守りたかったモノと守れなかったモノ【2】
「近藤から文が来ているだと?」
尊王思想家達との会談を終え、高台寺の本拠に帰り着いた伊東は、斉藤の差し出してきた文に顔を顰めた。だがその文を破り捨ててしまう訳にもいかず、しぶしぶといった様子で受け取りとそれに目を通す。
「活動資金の件を含めて国事について意見を交換したい。つきましては貴殿を我が妾邸に招待したい、だと……」
あくまで表向き、新撰組との友好関係を保ってきた御陵衛士は、以前から新撰組に活動資金の用立てを申し入れていた。本当はその申し入れが受け入れられようが、受け入れられまいがどうでもよかった伊東だったが、全く警戒の色もなく自分を招こうとする近藤に、計画の成功を予感して、唇に弧を描く。
「絶望に彩られる近藤の顔を想像しながら酌み交わす酒も悪くない。この招待お受けしようじゃありませんか」
その言葉を聞き、側に控えていた斉藤は、伊東に気取られないように顔を伏せた。その唇にもまた、弧が描かれている。そうこれこそが、近藤と土方が考えた、伊東暗殺の序章だったのだ。
そして夕刻、たった一人の供を連れ、文の通り招待をうけた伊東がやって来た。
「お招き感謝しますよ」
出迎えた近藤と土方に促されるまま、伊東は宴席の席についた。和やかな雰囲気の中で伊東は、勧められるがまま杯を重ねる。
(そうやって笑っていられるのも今だけですよ。精々今のうちに楽しんでおくことです)
酒を飲み交わす間、伊東は始終笑い声を上げる近藤を胸の内で嘲笑っていた。だが、胸の内は近藤、土方も同じといってよかった。
この先自分のみに何が起こるかも知らずに嬉しそうに顔を緩め、酒を飲む伊東の姿があまりに滑稽で、笑わずにはいられなかったのだ。そして互いが互いの思惑を胸の内に秘めたまま、午後十時頃宴はお開きとなった。その時既に伊東はかなり酔いが回っていた。妾邸を出た伊東は、ご機嫌で唄などを口ずさんで帰路についた。
そして油小路にさしかかった時、事は起きた。
突然目前に現れた四つの人影が現れたのだ。
「誰だ!」
伊東はすかさす身構えた。夜道で堤燈の明かりだけが頼りの上に、その人影は黒い頭巾で顔を隠しており正体を窺い知ることができない。伊東は酒の回ったくらくらする頭で懸命に事態の打開策を考えた。だが急を要する事態への焦りから、中々良い案が浮かばない。そうしてもたついていると、四人の一人が業を煮やして斬りかかって来た。泥酔しながらも寸でのところで伊東はそれをかわした。けれども、供として連れてきた男は、最初の攻撃を避けきれず腕に傷を負って痛さに地に膝を付いた。
「冗談めされるな」
酔いのためふらつく足では満足に戦えないと判断した伊東は、油小路を後ずさった。だが伊東を逃がすまい槍を手にした男が、その槍で伊東の胸を一突きにした。その衝撃で伊東の体が地に伏した。従者の男はその光景にひっと小さな悲鳴を上げたが、四つの人影はそれを気にせず、伊東の死を確信して音もなく去っていった。残された従者は、あまりのことに暫し呆然としていたが、傷口から血を流しながらも、高台寺の仲間に事の次第を知らせるべく慌てて駆けだした。
「私としたことが不覚でした……」
人影が去り、従者が事態を知らせに駆けていった後。数刻経つと、伊東は何事もなかったかのように立ち上がった。
衣の胸の部分には、槍により開けられた穴と、その穴の縁を彩るように血がこびり付いていたが、胸に受けたはずの傷は見受けられなかった。
時の彷徨い人たる伊東は、槍で一突きにされたくらいでは死ぬはずがなかった。時の彷徨い人を無に還せるのは、唯一守人の血だけなのだ。
本光寺方面に向けて歩きながら、酔いが和らいで冴え始めた頭で思考を巡らせ、伊東は刺客を差し向けたのが近藤達であったのだと思い至った。そして悔しそうに唇を噛む。しかし、自分の正体を知らなかった近藤の誤算を思い、すぐに機嫌を直した。
「全く、詰めが甘い。それにしても、殺したはずの人物が目の前に現れたら、あの方々はどんな顔をするのでしょうね。楽しみです」
伊東は楽しそうに笑い声を上げたが、その嗜好の時に間をさす声が響く。
「詰めが甘いのはどっちかな?」
聞き覚えのある声に伊東は身を強張らせた。
「先ほどまでの威勢はどうしたんだ?」
声の主は笑い、きらりと刃が舞った。伊東が何が起こったか分からないうちに、ぼたりっという音がして地に自分の腕が落ちているのに気がついた。地に落ちた腕は音もなく白い砂へと化す。
「守人、山崎進か……」
利き手を失ってもう抵抗する手段もないに等しい伊東が、憎憎しげにその名を口にした。旅人の力にばかり目が行き、新撰組に守人が居ることを忘れていた自分を自嘲したい気持ちにおそわれる。まさしく自分こそ詰めが甘かったのだ。
「彷徨い人は無に還れ!」
進がそう高らかと声を上げ、再び刀を振るう。そして、これが、今度こそ伊東の最期だった。