取り残された想いⅠ
「宿に火を付けたのはあの狐ではなく……貞治だった……多恵を守り、仁栄とヒナ子様を逃がし、全ての責任を彼が負った……? どうしてオレはこれまでずっと気付かなかった……?」
全てを見終えた兼光さんは呆然と立ち尽くす。
「兼光さんが気付けなくて当然です……もしあの頃に戻れたとしてもこのことは避けられなかったし、誰のことも責めたりできない……」
私は兼光さんの肩にそっと手を置いた。
「私、貞治さんがいたあの炎の中に、多恵さんを見た気がしました。きっとあの二人は、最後は一緒にいられたんだと思います」
悲しい結果になってしまったけど、あの日を境に、貞治さんと多恵さんは本当の意味で苦しまなくてよくなったんだ。今はそう考えることでしか、このやるせない気持ちを上手く手放すことが出来なかった。
でも貞治さんはどうして琥珀さんのお面を付けていたんだろう。そうじゃなかったら、兼光さんは誤解することはなかったのに。
真実を見届け、疑問を残しつつも悲しみの余韻に浸っていると、
「待って?」
私はふとあることに気付いた。
「私たちが今いるここって、どこなの?」
私は辺りを見回した。
過去を見終わったら鏡台の前に戻るものと思っていたのに、気付くとまた別の場所にいた。まるで真夜中のような静けさで、あたり一面暗闇に包まれている。真暗な視界と、この先何が起こるか見通せない不安が私を襲った。
「宿の外?」
そういえば、さっきから微かに風が流れてきている。
徐々に視界が暗闇に慣れていき、まるで意識がはっきりしていくように、ぼんやりとした景色が広がった。
「うそ……だってここは……」
そこで見たのは私の知っている温泉街じゃなかった。
私の目に映っていたのは、兼光さんを通して見た時と同じ、焼け落ちた温泉街だった。
宿から漏れる明かりは一つもなく、私と兼光さん以外、誰の気配も感じない。見上げると、空は黒い雲に覆われていて、その後ろ側では今にも消え入りそうな青白い三日月がおぼろげに光っていた。
私がここに来るときには、既に空が淀んでいた。あれから一体どれくらい時間が経ったのかは分からない。もしかして結界はとっくに崩れてしまっていて、だからこんなに暗いままなのかもしれないとも思った。も
するといつの間にか顔を上げて辺りを見回していた兼光さんが、落ち着いた様子で言った。
「ここはあの日焼き払われたあとの温泉街です……彼の結界が崩れた証拠」
「元に戻せないんですか?」
「残念ながら結界が一度崩れてしまっては、元に戻すのは難しいでしょう。今目にしているものが九十九温泉街の本来の姿……あなたが今まで見ていたものは、まがい物に過ぎなかったのです」
「そんな……」
私は途方に暮れる。
「何とかならないんですか? 何か方法が……」
「申し訳ありません……オレではどうにも…」
私の問いは虚しく、兼光さんは目を伏せてゆっくりと顔を左右に振った。
ふと見上げた場所に、崩れかけた看板が目に入る。そこからゆっくりと視線を先へ移せば、見覚えのあるものが次々に目に映りこんできた。
焼け崩れた宿。倒れた縁台。川に崩れ落ちた橋。灯りを失った街灯。
兼光さんが言うように、確かにこれが最後に見せた本当の九十九温泉街の姿なのかもしれない。けれど私は信じたくなかった。目の前に広がる、この真っ黒な世界が本物だなんて、どうしても信じられない。私はどうすればよかったんだろう。
「私達はここから出ることは出来ないんですか?」
「オレはそもそもこの温泉街から出ることが出来ない身です。当然そんな方法知る由もありません」
「そんな……そんなの困るよ……私、家に帰りたい……」
泣きそうになりながらその場にしゃがみ込もうとした時だった。
どこから吹いてきたのか、じっとりと湿気が籠もった風が通り過ぎて、私の頬を撫でていった。一緒に鉄臭い匂いが鼻を掠める。
突然、兼光さんが私の後ろで何かを打ち払った。
振り返ると地面に一本の赤い番傘が落ちていた。その傘は、まるで血が乾いたようなどす黒い色をしていて、鉄臭い匂いが一層強くなって辺りに充満する。
「何で傘が……?」
「こちらを狙ったようです」
「誰が?」
私は傘が飛んできた方角に目をやった。でもどこまでも続いている闇が、あるもの全てを遮っていて何も捉えることが出来ない。
「わかりませんが……桃さん、あなたを狙ったように思えました」
それを聞いて体中に恐怖が駆け巡った。
「私を?」
一体どうして……?
「様子が変ですね……桃さん、オレから離れないで下さい」
兼光さんは即座に警戒すると、傘が飛んできた方に体を向けて、庇うように私の前に立った。
私は兼光さんの後ろで息を潜めて様子を窺う。
すると視線の先に、暗闇に紛れるようにして佇む、着物を着た女性の姿が見えた。いつからそこに立っていたのか、今もじっとこちら側を見ているようで、私の背筋はゾクッと凍り付いた。
「あなたは……」
兼光さんは何か気付いたように掠れた声で呟いた。でも私にはまだ遠くにいる女性が誰なのか判別出来ない。
「誰?」
私は目を凝らした。
その女性が禍々しい空気を放っているのを感じた。私を狙ったという傘と同じ赤色の着物を着流して、こちらを見る二つの目は抉られたみたいに真っ黒だ。最早見えているのかさえ定かじゃない。
でも待って、と私はあることに気付くと更に目を凝らして見た。
違う。赤色の着物を着てるんじゃない! あれは血だ!? 全身が真っ赤な血で染まってるんだ。鉄臭かったのは、あの人が放っていた血の匂いだったんだ。
私は地面に転がった傘を見た。
この傘の色も恐らく着物と同じ血で染められたものに違いない。でもどうして血まみれ? そう疑問に思ってから気付くまでに時間は掛からなかった。ついさっき起こった惨劇を私は思い出したからだ。
「もしかして……」
「あの方は……間違いない。貞治と多恵の母君、宿の女将です」
私が言うより先に兼光さんが言い当てて、私は「やっぱり」となる。
「しかし一体何故ここに?」
疑問を口にして直ぐ、兼光さんの顔がハッとなって目を見開いた。
「もしやあれからずっと彷徨っていたというのか? 自分が死んでることにも気付かずに」
あの女性が貞治さんのお母さんと分かった途端、私はどうしようもない気持ちになった。貞治さんのお母さんの気持ちが分かってしまったような気がしたから。
鏡の中では、貞治さんのお母さんは悪者みたいになっていたけど、でもお母さんが最後ありありと見せたあの姿は、誰しもが隠し持っているものだ。
それは怖れだ――
私は悪い存在だと思われている。そんな私のことを影で悪く言う人がいる。そこから良くない噂が立つ。そういう噂に限ってみんなの元に届くのは早い。怖くていつもビクビクしていた。
誰にも言えない、誰も分かってくれないなら、いっそひとりでどこかに閉じこもっていたい。そして出来るなら消えてしまいたい。それは自分の村で私がいつも感じ、思っていたこと。
私はふと思って口にした。
「貞治さんのお母さんはきっと、怖れしかなかったんじゃないかと思うんです。息つく暇もないほどに。ずっと一人で苦しんでいた」
「人が思う怖れとは、一体なんなのでしょう。人とは違うオレには理解し難いことです」
「それは人それぞれだと思います。貞治さんのお母さんの場合、きっと怖れが怖れを呼んだんです。ひとりになることを怖れて、それで結果ずっとひとりだった」
その人の過去を辿るのは簡単だけど、そこに様々な見えない感情が絡みあっている。それは鏡を通して、貞治さんのお母さんから垣間見えたことだった。それを知ったところで、お母さんの過去は報われない。
「たったそれだけ……ですか?」
そう、たったそれだけ。兼光さんの言う通りだ。
「でも最後は実の息子の怒りを買って殺された。彼女は屈辱と苦しみを与えられたも同然……女将に残ったのは今や怨念だけです……」
「どんなに憎む心を持ち合わせていても、貞治さんと多恵さんのように誰かを守りたいと思う気持ちがあれば、お母さんも自分を見失わずに済んだと思うんです。でももし怖れしかなかったら……」
「心の闇が深いほどその怨念も強い。それは重たく悲痛なものになり得ます。かつては宿の女将だった彼女ですが、今はもう自分が何者かすらも分からなくなっている」
兼光さんが言ったその時だった。
向こうでただ佇んでいた血まみれの女将が、急にこちらに向かってゆっくりと進み出した……!?




