兄と妹Ⅰ
灯火のない部屋に、月明りがさしていた。
『そこにいるのは誰だ?』
何か気配を感じたのか、部屋にいたひとりの男が窓の障子に向かって尋ねる。
見る限りでは、今この部屋にいるのは今障子窓に向かって尋ねた男と、その様子を見ている私と兼光さんしかいない。
男は畳の上に敷いた布団の上で横になっていた。胸のあたりまでかかった掛布団の上には、白くて細い両腕が乗せられている。窓の方が気になっても、枕に乗せた頭を僅かに上げるだけで、自分で体を起こすこともままならないといった様子だ。
薄暗くて顔はよく見えないけど、声音を聞く限り年老いた感じはなくて、まだ青年のように若い。
すると兼光さんが隣で言った。
(彼は貞治です)
(ていじ?)
それはついさっきも聞いた名前だったけど、私は直ぐにはピンと来なかった。
(この宿の当主の長男で、多恵の兄です)と兼光さんは付け加える。それでようやく、座敷牢にばあちゃんを閉じ込めていた女性のお兄さんであると私は気付いた。
(この人が、多恵さんのお兄さん……)
すると月明かりが障子を青白く照らし、そこに異様な形をした黒い影を映し出した。奇妙な状況にもかかわらず、貞治さんは慌てることなく落ち着いた様子で、その障子に映る影に向かって声を掛けた。
『そのままそこにいるつもりか? 姿を見せてみろ。どんな姿でも俺は驚かない』
貞治さんが言っても、相手は黙ったままで、影は相変わらず微動だにしない。
『安心しろ、こんな体だ。何も出来やしない』
貞治さんがそう言っても、向こうはまだ警戒しているのかひと言も発しなかった。その代わりにというように、開いた障子窓の間からようやくそっと姿を現して、窓の下に音もなくしゃがみ込んだ。月明かりに照らされた狐のお面が、青白く不気味に光っていた。
(なぜこの男がここに……?)
すぐさま疑問を口にしたのは、隣にいた兼光さんだった。私もまさか琥珀さんがこの宿でばあちゃん以外の人間に近づくなんて、と思った。
彼から伸びる漆黒の影を辿ると、人であれば決してある筈のない獣の尾があった。それも一本じゃなく複数に裂かれて、ゆらゆらと左右に動いている。こっちから見ると、まるで人間に尻尾が生えているみたいだ。
きっと影の方が、彼の本来の姿なんだろうと私は思う。
私は知ってる……。
迷い込んだ洞窟の中から抜け出そうと、無我夢中で何かにしがみついたのは、思えば数刻前のことで、その時私を包み込むように触れた、冷たいけどふわりとした優しい温もりが……今でも薄っすらと自分の手に残っていた。
『何しに来た? 俺の命でも取りにきたのか? どうせこんなもん取ったって、君の特にはならんよ……』
貞治さんは自分を揶揄するように言って力なく笑うと、急に激しく咳き込んだ。それが治まると、ふと思い出したように続ける。
『でも待てよ? 何で俺に君が視えている? 君はその、人ならざるものだよな? 今まで生きてきてこんなことは初めてだ。やはり俺に死が近付いているからか……?』
『視えてるんじゃない……視せているんだ』
今まで無言だった琥珀さんは、ここでようやくというように口を開く。
『視せている?』
『今は視せたい者にだけ姿を視せる』
『その言い方だと、俺はどうやら嫌われていないらしいな?』
貞治さんは気分を良くしたように薄ら笑った。
『姿は見せてくれたはいいが、顔は見せてはくれないのか? まさか人見知りなわけではないだろう? それともそれがないと人の前に出られないのか?』
貞治さんは興味津々に訊く。《《それ》》とは、もちろん彼の顔にあるお面のことを指して言っているのだろう。元々人懐こい性格なのか、感じて思ったことを直ぐ口にしてしまう性分なのか、その様子は病人というより、まるで好奇心に満ちた無邪気な子供みたいだ。
貞治さんて私が思っていた人と違った。ばあちゃんを座敷牢に閉じ込めた多恵さんのお兄さんだから、てっきりもっと恐い人かと勝手に想像してたけど、見たところ、すごく穏やかで楽しい人の感じがする。
『どう解釈しようと自由だ。ただまぁ……そうだな……何でかと聞かれれば、素顔よりきっとこの面の方が親しみやすいからかもな』
『ははっ、そうか。それはそうかもしれないな。はははっあやかしというのは案外愉快な生き物なんだな?』
『皆がそうとは限らない』
『ふーん? ま、少なくともきっと、あの子の目には、常に俺たちとは違うものが視えているというわけか……』
貞治さんは自分から話題を振っておきながら興味なさげな返事をすると、声を落としてひとり言のように言った。
それに琥珀さんは『あの子?』とすかさず訊き返した。
『この宿で働く板前の一人娘だ。まだ十にも満たない。母親を早くに亡くし、物心がついた頃から、君のようなあやかしや物の怪といった類が視えているらしい』
『その子のことはよく知っている。その子の父親とあんたの妹が、もう直ぐ一緒になってこの宿を継ぐということも』
『……あの子に訊いたのか?』
貞治さんは少し驚いたように尋ねる。
『あんたはそれでいいのか?』
琥珀さんは貞治さんの質問には答えないで逆に問い返した。それに対し貞治さんが『どういう意味だ?』と訝しげに訊き返す。
『あの子は気付いているぞ』
琥珀さんが言ったその言葉に、貞治さんはピタリと口を閉ざした。でも直ぐに気を取り直したように続ける。
『……それがどうした。多恵の相手はヒナ子の父親と決まったんだ。今更俺に、何をどう足掻けというんだ……』
(二人は何の話をしているの?)
話の内容が掴めなくて、堪らず隣にいた兼光さんに尋ねる。
(恐らくは……)
兼光さんは明らかに何か気付いた様子だったけど、言い掛けただけでその先何も続かななかった。
(……ただこの頃の貞治はもう自分に時間は残されていないと心得ていて、あの狐はここに来て彼に何か確かめようとしているのでしょう………)
その意図までは分からないといった兼光さんの話に、私は取り敢えず二人の会話の続きを聞こうと耳を傾ける。
『じゃあこれは知ってるか? あの二人の縁談を女将である母親に持ち掛けたのは、長男であり、兄でもあるこの俺だということを』
『あんたが? しかしあんたは……』
『多恵も納得している』
琥珀さんの言葉を遮って貞治さんは言った。まるで自分に言い聞かせるような言い方だった。
『で? 君は俺に一体何の用があって来た? まさかこんな話をしにきたわけではないだろう?』
貞治さんは急に態度を翻すようにして仕切り直した。
『あの子はこれからどうなる?』
『やはりヒナ子か…………』
溜息混じりに貞治さんは言った。まるで琥珀さんが姿を現した時点で薄々感じ取っていたような口振りだった。
(ばあちゃんのことを助けるために貞治さんのところに……?)
(きっとあの狐は、この宿におけるヒナ子様に対する扱いを知り、宿内を探っていたのでしょう)
(宿で何が起きてるか調べてたってことですか?)
(既にこの時には調べはついていて、大方のことは知っていたのかもしれません。陰でこそこそと嗅ぎまわるのはあの狐の最も得意とするところで……全て知り尽くしてから現れるのも彼のやりそうなこと……そうこうして、やはり貞治に近づくのが一番であると至ったのでしょう。彼はあの体ですから普段外に出ることはおろか、父親とは別の由で人目には触れることはない。宿で最も近づきやすく、話の分かる人物だと踏んだのだと思います)
途中琥珀さんに対する小言を挟みながらも兼光さんは憶測を言った。兼光さんの言うことに何となく説得力を感じていると、貞治さんが口を開いた。
『母と多恵があの子に辛く当たっていることが気掛かりで、それで俺のところにわざわざ訳を訊きに来たというわけか……? それについては致し方がない部分がある。多恵にいたっては、何もあの子をどうかしようなんて思っていない。ただ今は母の指示に聞き従っている振りをしているだけだ』
『振り? 致し方がないとはどういうことだ?』
琥珀さんが問いかけたのとほぼ同時に、兼光さんも同じような疑問を呟いて眉をひそめた。
私も同じことを思った。貞治さんの言い方だと、ばあちゃんを虐めてることを黙認しているということになる。多恵さんに至ってはそれに加担している。私は固唾を飲んでその先を見守る。
『母は今でも、父が気が触れたのはあやかしのせいだと信じて疑わないでいる。父を死に追いやったのもそれのせいだと。だから視えるあの子が災いをもたらすと今も怖れているんだ』
『それならどうして妹の縁談の相手に、ヒナの父親をと申し出た。それがあんたの望みだからか?』
『そうだ。ヒナ子の父親、仁栄は、俺の数少ない知り合いの中で最も信頼できる男だ。彼になら俺の全てを任せられると思ったからだ。彼も俺のことを同じように思ってる筈だ』
ばあちゃんのお父さんと貞治さんは、お互い信頼し合った昔からの仲だったようで、その絆を貞治さんは信じて疑わないといった感じだった。
『まるで契りを結んだ兄弟みたいに言うんだな?』
琥珀さんは何かを見越したように言うと、貞治さんは闇に葬られた話といってもいいような、ある秘密を明かし出した。




