別離【3】
尊王攘夷の志を持つ者達と高台寺を訪れていた遥華と修平は思わぬ人物の姿を見つけ驚かざるを得なかった。
そこには、新撰組で名を馳せた伊東甲子太郎の姿があった。何を隠そう高台寺は後に御陵衛士の本拠となった寺である。
そんな寺の中を僧侶に案内されるまま本堂へと向かっていた修平は、伊東の姿を見つけた瞬間、厠に行くと言い遥華と共にその後を追った。そして、辿り着いた部屋で交わされる会話を耳にしたのだ。
「欲張るわけではありませんが、斉藤君だけでなく、沖田君や永倉君にも共に来て欲しかったものです」
ぱちんっと扇子を閉じる音がして、粘着質な伊東の声が聞こえる。それに気弱そうな男の声が続いた。
「そうかもしれませんが、先日の一件はやり過ぎでしたよ」
「まあ、そう言わずに。藤堂君、ああいった天才を従わせるには、一度痛い目を見せた方が良いんですよ」
「しかし……」
納得いかない様子の藤堂に、伊東が何かを投げ付ける音がする。
「もう、しつこいですよ。この話はここでお開きです。それより、お腹が空きませんか?先ほどからおいしそうな臭いがしていると思うのですが……」
「ああ、それなら、先ほど帰った服部が買ってきた弁当の香りでしょう」
また違った男の声が横から響く。
「そうですか、ではあなた達で先に頂いていて下さい。私はお客人方への挨拶を先に済ませてきますから」
そう言って伊東が立ち上がる気配がした。摺り足と衣擦れの音が障子に近付きてくる。
部屋からは死角となっている通路の陰から顔を覗かせ聞き耳をたてていた遥華と修平は、慌てて顔を引っ込め、声を殺して身を潜めた。シュッと障子が開く音がして、伊東の足音はまっすぐに二人へと近付いてくる。
本堂とは正反対の場所に隠れていた修平はまさかこちらに向かってくるとは思わず、身を強張らせた。伊藤の言った客とは自分達の連れで、連れの居るはずの本堂に行くものだとばかり思っていたのだ。修平は何かよい知恵はないかと遥華を見た。だが、遥華は慌てもせずに足音が近付く曲がり角を静かに見詰めていた。すると足音が角の手前で止まる。そして溜め息が聞こえた。
「出てきたらどうですか、そこの御二方……」
気付かれたのか、と修平は息を呑んだ。と同時に遥華がすっくと立ち上がる。修平は止めようとしたが、遥華は修平の制止をするりとかわし、男の前に姿を現した。修平も仕方なく遥華の後に続く。
「おやおや、こんなところに時の案内人がいらっしゃるとは……。そして、案内人であるあなたが行動を共にしているということは、そちらの連れは時の旅人ですね。どうりで美味しそうな匂いがするはずです」
伊東に正体を言い当てられ、修平は困惑した。新撰組で時の旅人のことを知り得るのは総司と進二人だけだという記憶があったために、その言葉は修平を困惑させるには十分だったのだ。さらに修平は、遥華の態度からして相手が歓迎すべき人物ではないことを感じ取っていた。
「どうしてお前のような奴が、人の皮を被ってこんな所にいる……」
いつもより一トーンは低い声で遥華が言う。いつものふざけた関西弁口調は取り払われている。
「さすが、案内人、すぐに気付くとは天晴れです。ですが、その言い方はいただけませんね。こうなることは体を提供してくれた本人が望んだことなのですから」
「何?」
遥華は信じられないと目を丸くした。
「本当ですよ。この男は、国を、言うなれば歴史を変えられるような力を欲していた。だから私は男に言ったんですよ。永遠が欲しくないか、と。何も知らないこの男は、永遠さえあれば、命尽きることもなくこの国を未来永劫導くことができると喜び、力が欲しいと即答しましたよ。そうなればもうこっちの者、この男に取り憑くのは容易かった」
伊東、否、伊東の中の者は、自らの計画に酔い痴れる様にうっとりと宙を仰いだ。
「馬鹿な! 彷徨い人にそんな能力があるなんて聞いてことがない」
(彷徨い人!)
遥華の口から出た言葉に、修平は遥華と伊藤を交互に見やった。男はそんな修平を嘲笑うかのように口元に弧を描く。それは肯定の証だった。
「馬鹿はお前達の方ではないか。私はこの寺にお前達が来た時から、お前達の存在に気付いていたというのに、お前達ときたら、私が行動を起こしてやっと気が付いたのだろ。実に、滑稽だ。まさに飛んで火に入る夏の虫と言ったところか」
「言わせておけばぬけぬけと……お前の正体が分かった以上、黙って見過ごすと思っているのか?」
修平はかっとなって言い返す。けれども、遥華は何かに気付いたのか苦汁を飲んだような顔をした。
「黙っていてもらう必要なんか傍からありませんよ。そもそもお前達は、この場で私に喰われるのだから」
伊東は一歩一歩距離を縮めている。
修平は男を威嚇するように、腰にあった刀を抜いた。
剣の腕にはそれ程自信がある訳ではなかったが、自分の身を守る剣くらいは心得ているつもりだ。
「お前にそれができるのか? 私の依り代となったこの男は本来、このような場所で死ぬ人物ではない。もしここで私を殺せば、それこそお前達の言う歴史を変える行為であり、掟破りをすることと同意義なのだぞ」
伊東の言葉に、修平の剣に迷いが生じる。伊東の言葉を真っ向から信じた訳ではなかったが、伊東が懐に飛び込むには十分な時間だった。修平は咄嗟に刀を引き、その腹で男の拳を受け止めた。しかし、常人離れした彷徨い人の力で本気で殴られたため、勢いを殺し切れず廊下を数メートル飛ばされる。受身を取って尚、背がずきずきと痛んだ。その上、飛ばされた拍子に刀の刃に触れたのか、頬が切れ血が流れている。
「さて、どちらが先に喰われたいのかな」
その血を見て興奮した伊東は、舌なめずりをすると修平の方に足を進めた。修平の方を先に喰らうことに決めたらしい。
しかし、遥華のちょうど真横を通り過ぎようとした時、今度は伊東が吹き飛ばされた。遥華に目をやると、怒りに顔を赤らめて拳を握り締めている。完全に遥華はキレていた。修平は遥華の怒った姿を見たことがなかったが、知人達から何度も遥華を怒らせるなと言い聞かされていたのを思い出した。彷徨い人の出す被害の方が大きいか、キレた遥華の出す被害の方が大きいか。どちらにせよ、二人を止めるのは至難の業だ。
「さっきから、こっちが黙ってりゃぬけぬけと。要は、この場でお前が死ななければ、何をしようが構わないんだろ?」
遥華が床に伏した伊東にゆっくりと歩を進める。だが伊藤まであと二、三歩という所で、舌打ちをして足を止めた。そして、ぎしっと建てつけが悪い部分が鳴ったかと思うと、修平の隣に遥華の姿が現れる。体を打ち付けた痛みに暫く立ち上がれなかった修平は、ひんやりとした感触の板張りの床に座り込んだままだったが、遥華に腕を引かれ立ち上がった。立ち上がる直前、向こうからやって来る複数の足音と振動が伝わってきたため、遥華が舌打ちをした理由を理解した。
「奴の張っていた結界がさっきの衝撃で解けたんだ。物音を聞きつけて人が集まりだした。殴り足りないが、分が悪い。退くぞ」
関西弁ではない遥華の喋りには未だ慣れなかったが、修平は素直に頷いた。そこに、一陣の風が巻き起こって、床の埃を共に巻き上げて二人の姿を包む。遥華がぱちんっと指を鳴らすと、その風が弾け飛び、一瞬のうちに二人の姿はその場から消え去った。