しるべを辿ってⅡ
「――はい。夜中に突然、鏡台の鏡に映ったんです。初め燃えさかる炎が見えて、そうこうするとばあちゃんの子供の頃の様子に変わって……」
「君の……おばあさんが……? 間違いないのかい?」
琥珀さんのことだから、どうせ寝ぼけてたんだろう? と軽口を叩いてくるかと思ったけど違った。それに私に訊いていながら何か別のことを考えてるようだった。
「はい。あれはばあちゃんの記憶です。鏡の中で男の人がその子を、ばあちゃんと同じ名前で呼んだんです。ヒナコって……」
「――………」
琥珀さんは無言で立ち上がると、部屋の中をうろうろと歩き出した。
急にどうしたんだろう。
「琥珀さん……?」
不思議に思って琥珀さんを呼ぶ。
「妙だな……」
急に立ち止まったかと思うとそう呟いて、私は思わず「何がですか……?」と訊いた。
「君の家に来たというその神主。目的は別にあるとみてよさそうだが……何かを確かめに、もしくは何か取りに行ったか置いてきたか……。わざわざ君の家に行かなきゃならない訳があったのか……」
琥珀さんは独りごちるように言った。
「私の家に?」一体誰が……。何でそんなことを……。
「お祓いや祈祷をして墨玉はもう大丈夫と思わせて、また盗もうとしてるとか?」
「いや、それはない」
琥珀さんは即座に答えた。
「でもその神主が盗んでいたかもしれないじゃないですか?」
薬が盗まれたのは予期しないことだったと琥珀さんは言っていた。今回その神主が私の家に行ったのだって、誰も予測しなかったことだ。十分考えられるはず。
「じゃあ墨玉を毎晩のように盗んだのは……? 琥珀さんは誰か心当たりがあるんですか?」
私が尋ねると、琥珀さんは少し間を置いて重い口を開いた。
「――君んちの墨玉を蔵から持ち出していたのは……」
琥珀さんが言いかけたその時だった――
突然地響きのようなものを床下から感じた。
「揺れてる……。何? 地震!?」
私は立ち上がろうとするけど、思いのほか強い揺れにバランスを崩して畳の上に膝をつく。
「なんだ?」
立っていた琥珀さんも辺りを見回しながら驚いた様子でいる。いつも先読みしてそうな彼だけど、今はこの現象に全く理解できていないという雰囲気だ。
急に琥珀さんは下駄も履かずに裸足で家の外へ飛び出していってしまった。それを見た私も、土間に置いてあった靴の踵を踏んづけたまま履いて琥珀さんを追いかけ外に出る。
でも戸口を出た途端、妙な薄暗さに私は足を止めた。日が傾くにはまだ早いし、そうだとしても日暮れの暗がりとは違って異様に感じた。
表には琥珀さんの姿は無く、もしやと思って裏手へまわると、琥珀さんがあの大きな木に向かって立っていた。私は駈け寄ろうと駆け足で琥珀さんの元に向かった。けど異様な雰囲気に気付いて私の足は徐々に速度を落として、彼の横に並ぶように止まった。
風がそよりともしていないのだ。それなのに、あんなに青々と生い茂っていた大きな木の枝葉は終わりを迎えてしまったのか、風に吹かれたように次々に枝がら離れて落ちていく。一瞬にして季節は巡り、枯れ葉が散る以外の景色はまるで水墨画のように色を無くし静止して見えた。不思議な光景に私はその場に立ち尽くす。
「そんな馬鹿な――……?」
琥珀さんは空を見上げて呟くように言った。同じように見上げた私は目を疑った。
みるみる空が黒く染まっていく。まるで透明な水に真っ黒な色水を落としたみたいに。
これだけのことを目にしても、私には今何が起こっているのかさっぱり分からなかった。私は怖くなって、思わず琥珀さんのすぐそばに寄った。琥珀さんを見上げると私と同じか、それ以上に困惑した様子だった。
「あの空……一体何が起きてるんですか?」
私は空を見上げて訊ねた。
「僕の結界が崩れていく……どうして――……?」
琥珀さんの耳に私の声は届いていないようだった。いつも余裕のある琥珀さんは、今は無力な少年のように茫然と立ち尽くし、黒く染まっていく空をただ見上げていた。
「屋敷神たちも沈黙してる……これじゃどこにも跳べない」
琥珀さんは力なく言う。彼のこんな姿を見るのは初めてで……私は心配で堪らなくなって訊ねる。
「ここはどうなってしまうんですか? 琥珀さんは……大丈夫なんですよね?」
すると琥珀さんは突然、私の背中に腕をまわして肩を掴むと、私を体ごと強引に自分の方へと引き寄せた。
一気に距離が縮まり、一瞬何が起きたのかと思う。この状況におかしくなってしまったんじゃないかとさえ思って、私は琥珀さんの腕の中で息を潜めた。しんとする中、二人の息遣いだけが聞こえていた。
「大丈夫さ。何も心配いらない。君が何処に行こうと、僕が必ず見つけ出すから」
頭の上で囁くように言われ、肩を掴まれた手が僅かに強まる。
「――?」私を見つける? 何を言っているのか分からず、ただ私を不安にさせないために言ってくれているんだろうと思って、「私は大丈夫ですよ?」と伝えた。
すると「バカだな君は……」と呆れたようにため息をつかれる。
「こんな時くらいもっと自分の心配をしなよ?」と続けてお面の下で小さく笑われた。
「だが、僕はどうやらここまでのようだ。そっちは桃に任せたよ?」
琥珀さんは突然私の体をパッと離し、お面の横でお手上げというように両手を上げてみせた。また、とか、バイバイのようにも見えたその時だった。
まるで波一つ立たない水面に波紋が広がったように景色と共に琥珀さんの姿が歪んだ。
その瞬間、私の体は見えない力によって、後ろへと突き飛ばされる――
私は後ろに飛ばされた勢いで、両足を地面に投げだした状態で尻もちをついた。辺りを見回すと、またいつかの日と同じ朱色の橋の上にいた。
前と違ったのは、あの時琥珀さん側から消えていったのが、今回は私だけ強制的にこちら側へ弾き出されたようだった。
どちらにしても、琥珀さんがいる世界と幻想の世界の分岐点が、この橋の上になるのかもしれない。でも今はもう、どちらが幻想かも分からない。見上げる禍々しい空が、そう私に告げているようだった。
また不意打ちに呼ばれた“桃”という言葉がまだ耳に残りながら、私はゆっくりとその場から立ち上がってもう一度空を見上げた。
一体上で何が起きてるんだろう。空は墨色を混ぜ込んだように濁りを増して、それがどんどん一面に広がっていく。結界が崩れていくと琥珀さんが言っていたけど、きっとこれが目に見えた現象なんだと思った。
彼は自分がいる側と幻想の世界、つまり温泉街との間に結界を張って隔てることで、誰もが簡単に行き来出来ないようにしていたんだ。それが今、完全に閉ざされようとしている。結界全てが崩れてしまった場合、九十九温泉街はどうなってしまうんだろう。もしかしたら消滅してしまう可能性だってあるかもしれない。
そうなったら白虎家は? 牡丹ちゃんたちはどうなっちゃうの?
心の奥底から、訳もなく沸々と湧き上がる気持ちがあった。じいちゃんの薬のために、ばあちゃんが子供の頃にいた旅館に自分が行こうと決心した時に似ている。ううん、それよりもずっと強いものかもしれない。
私は思い立ったように、温泉街へと駆け出した。私にはまだ聞いていない声がある。部屋の鏡台にばあちゃんの記憶が映ったのだって、きっと私に何かを知らせたかったからなんだと思う。それが何なのかは今は分からない。けどそれを見過ごすなんてことはしたくないっ。そういう思いが、私を突き動かしていた。
急ぎ足で山を下りながら思い返していた。琥珀さんが最後の方に言った言葉。私が何処に行こうと必ず見つけ出す……。
今思うと、私が弾き出される前にこうなることを予見したように思えてならない。そっちは任せたなんて言ったけど、私一人で何が出来るっていうんだろう。不安しかない。あんな直前に無責任なことを言い放つなんて、琥珀さんらしいと云えば琥珀さんらしいけど。
白虎宿家――。
あの宿にはまだ私の知り得ない誰かの想いが隠されている気がしてならなかった。今までずっと誰にも知られずに取り残されていた想いが。
予感が胸の中で渦巻いていた――




