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【短編】House in the House

作者: 黑野羊


 家の中に、家があったことがある。



 最初にそれを見つけたのは、本棚だった。

 本棚の本と本の隙間にちょうど二〜三冊抜けているところがあって、そこにあたかも以前から当然であったかのような、四角い、縦長の箱のようなものがある。

 箱の中をとりあえず覗いた。箱の内側、三辺の壁面になる箇所は本がびっしりと天井まで──と言ってもその箱の天井までではあるが、埋まっている。さらにその天井からは、淡いオレンジの光を放つ丸い照明がぶら下がり、床面となる場所は焦茶色をした木の板が綺麗に敷き詰められていた。そんな床の上には、分厚い書物がいくつか所在なさげに散らばっている。

 その小さな室内の中央には、ドンと黒い木製の机と革張りのデスクチェアが鎮座しており、ああこれはよくドラマで見かける書斎のような空間なんだなと思った。

 いつだったか、こんな感じのミニチュアハウスがネットニュースで話題になっていて、それで見かけた記憶がある。

「……なにこれ」

 年の瀬の足音が聞こえてきそうな、土曜日の夜。

 久々に私の発した声はそれだった。

 こういったものがあるのは知っているが、買った覚えはまったくない。

 そもそも、その箱の部屋があった場所には、今自分が手に持っている辞書と、机の上に積み重ねている数冊の参考書を置いてあったはずだし、それらを戻そうとしたので気付いたくらいだ。

 今の私には、そんなものを買って眺めているような時間も、精神的な余裕もない。行きたかった大学に落ち、決意して浪人して、勉強に集中したいからと自宅近くのアパートに一人で引きこもり、ただただ勉強にだけ時間を費やしている自分が、こんなものを買うわけがないのである。

 何度かしっかり瞬きをした。眼鏡を外して目を擦ったりもした。

 でも、やっぱりそこにある。

 ──今日は、もう寝よう。

 あと数時間は勉強をしていたかったけれど、これは自分が相当にヤバイ状態なのかもしれない。手に持っていた参考書を机の上に戻すと、私は部屋の電気を消した。



 翌朝、本棚を見ると箱の部屋はなくなっていた。

 ブックエンドみたいに隙間にスッポリ収まっていた部分は、昨日それを見つける前に想像していた通りにちゃんと隙間があって、一冊だけ斜めになっている。斜めの本を縦に戻し、そこに戻すはずだった参考書を詰め込んだ。

 果たして何だったのだろうか。

 戻した参考書を見つめて、太ももの辺りをちょっとだけギュッと握る。でもすぐに手を離して、箱ティッシュの買い置きを探す作業に移った。

 1Kの狭いアパート。部屋は基本、勉強と寝るのと食事をするために使う場所なので、買い置きのティッシュがあるのはキッチンのほうだ。

 部屋とキッチンを仕切る、磨りガラスの引き戸をカラカラと開けてキッチンへ移動する。エアコンのないキッチンは、この時期になるとやっぱり寒くて、ひんやりとしていた。

 ちゃんと勉強に集中できるよう、家事や必要品の買い物は、私が予備校へ行っている間に母がやってくれている。春からずっと、必要なものは絶やさず、食事も定期的に作り置きを冷蔵庫に置いていってくれるので、とてもありがたい。

「たしか、上の戸棚に……」

 流しの上にある、備え付けの吊り戸棚。キッチンの隅に置かれた小さな踏み台を持ってきて、背伸びをしながら棚の扉を開ける。

 ラップやキッチンペーパーなど、消耗品のストックが綺麗に並べて置いてあり、探していた箱ティッシュもすぐに見つかった。

 一つだけ取り出し、戸棚の扉を閉めようとしたところ、視界の隅でチカリと小さな光が瞬く。戸棚の中には、光を発するようなものもなければ、キラリと反射するようなものなどないはず。

 不思議に思った私は、肩からズレたブランケットをかけ直すと、光っているものの正体を確かめるため、ストックの消耗品達を少しだけ移動させた。

「……あ」

 棚の内側、木製の壁にまるで抉れたような四角い穴が出来ていて、その内側が小さな部屋になっている。

 両側面に銀色の、スチール製と思われる棚があり、そこに色んな袋や箱が置いてあった。水の入ったペットボトルのようなものも見える。小さくて文字は読めないが、袋や箱に描かれたイラストから、中に食料が入っているようだ。いわゆるパントリー、食料品の保存庫だろう。

 その小さな部屋の天井からは、緑の傘の電灯がぶら下がっていて、それが橙色の暖かい光を放っていた。どうやら不思議な光の正体は、これらしい。

 なるほど、と光の正体に納得したが、いやいや何だこれは、と我に返る。

 昨日と同じ幻覚だとは思うが、内側の様子が全然違うし、何より起きて朝の勉強を少しだけやった後だから、そんなに疲れていないし寝ぼけてもいない。

 しかし、壁にこんな穴が空いていたら、この家から退去するときに大問題だ。

 果たしてこれは、現実か幻か。

 触れば分かるだろうと思い、手をめいっぱい伸ばしてみたが、どうにも絶妙に届かない。自分の身長の低さが恨めしい。踏み台の位置を少しだけ変えて、踏み台の上で背伸びをしながら、もう一度手を伸ばしてみたが、やっぱり届かなかった。

「……だめだ」

 踏み台の上に本でも重ねてみようと思ったが、うっかり落ちてケガでもしようものなら、後悔してもしきれない。なにせ受験まで一ヶ月と少ししかないのだ。

 それにケガをした言い訳に「幻覚かどうか確かめようとした」なんてことを言ったら、受験どころではなくなるだろう。

 私はため息をついて戸棚を閉めた。



 結局その、戸棚の中の小さなパントリーは、お昼すぎにもう一度見たときにはなくなっていた。側面の壁には穴などなく、木製の壁は変わったことなど一度もなかった、と言わんばかりにそこにあった。

 やっぱり幻覚だったのだ、と思っていたのだが、その次の日にもそれは現れた。

 今度は、部屋の隅にあるコンセントの横の壁。

 スマホの充電ができなくて、差し込みプラグがコンセントにちゃんと刺さっているか確認しようとしたら、見つけてしまった。

 三日目ともなると、もう幻覚ではないんだろう、という諦めに似た気持ちが湧き起こる。

 外れかけていた充電器の差し込みプラグを、コンセントの穴にしっかりと押し込むと、私は壁の中に生まれた小さな別室を、床に頬をつけてマジマジと覗き込んだ。

 今度の部屋は、リビングらしい。

 淡くて優しい黄色の壁紙に、床面は木目の目立たないフローリングになっていて、濃い緑のソファとガラスのテーブルが置かれている。壁面には壁掛けの、その部屋の規模にしては大きなテレビがあって、反対側の壁には小さな本棚と観葉植物。奥には明るい緑のカーテンを両サイドにまとめた大きな窓ガラスがあって、その向こうはどうなっているのか、青い海と空が見えた。

 窓のすぐ向こう側には、バルコニーと白い手すりがあって、その先には地中海を思わせるような、白い壁の建物と青い海、よく晴れた空まで見える。

「……海?」

 大きな絵か何かの見間違いだろうか、と目を凝らす。

 しかし絵ではない。

 その証拠に、窓の一部が開いているのか、窓の端に少しだけ垂れ下がる白いレースのカーテンの裾が、ひらひらと揺れていたのだ。まるで、窓の外からそよ風が吹き込んでいるかのように。

 本物だ、と理解した瞬間、バネで弾かれるように身体を起こした。

 精巧なミニチュアや、作り物などではない。

 本物の室内、本物の誰かの家。

 そしてその内側から、外を見ている様子なのである。

 心臓がバクバクと早鐘を打って、背筋がぞわりと粟立つのを感じた。

 お化け、というのとも、また違うように思える。

 なんとも言えない、怖いとも不気味とも違った感覚。一見すれば精巧な、ただのミニチュアハウスがあるだけなのに、確実に自分の知らない何かがこの家に介入している、という事実が妙な不安を煽った。

 なんにせよ、あまり気持ちのいいものではない。

 私は何度か深呼吸して気持ちを落ち着けると、充電していたスマホを手に取る。そしてカメラ機能でその家──小さな室内だけの空間を写真に収めた。明日会う予定の友人に、この幻覚のようなものを見せてやろうと思ったのだ。

 何枚かパシャパシャと立て続けに撮った後、写真フォルダを確認した私は、さらに眉間に皺を寄せることになる。

 写真が全部、おかしいのだ。

 極端にピンボケしていたり、きちんと画角に収めていたはずなのにズレてしまっていたり、まともに写っている写真が一枚もない。

 なんだか悔しいので、私はまたカメラ機能を起動して写真を撮った。何度も、何度も。

 けれど結果は全て同じ。

 スマホの写真フォルダには、まるで撮影に失敗したような写真ばかりが何十枚も溜まっていく。

 私は諦めて、かろうじて『何かがある』と分かる写真を数枚残して、他の写真は全て削除した。



「これ、もしかして『小さいおっさん』の家だったりして!」

 翌日、予備校の後にカフェで会う約束をしていた友人のサエに、写真を見せながら謎の家のことについて話すと、彼女は真剣に聞いていた表情のままそう返した。

「『小さいおっさん』?」

「うん、そういう都市伝説があるの!」

 どこか興奮したような顔で、サエは頷く。

 彼女曰く、その小さなおっさんは上下緑色のジャージを着ていて、ある日どこからともなく現れると、家の中のあちこちを走り回っているらしい。学生の目撃報告が多くあり、運良く見かけると成績が上がったり、試験でいい点が取れたり、受験に合格できた、なんて話もあるのだとか。

 そういえば、彼女は昔からオカルトとか怪奇現象とか、そういう不思議なものが好きだった。

「座敷わらし的な?」

 なんとなく知っている妖怪知識で答えてみるが、サエは困ったように眉を下げる。

「うーん。座敷わらしは家に出る子どもの妖怪だから、ちょーっと違うかなぁ」

「じゃあ、なんなんだろう?」

 駅の近くにある人気のカフェで、私とサエはクリームたっぷりの甘くてあったかいコーヒーを飲みながら、考えていた。

 春に女子大生になり、すっかり垢抜けたサエが、爪先を可愛くキラキラさせた手でカップを持ち上げ、考えた顔のままコーヒーを飲んでいる。

 去年まで同じ制服を着て、一緒に楽しくはしゃいでいたのに。

 髪も服もメイクすらもバッチリ決まった、流行りのカフェにお似合いの女子大生と、動きやすさ重視で地味な色合いの服装をした、冴えない浪人生の自分が向き合っているのは、少しばかり居心地が悪くて、つい視線が下を向く。

 けれどサエは、そんなことなど微塵も気にしていない様子で、ふぅ、と息を吐いた。

「……まぁ、一番ありえるのは、勉強のしすぎで見た幻覚」

「そうだよね……」

 彼女の出した結論に、私は同意のため息を小さく漏らす。

 けれど、幻覚というにはあまりにも、リアルだった。

「そんな幻覚見るなんて、根つめすぎだよぉ」

「でも、もうちょっとで受験だし、頑張らないと」

「それはそうだけど……」

 私があの大学にどれほど行きたかったか、ずっと側にいて知っているサエは、それ以上は何も言わなかった。

 ほんの少しだけ届かなくって、悔しい思いをして、今も必死に齧り付いている。こんな変な幻覚で、頭を悩ませている場合ではないのに。

「今日はその変な家? 部屋? 見かけたの?」

「ううん。予備校もあるから、起きてすぐ家を出ちゃって」

 今朝は少し寝坊してしまったのもあり、周囲を見回す余裕がなかった。

 もしかしたらこうしている今も、家の中のどこかに、小さな部屋はぽつんと現れているのかもしれない。

「よし、じゃあ今からミワん家行って、探してみよっか」

 そう言ってサエがカップに残っていたコーヒーを、グイッとひと息で飲み干した。

「えっ、なんで?」

「だって興味あるし! それに、アタシの目にも見えるものだったら、お祓いしてもらうとか方法を考えられるでしょ?」

 サエは飲み干したカップを持って立ち上がると、店内にあるゴミ箱の方へ向かってしまう。私も慌ててコーヒーを喉に流し込み、サエの後を追った。

「あっ! ついでに部屋の模様替えもしようよ」

「えぇ……」

「気分が変われば、変な幻覚も見なくなるだろうし、勉強も捗るでしょ?」

 こうと言い出したら、サエはこちらの言うことなんて聞いてはくれない。

 でも、それが彼女のいいところでもある。

「……わかったよ」

 ニッコリ笑う、楽しそうなサエと一緒に、私はカフェを後にした。



 サエと一緒にアパートの自宅に入る。

 玄関を入ってすぐのところにキッチンがあって、反対の壁にトイレとお風呂場への扉がそれぞれあり、仕切りになる引き戸の向こうに普段過ごしている部屋があるのみ。

 部屋に入ると、サエは壁にピッタリつけた本棚の前に立つ。

「最初は、本棚だったよね」

「うん」

 まじまじとサエが本棚を見つめた。

 天井近くまである、参考書や試験対策の本ばかりがぎっちりと詰まった大きな本棚。改めて一緒に眺めてみるが、本の隙間にあのミニチュアのような家は見当たらない。

「んで、次はキッチンの戸棚の中で、それからコンセントの横、だっけ」

「うん」

 サエと一緒に『あの部屋』があった場所を改めて見ていったが、特に変化はなく、これまでと変わらない状態だった。

「うーん、やっぱりないか」

「一度現れたところには、もう出てこない、とか?」

「そうかもねぇ」

 肩を落としたサエと一緒に部屋に戻る。しかし、これで終わらないのがサエだ。

「よし、んじゃー探しつつ、模様替えしちゃおっか」

 部屋に戻るや否や、サエはまるでスイッチを切り替えたように元気な声で言うと、本棚や勉強用の机、ベッドも一緒に動かしはじめる。

 本棚はこっち、机はあっちで、ベッドはこっち。家具の配置を変えながらも、サエは『あの部屋』を探す。

「うーん、ここにもないかぁ」

「こっちはどうだ!」

「あ、実はここだったり?」

 サエはどこか楽しげに、家具を動かしては壁や隙間を覗き込み、『あの部屋』を探していた。

「なんだか楽しそうだね」

「そう? だってロマンがあるじゃーんっ」

 散々探し回ったものの、結局『あの家』は見つからないまま。

 しかし、部屋の雰囲気はすっかり変わっていた。基本的には配置を変えただけなのだが、なんだかちょっと、気分がいい。

「なかったねぇ『おっさんの家』」

「いや『おっさんの家』と決まったわけじゃないけど」

 ベッドに座り込んだサエは残念がっていたが、私は雰囲気の変わった室内を見渡しながら苦笑した。

 そんな私を、サエがどこか満足そうに眺めている。

「……ちょっとはリフレッシュできた?」

「うん、かなり」

「よかったぁ」

「ありがとね、サエ」

 ニッコリ笑ったサエを見て、私も一緒に笑った。



 ひと仕事やり遂げて「それじゃあ受験、頑張って」と言って帰るサエを見送った後、私は雰囲気の変わった部屋で夕飯を食べて、勉強机に向かう。

 やっぱりきっと、あれは幻覚だったのだ。

 でも、友人とおしゃべりして、部屋の模様替えまでして、気分転換の良いきっかけになったので、幻覚も案外悪いものじゃないかもしれない。

 そんなことを考えながら、黙々と課題をこなす。

 ついつい捗りすぎて、気付くとだいぶ遅い時間になっていた。

 明日も予備校がある。

 気分がいいし、湯船にお湯をはってのんびり入ろうと、私はお風呂場へ向かった。

 脱衣所の隅に置いてあったスポンジと洗剤を持って浴室に入る。浴槽を洗うために内側を覗き込むと、つるりとした湯船の側面に、なんだか既視感のある四角い穴が空いていた。

「……え?」

 私は慌てて湯船の中にはいり、四角い穴に顔を近づける。

 側面に洗面台と洗濯機が並び、反対の壁にはタオルの入った戸棚。木製フローリングの床には足拭きマットと体重計まで置いてある。その奥に曇りガラスの浴室扉があって、隙間からわずかに湯煙が漏れていた。

 なるほど、これはお風呂場の脱衣所だ。我が家のものとは違うレイアウトの。そして明かりのついた浴室には、今、誰かがお風呂に入っている。

 どうやらこれは、やっぱり幻覚じゃなかったらしい。

 曇りガラスの向こうでは、ぼんやりとした人影のようなものが、ゆらゆら動いているように見える。

 謎の部屋の住人は、いったい何者なのか。

 知りたいという好奇心が湧いてくるが、覗くのはやっぱり失礼だろう。というか、もしおっさんだったとしたら、見たくもないし。

 掃除用のスポンジを持ったまま、私はしばらく考え、そのまま立ち上がって湯船を出ると、スポンジを元の場所に戻した。

 もしこのままお湯を張ってしまったら、この部屋にいる誰かが溺れてしまうかもしれない。いっそお湯を張らずにシャワーだけで済まそうとも思ったのだが、自分がシャワーをしている最中におっさんが出てきたら、それもそれで嫌すぎる。

「……明日でいっか」

 私は脱力した顔で息を吐いて、お風呂場を出た。



 翌日、浴槽にできていた『あの部屋』はもうなかった。

 私はホッと胸を撫で下ろし、急いでシャワーを済ませると、予備校に行くために支度をする。

 服を着替え、髪を乾かし、軽くメイクしようと洗面台の鏡を見て、私は愕然として声を上げた。

「……嘘でしょ?」

 頭の上に、小さな家がある。

 赤い屋根に白い壁の、二階建ての一軒家。

 茶色い木製の玄関扉は固く閉じられているが、窓の内側に明かりがついているのが見えたので、中に多分誰かがいる。

 頭をそっと左右に振り、小さな家の側面を確認した。二階にも窓があり、左側面のほうにはバルコニーまでついていて、窓もなかなか大きい。

 あの部屋は、コンセントの横に現れたバルコニーの見える部屋ではないだろうか。チラリと見えるカーテンの色が、同じ緑色のような気がする。

 もし玄関をノックしたら、出てきてくれたりするんだろうか。

「どうしよう……」

 悩んでいる間にも、予備校へ向かう時間は迫るばかり。

 私は大きくため息をついて、大きめの帽子をクローゼットから探し出すと、とりあえずそれを被って家を出る。

 急ぎ足で駅に向かい、一つ隣の駅で降りた。それから駅前にある、予備校の入っている大きなビルへと駆け込む。

 間に合う時間に着いたものの、さすがに授業中は帽子を取れ、と言われてしまうに違いない。

 私は誰もいないことを確認し、ビルの共用トイレに入ると、鏡の前でそぉっと帽子を持ち上げる。

 そこには、何もなかった。

 ボサボサになった頭頂部があるだけで、赤い屋根に白い壁の、ミニチュアハウスは影も形もない。

 私ははぁーーっと深く息を吐く。ひとまずこれで、授業中に帽子を取らない変な奴になるのは免れた。

 腕時計を見ると、そろそろ授業の開始時間。私は帽子を持ってきたカバンにしまい込むと、教室へ向かった。



 授業が終わり、帰宅してから私は何気なく家中を探してみたが、どこにも『あの部屋』は見当たらなかった。コンセントの横の壁、戸棚の中、浴槽の内側と本棚もしっかり見たが、どこにもない。

 また翌日になったら家のどこかに現れるのだろうか、と思ったのだが、結局それから家の中に『あの部屋』が現れることはなかった。

 結局、あれが何だったのか、今でも分からない。

 でも確実に、誰かの住んでいる家が、家の中に存在していた。

 その誰かが『小さいおっさん』だったのかどうかは分からない。

 けれど、一ヶ月後の受験を乗り越え、私は無事に行きたかった大学に合格したので、『小さいおっさんの家』だった、と思うことにしている。


〈了〉

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