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忘れられない、たった一つの願いごと  作者:
最終章:想いの果てに

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53/66

真実

『母さん!』

 声を荒げた声に驚いて、私は肩を大きく揺らした。



 気付いたら貞治さんが寝ていた部屋とは別の和室に私と兼光さんはいた。

 一体何事かと目を向けると、胡座を掻いた貞治さんと、その向かい側に多恵さんではない女性が正座しているのが見えた。



 白髪まじりの髪を結った五、六十代位の女性で、髪と着物の合わせには一切の乱れはなく、控えめな色を纏って物腰柔らかそうな印象ではあるけれど、貞治さんのことを表情一つ変えずに見据えていた。



 貞治さんはその女性に向かってしきりに何かを訴えていた。



『俺はこんな体だから何も力になってあげられないが、仁栄と多恵がいれば、母さんだってこの先何かあってもひとりで抱えることもなくなる。みんなで助け合っていけばいいじゃないか……そうだろう? 母さんもそう思ったから二人のことを許してくれたんじゃないのか?』

 貞治さんの話を聞く限り多恵さんたちの結婚についてのようだった。



『あまり大声を出さないでちょうだい。客間の方にまで聞こえたらどうするの? 恥知らずね。そんなに声を張り上げなくても母さんの耳には届いているわよ』

 貞治さんが母さんと呼んだその人は、僅かに嫌悪の表情を覗かせた。やけに落ち着きを払っていて、言い方は冷ややかで厳しい感じがする。



 貞治さんがこんなにも切羽詰まった様子で訴えているのに、貞治さんのお母さんはさっきから眉ひとつ動かさないでいる。それどころか、貞治さんよりもこんな時までお客さんのことを心配していた。

 この人が、貞治さんのお母さんか――



 二人でというより、貞治さんの方がお母さんに何か話したいことがあってこうして場を設けたようだった。



『母さん、俺は真面目に話してるんだよ? ヒナ子のことだってそうだ。いつまでもそうやってあの子のことを突き放すのはやめろよ。もういない人のことより、今いる人を大事にするべきだろ?』

 貞治さんは指摘された通り声の音量を落として、それでも切に訴えた。



『そうやってみんなで母さんを悪者にして』



『そうは言ってない。ただ母さんが……』

 諭そうとする貞治さんを遮って、今度はお母さんの方が切り出した。



『母さんがなに? 何をしたっていうの? みんなして私のこときちがいみたいな目で見て。母さんはね、父さんがいた時からずっと我慢しているの』



 それには貞治さんも初めて聞くことのようで、『我慢?』と怪訝な顔で聞き返す。



『仁栄のことはいいわ。父さんのほんの出来心だったんだから。でも多恵は違う』

 お母さんはきっぱりと言った。



『多恵は父さんの友人の子だろ? 身よりもなかった多恵を引き取って悪いことは何もない。確かに母さんは大変だっただろうけど、多恵だって母さんのために今頑張ってるじゃないか。むしろ助けられてる』



『友人?』フンとお母さんは鼻で笑った。

『私はわかってるのよ。多恵も父さんの子だって』



『まさかっ!? それは母さんの考えすぎだ』



『違わないわ。仁栄の時とは違うの。だって故人の子を養子にしてまで大事にする理由が他にあると思う?』



 貞治さんのお母さんの言い方だと、多恵さんと貞治さんは兄妹だと言っていることになる。そしてこれから夫婦になろうとしているばあちゃんのお父さんともだ。



 何が本当なのか私も聞いていて分からなくなった。死人に口なしとは正にこのことだ。貞治さんの言う通り、どうして残された者同士で助け合って生きていけないんだろう。


 

 ふと自分の母さんを思った。母さんはトシ兄が亡くなった今でも、誰にも言えない辛い思いを抱えているのかな……。



 貞治さんのお母さんの言い分は続いた。

『だから多恵はこの宿の為に身を粉にして働いて当然なのよ!』



『そんな言い草はないだろう? 多恵は? 多恵を呼んできてもう一度三人で話そう』

 貞治さんはこのまま話し合っていても埒が明かないと判断したのか提案する。するとお母さんが妙に落ち着いた様子で言った。



『多恵なら今頃、客間で上客の相手をしているけど?』 

 こともなげに放ったお母さんの言葉に、貞治さんの表情は一瞬で固まった。

『こんな夜更けに?』と訝しげに訊く。



『あぁ、貞治に話してなかったわね? この際教えてあげるわ?」

 お母さんは白々しく言う。まるでこの状況を楽しんでいるように私には見える。そして貞治さんのお母さんは他人事のように言い放った。

「多恵には客の身の回りの世話だけじゃなくて、寝所の世話にもあたってもらっているのよ』



『何だって? そんなの聞いてないぞ』

 開き直った様子でいるお母さんを前に、貞治さんは表情をなくしていた。



(なんと……)

 隣で兼光さんが驚いた様子で呟いた。

(この白虎宿家は由緒ある旅籠屋。遊里にあるような宿屋ではない……っ)



(どういうことですか?)



(ある時代、客に対し食事の給仕をするという名目で、夜の相手をする女を置いていた宿があったのです。しかしその行為はあくまで私的であって強制ではなかった筈。この時の多恵はきっと女将の無理強いだったに違いない)



(そんな……じゃあ多恵さんは無理やり……? お母さんはどうして多恵さんにそんなことを……?)

 理由を考える間もなく、この後お母さん自らが口を割った。




『仕方がないさ……よその女はみんな人のものを取りたがるんだから。でももううんざり! どこの馬の骨だか知れない子どもが、うちには二人もいて、ひとりは子を作ってまた増やしちまったんだからね』

 貞治さんのお母さんは豹変したように言った。そこに嫉妬や恨みがありありと滲み溢れていた。お母さんのやってることは、ただ人に嫌がらせをして自分の鬱憤を晴らしているのと同じだ。



『それは仁栄とヒナ子のことを言っているのか?』

 そう尋ねる声は低く、貞治さんはこれ以上にないほど打ちのめされた様子だった。



『お前も気の毒だよ貞治。父さんと母さんの実の息子である筈なのに、私のせいでそんな体に産まれてしまって……今ではただ自室にずっと横になっているしかないんだからね? でももう大丈夫なんだろう? 仁栄と多恵が一緒になってこの宿を守ってくれる』

 さっきは多恵さんたちのことを反対してるようなことを言っていたのに、今度は手のひらを返したようになる。ここにきて、貞治さんのお母さんは、まるで何かに憑りつかれたようだった。



『仁栄は知らないだろうね、まさかこれから添い遂げようとしている女が、毎晩のように他の男に抱かれているなんて。何を心配してるのか、多恵は多恵で、あの子を客と私の目に触れないようにしているみたいだけど? そんなことしたって無断だっていうのに』

 それを聞いた貞治さんの表情は強張った。



『だからか――だがら多恵はヒナ子を……』

 多恵さんがばあちゃんを座敷牢に閉じ込めていた理由が明らかになり、貞治さんは呆然とする。あの時多恵さんに問い質せなかった自分を、何より気付けなかった自分を責めているようだった。でもそれは、貞治さんだけではなかった。



(多恵があの座敷牢にヒナ子様を閉じ込めていたのは、客の目に晒さないようかくまうためだったのですね……あやかしが視えるヒナ子様はこの宿に災いをもたらす。そう思わせておくことでヒナ子様の身を守っていたというのか……)

 隣にいる兼光さんもまた、自分に対してなのか怒りを滲ませて目を伏せた。



 きっと多恵さんは、まだ小さいばあちゃんを守ることで、自分を守っていたのかもしれないと私は思った。体はボロボロでも、せめて心だけは清らかでいたかったんじゃないかと、そう思った――



『――……母さん……あなたって人は、なんてことを……よりによって多恵にそんな仕打ちを……しかもヒナ子のことまで』

 悲痛な声で言う貞治さんに、お母さんは怒気を含んだ声で怖ろしいことを言い放った。



『知ってるんだよ? 貞治……あんたが密かに多恵に想いを寄せてることくらい。私が気付いていないとでも思ったの? 多恵と仁栄が一緒になって、二人がこの宿を守っていく。そうすることで、例え自分がいなくなっても今後多恵の居場所が無くならないようにと考えついたんでしょうよお前は? なんて優しい子なんだろうねぇ。でも母さんは違う。今までずっと奪われてばかりの母さんはね。他人にただで居場所をくれてやる筋合いはないわ。多恵にはこれからも客を体で取ってもらうし、あの子も大きくなったらいずれ多恵のように働いてもらうよっ!』



『やめろよ母さん! 今すぐやめさせろ!』

 ずっと目を伏せ気味に我慢して聞いていた貞治さんが、突然限界を迎えたように声を張り上げた。思いきり顔を歪ませた貞治さんの頬は既に涙で濡れている。



 もうどうやっても取り返しのつかないやり取りを見て、私は胸が押しつぶされそうになった。涙が溢れてくるのを必死に堪えようと口許を手で押さえたけど嗚咽が漏れてしまう。そんな私を兼光さんは横からそっと私の肩に手を置いて自分の方へ寄せた。



 貞治さんの叱咤にも意に介さず、お母さんは急に穏やかになって言った。

『やめさせろって、今も取り込んでる最中にかい? だったら貞治、お前がお行きよ。そして多恵が今世話してる客に向かって言うのね? その女は自分の大事な想い人だから手を出すなって。そんなこと多恵の前で言えるかしら?』

 貞治さんをわざと試すように言って掻き立てる。私は開いた口がふさがらなかった。でも貞治さんは項垂れたまま微動だにしない。私は心配になる。



『いいからお前は今まで通り大人しくしていればいいのよ』

 吐き捨てるように言って、貞治さんのお母さんは立ち上がった。



 貞治さんは両膝の上に置いていた手をぐっと握って拳を作り、小刻みに肩を震わせながらゆっくりと顔を上げた。その表情は、多恵さんといた時に見た穏やかさは一切なく、怒りに震える別人の顔だった。



 貞治さんのお母さんはすくっと立ち上がり、部屋を出ようと背中を向けた。そして襖を開けようと手をかけたその時だった――



 ――涙で霞んだ視界に、赤い液体が飛び散った。



 同時かそれよりも少し早く、まるで幕が下りたみたいに青い布がサッと私の目の前を塞いだ。

 色彩が赤から青へと変化したことだけに私の意識は向かう。同時に懐かしいお香の香りが鼻孔を擽った。



 やや遅れて鮮やかな青は兼光さんが着ていた着物の袖の色だと理解する。

 兼光さんは今起きてる惨劇を私に見せまいとしてくれたんだ。

 おかげで何も見えなかった――



 でも――鮮やかな青い布の裏側で何が起きたのかは残念ながら私には明白で、多分、貞治さんはお母さんを――



 そう思った瞬間。たちまち、目の前が炎に包まれた。そして貞治さんの声が聞こえてくる。



『仁栄、ヒナ子を連れてここから逃げるんだ。二人がこの場所に縛られることなんてない。あとは俺と多恵で……わかったなら早くヒナ子を連れてここを離れるんだ!』



 炎に焼かれて崩れ落ちる建物の中で、白い浴衣を着た貞治さんが佇んでいた。兼光さんを通して見た姿と同じで、顔に琥珀さんが落としていった狐のお面を付け、軽くこちらを振り向いた。



『――……確かにあの子は守ったぞ……』

 最期誰に向けて言ったのか、貞治さんは冷ややかな笑い声を上げながら、炎に飲まれて消えていった。

 炎の奥には薄っすらと多恵さんの姿があったように見えた――

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