兄と妹Ⅲ
『多恵か? 入っていいぞ』
貞治さんが襖に向かって言うと、部屋の襖が静かに開いた。そこに正座した女の人が現れた。
多恵さんだ。と直ぐに私は気付いた。
『兄さん。体を拭きにきましたよ』
多恵さんは小さな桶を持ち上げて部屋の中に置くと、両手を襖に添えてそっと閉めた。
(あっ、琥珀さん?)
多恵さんに見つかるのではないかと思って私は慌てて障子の方に目をやったけど、琥珀さんの姿はもうとっくにいなくなっていた。仮にまだそこにいたとしても、多恵さんには視えないし、琥珀さんなら知られないように姿を消すことなんて造作ない。と後から思った。
『あら? 起きてたの? 明かりも付けないで……?』
てっきり寝ているものと思っていたのか、多恵さんは体を起こしていた貞治さんに少し驚いていた。
『今起きたところだ』
今まで琥珀さんがいたことは伏せて貞治さんは言った。
多恵さんは立ち上がって行灯の側に行くと火を灯した。たちまち壁や天井に明かりが照らされてぱぁっと広がる。灯火で貞治さんの顔も照らされた。
いつから外に出歩いていないのか、とても健康的とは言い難い青白さで、病気のせいなのか、単に筋肉が衰えているからなのか見るからに体は瘦せ細っていた。でもその顔は、声を聞いて想像していた通り柔和な表情で、まだ青年のようなあどけなさが覗いている。この宿の跡継ぎと聞いても誰も疑わないような風格が漂っていた。透き通るような淡い二つの目で、さっきからずっと多恵さんを追っていた。
多恵さんはというと、毎日客を相手にもてなしているだけあって、一つ一つの動きはしなやかで上品だ。灯火にあたって薄っすら見えた多恵さんの顔はとても端正な顔立ちをしていて、青の灰色がかった淡青色の着物が彼女のそれを引き立てていた。怒っていなかったらこんなにもおしとやかなんだ。とばあちゃんを座敷牢に無理やり入れていたのを思い出して、私はその時の多恵さんと比べてまじまじと見つめてしまっていた。
多恵さんは今度は障子窓が開いていることに気付いて、障子の前まで歩いていく。そして開いていた障子から外を軽く覗いて変わりがないことを確認し、そっと閉めた。
すると、『あら?』と足下にあった何かを拾い上げて貞治さんに尋ねる。
『これは兄さんのもの……?』
『なにがだ……?』
多恵さんの手には白いお面があった。琥珀さんが付けていた狐のお面だ。
それを見た貞治さんは、『あ、ああ俺のだ』と少し慌てたように言う。
『本当に? 部屋に入る時も兄さんではない声がした気がしたけれど、もしかして誰か来てたの……?』
『いや、誰も来てない。こんなつまらないところに一体誰が来るっていうんだ? 多恵と物好きなあやかしぐらいなもんだ』と貞治さんはわざとからかうように言った。
『悪かったですね? 来たのが綺麗なあやかしではなく、見慣れて面白くもない私で』
はじめは疑っていた多恵さんも、貞治さんの悪戯な言い方にどうでもよくなったのか、わざといじけるように言って見せる。その表情は、忙しい兄がやっと遊び相手になってくれて喜ぶ妹みたいに嬉しそうだった。
『冗談だ』
口元を緩めながら柔らかい眼差しになる貞治さんに、多恵さんも笑みを零していた。その表情はさっき座敷牢にいた時とは全く別人のように穏やかで、私は目を見張った。
二人の様子に、血の繫がりはなくてもすごく仲がいい兄妹なんだなと思うのと同時に、私の中で妙な懐かしさが込み上げてくる。
多恵さんは、貞治さんの着ていた白い浴衣を肩からそっと外した。貞治さんの白くて痩せた薄い上半身が露わになる。それを見て私は少しドキッとした。
そして多恵さんは、桶にはった水に手ぬぐいを浸して堅く絞って、自分の手のひらよりやや大きいサイズに折り畳むと、骨張った貞治さんの背中にやさしく当てていった。
まるでこの二人……。
憶測を働かせればどうしてもひとつの事柄に辿り着いてしまう。私は気付いてしまう前に考えるのをやめた。何かいけないものを見ているような気分になった。
多恵さんが背中の次に、腕、胸と順に拭いていると、貞治さんが多恵さんの顔を覗き込むように言った。
『どうした? 元気がないようだが……疲れているのか? それとも母さんに何か言われたか?』
『いいえ兄さん。タエはこの通り元気です。兄さんは心配性なんだから』
多恵さんはクスリと笑う。
『そうか、ならいいが……何かあったら俺に言えよ? といってもこんな体だから何もしてやれないがな……』
自嘲を交えて言った貞治さんの言葉に、多恵さんはただ微笑むだけで貞治さんの体を拭き続けた。
『多恵? ヒナ子はどうしてる。元気にしてるか?』
けれど不意に尋ねた言葉に多恵さんの手が一瞬止まる。直ぐに手拭いを桶に入れて、今度は貞治さんの足に掛けてある布団を捲った。布団の上に胡座をかいていた貞治さんの痩せ細った二本の足が露わになる。
『――はい。今日も誰に貰ったのか手鞠で遊んでいましたよ? たいそうそれが気に入ってるみたいで』
言いながら水の中で軽く手拭いをゆすいでからまた堅く絞る。
『――そうか……それならいい』
貞治さんはこの時、琥珀さんと約束した、ばあちゃんを座敷牢に入れているという事実を確かめようと試みようとしたに違いなかった。
けれど結局、多恵さんが貞治さんの体を丁寧に拭き終えて、新しい浴衣の着替えが済んでも、それについて触れることはなかった。
私はずっと、貞治さんのそばに置いてあった狐のお面が気になって、目が離せないでいた。




