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忘れられない、たった一つの願いごと  作者:
最終章:想いの果てに

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42/66

偽りの笑顔とその姿Ⅰ

 九十九温泉街は静寂に包まれていた。



いつもだったら暗くなると、街灯や宿から漏れる明かりが温泉街を煌々と華やかに彩るはずが、どこもかしこも薄暗く今にも闇に消え入りそうだった。



 軒を連ねる宿や店は、闇を見守るように不気味に佇んでいて、何の気配すら感じられない。



 私は誰もいない石畳の上をひたすら走って、白虎家に向かった。



 白虎宿家は月の明かりに照らされて、異様な空気を放っていた。中に入ると、行灯の明かりが頼りなさげにゆらゆらと怪しく揺らいでいる。



 薄暗い階段を駆け上がり部屋に行くと、冷たい月明りが差していた。それとは別に、異様な光が畳の上に落ちている。その光の元を辿れば、鏡台の鏡へと辿り着く。まるで私が来るのを待っていたかのように、また何かを映し出そうとしていた。



 私は恐る恐る鏡台の前に近づいて行って鏡の中を覗き込んだ。するとたちまち、何かが弾ける音と燃え盛る炎に包まれる様子が映し出される。二度目となる光景に、私はもう驚きはしなかった。冷静にその様子を見守る。



 突然フッと鏡の中が暗くなった。一瞬元の鏡に戻ったのかと思いきや、真っ暗な鏡の向こう側から女の子のすすり泣く声が微かに聞こえてきた。昨日は無かったその声に、私は少し怖気づく。



 女の子のすすり泣く声は、恐らくばあちゃんがまだ小さかった頃のもの。それが余計に私を他人事じゃなくさせる。泣き声は時々途切れ、それが返って辛そうで苦しそうに聞こえた。



「どうして泣いてるの? 悲しくて泣いてるの?」

 私は鏡の前で思わず訊ねる。



 するとずっと暗闇だった鏡が、今度は誰かが暗い廊下をひたすら行く様子を映し出した。その足は、目的があって何処かに向かっているようだった。



 その間にも、すすり泣く声はどんどん強く大きくなる。

 すると急に歩く足音が止む。次いでぎぃ――っと音を立てて扉が開いた。どこかの部屋の扉。でもそこもまた暗闇に満ちていて何も見えない。

「どこ? どこで泣いてるの?」



 泣き声は、いつの間にか鏡の中だけじゃなくて部屋中に響いていた。

 一瞬フッと声は途絶え、再び泣き声がはじまる。でも、聞こえてきたのは鏡の中からじゃなくて部屋の外の方からだった。



 私は部屋にあった手持ち行灯に火を灯すと、それを持って廊下へ出た。



 行灯を上に持って明かりを廊下に照らした時だった。廊下の突き当たりの壁に見たこともない扉があった。



 昨日までこんな扉なかった筈。そう思って、鏡に映っていた扉と似ている気がした。



 扉の向こうから微かに泣き声が聞こえた。明らかに私を誘っている。分かっていても、動き出した心と足はもう止められなかった。



「その中にいるの?」

 私は扉に向かって訊ねた。



 出して……暗いよ……寂しいよ……

 微かに聞こえてくる声。



「待って、私が今出してあげるから!」

 私は無我夢中で、扉の向こうに向かって叫んだ。扉に鍵はかかってなくて、自分の方に向かってゆっくりと引くことが出来た。



 ぎぃ――っと音を立て扉が開く。すると開いた扉の先に、階段が現れた。私が今いる階は最上階の筈だけど、それよりも更に上へ続く階段が伸びている。私は暗くて見えない階段の上に目を凝らしながら、そっと一段目に足をかけた。



 すごく急な階段だった。まるではしごを上っているみたいな体勢に、思わず行灯を持っていない手が階段の板につく。

 二、三段上がったところで上の方からサーッと風のような空気が流れてきて、持っていた行灯の火が消えた。途端に暗闇に包まれる。その間にも微かに女の子の泣き声が階段の上から聞こえてきた。



 本当は見たくない。でも行かなくちゃ。聞こえてくる泣き声が躊躇う私をそんな気持ちにさせた。私は止まっていた足を再び動かした。



 階段を上がり切った時、突然フッと泣き声が止んだ。上がった先には一つの部屋があって、そこは日の光も月の光もほとんど届かないような小さな窓が天井近くに一つあるだけだった。埃とカビ臭くて、空気が薄く感じる。



 小さな窓からは心許ない月明りが差していた。徐々に暗闇に目が慣れていくけど、それでも中の様子までは分からない。



 私は足下に気を付けながら一歩一歩確かめるように進んだ。足が床を踏む度に、みしっと軋む音が鳴った。すると、

「いたっ」突然自分の額が何かにぶつかった。咄嗟に額を摩って、反対の手をぶつかったと思われる場所に恐る恐る伸ばしてみる。



 指先が触れたのは、木の柱のようだった。それが行く手を阻んでいる。どうやら柱は一つだけじゃない。何本も間隔をあけ部屋の間を仕切っているようだった。

「何? この部屋……」

 思ったままを口にした、その時だった――



「ここがどういう場所かお分かりか?」

「――!?」

 突然背後から訊ねられ、私の肩はビクッと大きく揺れた。誰だか分かっているのに直ぐに振り向くことが出来なくて、聞き慣れた声が背筋をなぞり、ざわざわさせる。


 私は恐る恐る振り返った。涼しげな白い袴が今は妙に眩しく感じる。



「兼光さん――?」

 私に絶えず向けてくれていたあの笑顔はなく、今はどこまでも冷たく鋭い眼光が向けられていた。



 すると部屋のロウソクの火がひとりでに灯った。ほとんど見えなかった部屋の様子を、静かにゆっくりと照らしていく。



 部屋の真ん中に柵があった。自分がさっきぶつかって木の柱だと思ったのはそれだった。ここで何か生き物でも飼っていたのかな。でもここは屋根裏部屋だ。こんな所に閉じ込めておくなんて不自然としか思えない。



「ここは指籠」

 兼光さんは目の奥を光らせながら低い声で言った。

「さし、こ……?」



「この宿をはじめた当主が、ある日突然気がふれた。人目に触れぬよう、主を閉じ込めるために家族の者たちがこの座敷牢を作ったのです」



 私ははじめて見る座敷牢を前に言葉を失い、黙って息を飲んだ。



「可哀そうに……。こんなものが存在したせいで、彼女もここに閉じ込められておりました。あなたと同じ、みんなには視えないものが視えていたという理由で……」



「――彼女? 視えるって……」

 もしかしてばあちゃん? 私はショックを隠せなかった。ばあちゃんはやっぱり私と同じ視えてる人だったんだ。その事実よりも、こんな日の光も届かない暗がりの中に、まだ小さかったばあちゃんが檻の中に入れられていたことが信じられなくて、直ぐに受け止めることが出来なかった。



 私を誘いここまで来させたあのすすり泣く声は、この座敷牢に閉じ込められて泣くばあちゃんの声だったんだ――



「……ばあちゃんが、どうして? ただ視えるってだけで、どうしてこんなところに閉じ込められなくちゃならなかったの?」

 悲しくて、考えただけで辛くなる。それが自分かもしれないと思うと恐ろしかった。視界がぼやけ、喉の奥が痛くなる。涙が何度も頬を伝って流れた。



「辛く、悲しい現実……。しかしオレにとっては束の間の幸せであった」

 そう言って遠い目をして懐かしむように檻の中を見つめた。



「知りたいか? ここで何が起きたのか……。ここにいる者しかわからない苦しみと、この中でしか感じることがない僅かな幸せを……知りたいか?」



 私は静かに頷いて見せた。知りたい。と強く思った。ここで何が起きたのかだけじゃない。どんな想いが通い合っていたのかを、私は知らなければならないと思った。



「――オレは備前兼光。でもそれは、まがい物であるが故に持った名。この姿も、笑顔も、全て偽りで出来ているのです……」



「――兼光さんが?」

 まがいもの? いつわり?

「どういうことですか?」話が見えず私は訊ねた。

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