犠牲【3】
「お迎えが来たようですね」
「え?」
次第に近付いてくる蹄の音に山南が呟きをもらした。道端にしゃがみ込んで花を見詰めていた女は、その呟きに不思議そうに山南を見上げた。その女に優しく微笑んで、山南は別れの言葉を口にする。
「どうやら、お別れのようです。最期にあなたと旅が出来て良かったですよ、明里」
その言葉の意味を的確に感じとって、女――明里は縋り付くように山南の衣の袖を引っ張った。
「行かないで下さい。私は、山南さんと故郷に帰り、所帯を持つのが夢だったのですから」
だが山南はその手をそっと払い、首を横に振る。
「明里、その言葉はうれしいが、私には戻って成さねばならぬことがあるのだよ」
明里はもう一度山南に縋ろうとしたがが、それを遮るようにして山南の名を呼ぶ声が響いた。
「山南さん!」
街道を懸命に馬で駆けてきた総司がやっと山南の姿を見つけて声を上げたのだ。山南は声の方へ目を向けた。点でしか確認できなかった馬の影がもう馬上の人影まで確認できる距離まで近づいていた。馬上の人物を確認して、山南の表情は心中複雑そうに歪む。
「沖田君が来たのですね」
歳若い彼は私を責めるだろうか、と山南はそれだけが不安だった。
自身の行いに後悔はないが、総司が歳若いが故に感情を曝け出したなら、山南もまた本心を曝け出さずにはいられないような気がしてならない。
「山南さん……やっと追いついた」
額にあせを浮かべ休憩もとらずに馬を駆ってきたであろう総司に、山南は顔に本心を覆い隠すように笑顔の仮面を貼り付けた。総司がその笑顔を自嘲だと捉えてくれることを願って。
馬を駆りながら総司は思う。
自分が禁を犯したように、何かしら理由がなければ掟など破らないものだ。
山南はどんな思いがあって法度を破ったのだろうか。山南自身に理由を聞かない限り、総司には納得できそうにない。
それが総司が山南を追おうと決意した理由であった。
そして見つけ出した山南の姿に総司は声を張り上げる。
「山南さん!」
「やはり、見逃してはくれなかったようですね」
馬から飛び降り、総司は山南に近付こうとしたが、山南はさっと身を引いて二人の間を保った。
「僕は、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもりだと言うのですか?」
「僕は、あなたの脱走の理由が知りたかった。そして、出来ることならあなたに思い留まって欲しいと思って……」
「脱走者に待つのは死のみ。それは君も御存知の筈でしょう」
脱走―――。山南は自らの行為を脱走だと肯定した。その言葉に、総司は唇を噛み押し黙った。山南さえこの行為を脱走だと認定していなければ、まだどこかでこの現実の打開が可能だと思っていたからだ。
「まあ、死ぬ覚悟はしていましたから、私はここにきて、まだ逃げようなんて考えませんよ」
死ぬ覚悟――それではまるで最初から死を選んでいたような口ぶりだ。
総司は山南の顔をまじまじと見詰める。山南は尚も捕まってしまったことを自嘲するように笑っていたが、瞳の奥には嘲りの色はない。むしろ、計画がうまくいったことを喜ぶような安堵の色が窺える。
(それが、山南さんの本心なの……)
総司はそこではたと気が付いた。
(あなたもまた僕と同じなのですね)
総司が山南の身柄を確保し、屯所に帰りつくと、永倉が声を張り上げて駆け寄ってきた。近藤もそれに続くように渋い顔をして、ゆっくりと歩み寄ってくる。総司は近藤に山南の心意を伝えようと口を開きかけたが、それは山南によって制された。
「脱走を試みたことに悔いはありませんよ」
山南の処遇に関して迷いがある近藤に、山南はそう言って微笑みかけた。
私に処罰を下すことを恐れる必要はない、と山南の言いたいことが総司にはわかる。
側にいた総司はその思いを察して、静かに目を伏せた。
「山南さん、本当に脱走したことに悔いはないのかい?」
「ええ、当初の志を忘れ掛けている新撰組に私は嫌気が指したのですよ」
半分本当で、半分は嘘。
そして、その嘘は優しい嘘。
でも総司にとっては、とてつもなく辛い嘘にように聞こえた。
その嘘を感じとったのか、はあ、と近藤は溜め息を吐いた。山南が連れ戻された時点で答えなど一つしか残されていない。けれど山南を前にして近藤はやっとその決断を下す決心がついたのだろう。
「脱走者には切腹を申し付ける。それはあなたであっても同じことだ、山南さん」
「私は、侍として潔くその裁きを受け入れますよ」
山南の言葉を聞き、総司は拳を握り締めた。同じように近藤も何かを堪えるようにして、山南からは見えない位置で拳を握っている。
「先ほども言ったように私に悔いはありません。唯、最後に一つだけ私の願いを叶えてくれませんか?」
可能なことなら、と近藤は頷く。
「介錯を沖田君にお願いしたいのです」
その場にいた全員の目が総司に向いた。顔を伏せていた総司だったが、自然と顔を上げざるを得ない。
「僕が……?」
総司が信じられないと山南を見やれば、山南は自らの言葉を肯定するように頷いた。
「私は、あなたにお願いしたいのです。沖田君。やってくれますね?」
山南さんの最後の願いを無下など出来ない。
総司は黙って頷いた。泣きたいような、怒り散らしたいような不思議な感覚が胸の内に沸き起こってきていた。
元治二年二月二十三日――――――。
山南敬助、切腹。
介錯は沖田総司により行われた。
その晩、屯所の薄暗い部屋の中、総司は膝を抱えて蹲っていた。きつく膝を抱き寄せて、その中に顔を埋める。山南の介錯をした感触がまだ残っていて、気持ち悪くて部屋から出る気にも慣れなかった。そして何より、こうでもしていないと涙が出そうになるのを押さえられそうにもなかった。何度洗っても取れない血の臭いを嗅ぐ度に思い知らされる気がした。違うこと無き定められた歴史を。
「何かを守るには、犠牲はつきものだ」
いつしか自分に言い聞かせたその言葉が身に沁みた。
山南は、新撰組の規律を守るために意味ある死を望んだ。それが分かっているからこそ、総司は守りぬくことをこの日山南に誓ったのだ。