで何が起こって私が何をするかまで分かっていたんでしょうか?」
「ふむ、そうだな……そこまで見越していたとは考えずらい。ここに連れて来ることが目的で、そこでどう選択していくかは君次第だからね? 現にそうだったじゃないか?」
「そうですよね、私もそう思います」
「そうだ、君にひとつ言い忘れていたことがある」
「何ですか?」
「君のじいさんの墨玉を盗んだ犯人だけど……」
それを聞いて、あっと私は思い出す。そもそも私がここへ来た理由を忘れて帰るところだった。あぶないあぶないと思いながらも、今の自分なら何を聞いても驚かない自信があった。
「墨玉を盗んだのは誰だったんですか?」
「トシの他にもう一人、君のことを想いながら忘れずにいた者がいる。君が一人にならないようにずっと。君はもう気付いているかもしれないけど、彼女が、君の家の墨玉を盗った犯人さ」
「彼女……?」
私はふと自分がある女の子に心当たりがあることに気付く。
「自分の大切な存在が大事にしているものを隠して、そのかわりに探し物を見つけてやる。彼女の大切な存在とは君だったわけだけど。その君が大事にしている墨玉を隠して、かわりに君が安心できる居場所を見つけようとした。彼女がしようとしたのは、つまりそういうことさ」
それを聞いて、やっぱりあの子しかいないと私は確信する。私は気付いている筈だった。あの子が、村の子供ではないということに。
「人に近しい妖がやりがちなことさ。それを言ったら、僕にも当てはまるかな?」
そう言って琥珀さんは肩を竦めた。そして一度咳払いをして続ける。
「一つ君に知っておいてほしい。妖の中に稀に、自らを人の心の写し身にする者がいる。そうやって、人と同じ気持ちを無意識に共有するのさ。その相手が、大切に想う人であればあるほどにね。案外彼女もそうだったのかもしれないよ? 彼女に悪気はない。むしろ君の為に良かれと思ってやったことだ。悪く思わないでやってくれ」
「悪くなんて思ったりしません。ここに来てからいろんなことがありすぎて、今琥珀さんから話を聞かなかったら、じいちゃんの薬のこと忘れてそのまま帰るところでしたから」
「ははっ図太くなったもんだね、君も」
「それに盗まれた墨玉はもう元に戻ってるんですよね?」
「あぁもちろん。約束したからね、君の居場所に連れてくことを条件に。そして……まぁそれはいいか」
琥珀さんは何かを言いかけてやめた。気になったけど、薬は戻ったと聞いて取り敢えず私はほっと胸を撫で下ろす。
「教えてくれてありがとうございます。それだけじゃなくて――……琥珀さんにはたくさん危ないところを助けてもらったし、いろんなことを教わりました」
「いやいやなんの」
琥珀さんはお面の横で手を振った。
「私、最初来る時不安だったけど、でもここに来て、みんなと出会えて良かった。連れて来てくれてありがとう。琥珀さん」
私は最後にお礼を言って一礼した。
琥珀さんは黙ったまま私の方を見ていた。もちろん狐のお面のせいで、どんな表情かまでは分からないけど。
じゃあ。と私は行こうとすると、「ああそれと」と琥珀さんは私をまた引き留めた。
「もし彼に会ったら伝えてほしいことがある……」
「彼? って、トシ兄……ですか?」
「もう一つの想いはどうするか、もし会ったらついでに聞いといてくれないかな」
「もう一つの想い? トシ兄は他にも何か言っていたんですか?」
トシ兄もいくら自分が死ぬからって欲張りだな、と私は思う。琥珀さんも琥珀さんだ。それをついでに人に頼むなんて。一体私がいつトシ兄に会うというんだろう。
よく分からないけど、「……わかりました。もし会ったら言っときますね?」と私は取り敢えず適当に返事をする。
「ほら、もう行きな。バスが来てしまう。さっきのようにまた振り返るなよ?」
私を引き留めたのは琥珀さんの方なのに。しかも何度も。それにさっきのようにって、いつから私のこと見ていたんだろう? 文句を言いそうになったけど、本当にもうバスが来そうだったから私は行くことにする。
「琥珀さん、さようなら。みんなにも私がありがとうって言っていたと伝えてください」
「君も息災でな?」
私はやっと琥珀さんに背を向けて歩みを進めた。
一本道の大きなカーブを曲がってバス停まですぐそこというところで、ちょうど向こうからバスがやって来るのが見えた。バスが停車するとすぐに後ろの扉が開いて、私は小走りで行ってそのバスに乗り込んだ。
背負っていたリュックを肩から外しながら、一番後ろの方まで進んでいき、来た時と同じ後部座席にリュックを置いてその隣に自分が座る。途端に扉が閉まってバスは動き出す。バスはユーターンすると、坂道を上って速度を速めていった。
座った時、右足の腿に違和感を感じた。ポケットに何か硬いものが入っていて、私は中にあるものを取り出してみた。
それは半分に割れたビー玉だった。鏡の中で、琥珀さんと唯一繫がることが出来たビー玉だ。そういえばあの時、ポケットに入れたままにして、琥珀さんに返すのを忘れていた。
これ、返さなくて良かったのかな……? と思うけど、今更どうすることも出来なくて、私は割れたビー玉をそのまま軽く握って手の中に閉じ込めた。
バスが確実に温泉街から離れていると実感すると、私は今頃になって寂しさが込み上げてきた。宿を出てからずっと堪えていた気持ちが一気に溢れ出てくる。
最後に琥珀さんと話せたけど、やっぱり帰る前にせめてみんなの顔だけでも見とけば良かったかな、と後悔して振り返りそうになったけど、ギュッと目を瞑って、はやく離れて、はやく離れて、と今思ってる逆のことを心の中で何度も唱えた。
バスの中には私と運転手以外誰も乗客はいなかった。バスが大きく揺れた時、瞼の淵に溜まっていた涙がズボンの上にこぼれ落ちた。その瞬間、
私は堰を切ったように、バスのエンジン音に紛れて声を殺して泣いた。
泣いて、泣いて、泣き疲れると、急に頭がぼうっとして眠くなる。
すると――
「桃」と隣で声がした。
それはまるで、この旅の終わりを告げるかのような声だった。




