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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

レイスピック・オン・ジ・アイスプラネット

作者: mozno

 一台のトラックが雪の上で立ち往生している。

 俺は後ろから荷台を押す。キュルキュルと音を立てて履帯キャタピラが回転した後、トラックはゆっくりと前進した。前方から運転手の歓声が聞こえる。排気ガスにむせている俺に向けて喜色を浮かべた男が運転席から降りてきて礼を言う。

「ありがとなぁ、兄ちゃん! 助かったよ!」

「困ったときはお互い様、ってやつですよ」

 トラックの履帯には滑り止めの金属製チェーンが巻き付けてあったが、深い雪の上を長時間運転してきたのだろう、金属の歯は氷で詰め物をしたかのように白く覆われていた。

 運転手はこの先の駅に向けて資材を届ける途中でスリップし、立ち往生したとのことだ。俺がたまたま通りがからなければこのままここで夜を越さねばならなかったことだろう。

「命の恩人だ。あんた名前は?」

「ヤマトです」

「そうか。ありがとうな、ヤマトの兄ちゃんよ!」

 彼はそう言って厚い手袋に覆われた大きな手の平で俺の背中を数度力強く叩いた。その力強さが父を思い出させた。


 履帯が断裂していないことを確認した運転手はほっと胸を撫で下ろした後、俺に尋ねた。

「あんたこれからどこに行くんだね?」

 目的地が同じなら一緒に行かないかという誘いだったが、俺はそれを丁重に断って、とある集落の場所を告げた。それを聞いた途端に運転手が顔を顰める。

「悪いことは言わねえから止めときな。そこは駅に居られなくなった連中が集まって作った場所だ。それに噂じゃ……」

 彼が周囲をきょろきょろと見回す。辺りには寒風吹きすさぶ凍原しかなかったが、彼はまるでそれをこそ恐れるように小声で俺に耳打ちした。

寒霊レイスに目を付けられてるって話だ……」

 男がそう言うと、それを聞き咎めたかのように肌を裂くような冷たい風が頬を叩いた。厚雲の隙間から零れる太陽の光は気付くとトラックの救助を始めた頃よりも随分橙色が混じったようだ。

 日が落ちる前にさっさと発った方が良さそうですね、と言って俺が愛車にまたがると、運転手は自分の言葉が信じられていないとでも思ったのか、スノーモービルの前に立って、俺が出発するのを止めた。

「ただの噂かもしれねえが、本気で行くのか?」

「噂じゃ困るんですけどね、ホントにいてくれないと」

 俺がスターターをキックすると、愛車は息を吹き返したかのようにそのエンジンを駆動させた。熱がじわりと太腿を通して伝わってくる。敵の名を聞いて、俺の心臓もこいつと同じように燃え上がっていた。

「だって俺はあいつらを殺しに来たんですから」

 ぽかんと口を開けたままのトラック運転手をハンドル操作で避けて、彼に「じゃ!」と声を掛けてから、俺はゴーグルを装着してグリップをひねり、愛車を前進させた。前輪代わりのスキーユニットが雪を掻き分け、加速していく。

「あっ!」

 言い残したことに気付き、俺は咄嗟にブレーキを掛けた。

 颯爽と去って行ったはずの俺がスノーモービルを回頭して戻ってきたのを見て、トラック運転手の男はさっきの場所に立ったままで、またぽかんと口を開いた。

「おじさん! 今度は安全運転でね!」

「あ、ああ……」

 声が届いたことを確認すると、俺は彼に向けて大きく手を振って別れを告げ、そして見渡す限りの凍原に目掛けて、再びエンジンを吹かせた。


 取り残されたトラックの運転手は、青年の後ろ姿を見送った後、沈みかけている太陽に気が付いて、慌ててトラックの運転席へと乗り込んだ。クラッチ操作を行うと、履帯が回りだす。

 それにしても変わった奴だった。運転手は慎重に前進しながら、思わずそう口にした。

 今日中にはなんとか駅に着きたい。このトラックの荷台には駅の耐寒工事に用いる資材が積まれていた。遅れれば工事の日程に支障が出てしまうかもしれない。そこまで考えてから、ある疑問に気付き、彼は首を傾げた。

 履帯が壊れていた訳ではなかったとはいえ、人一人の力で、一トンを超えるであろうトラックとその積み荷の建築資材を押して動かすことができるものなのか?


 ◆


 トラックのおじさんと別れてからしばらく俺は凍原を進み続けた。

 日はすっかり落ちて周囲はすでに闇に覆われている。舞い散る雪がスノーモービルのヘッドライトの光を乱反射して、きらきらと眩く輝いた。

 遠方に石造りの家の影を認め、俺は地表の雪を白煙のように巻き上げながら、ブレーキを掛けた。

 眼前にはいくつか似たような家がぽつぽつと点在していたが、その扉のいずれからも漏れ出る明かりは一つも無く、暗闇の中で死んだようにただ静まり返っていた。

「ごめんください」

 俺はスノーモービルを停めて、近くにあった民家の戸を叩き、声を掛ける。中で何かが震える気配がした。誰かが住んでいる。

「道に迷ってしまいまして。一晩宿を貸していただけないでしょうか」

 嘘を吐くのは心苦しかったが、この集落に本当に寒霊が潜んでいるなら、用心する必要がある。

 俺はいくつかの民家の扉を叩き、声を掛けたがどれも反応は無かった。人の気配はする。扉の向こうで息を飲む音が確かに聞こえたこともあったが、返事は無かった。

 どうしたものかと俺がぽりぽり頭を掻きながら、愛車の元へと帰ると、俺のスノーモービルを興味深そうに観察していた小さな影と目が合った。

「やばっ!」

 そう口にしたかと思うと、小さな影は雪の上に足跡を残しながら、俺に背を向けて逃げ出した。本人は必死で駆けているつもりなのだろうが、動きはのろい。俺は靴底の金具を鳴らしながら雪上を駆けて、その男の子に追いつくと、首根っこをつかんで持ち上げた。その体は恐ろしく軽かった。

「捕まえたぞ、この盗人め」

「何も盗んでねえよ!」

 俺に片腕だけで持ち上げられた少年は手足をじたばたと振り回して抵抗する。俺はそのまま歩いてスノーモービルの元へと戻る。そばには古びた灯油タンクとオイルポンプが放置されていた。

「盗もうとはしてたみたいだけどな」

「ううっ……」

 逃げることも適わず、盗みの意思も見抜かれた少年は抵抗する気力を失ったのか、俺に持ち上げられたままぐったりと力を抜いた。

「給油口が見つからなかったんだろ? そりゃそうさ。こいつはガソリンで動いているわけじゃない」

 俺は少年を地面に下ろすと、シリンダーに通じる球状の熱庫ヒート・タンクを指差す。

「この中に熱を貯めておける。それを使ってシリンダー内部で空気を圧縮してピストンを……、まあ色々やってエンジンが動くんだ」

 子供が隙を見て逃げ出そうとするので俺は相変わらず彼の襟首をつかんでいた。俺がこのくらいの歳の頃にはバイクを前に目を輝かせていたものだが、今の子はこういうのに興味が無いのだろうか。

「ガソリンなんて駅暮らしでもなきゃ滅多に手に入らないからな。これは俺の父さんが作ったんだ」

 ぴたりと子供の動きが止まった。

「大切な物なんだ。だから、返してくれるか?」

 俺が少年の瞳を覗き込むと、彼はおずおずといくつも着込んだボロボロの服の隙間から、スノーモービルに使われている物より更に小型の熱庫を二つ取り出し、俺へと腕を伸ばした。座席内に収納しておいた物を使用用途も分からぬままに盗んだのだろう。

「ありがとうな。お前、名前は?」

「アタル……」

「そうか、アタル。俺はヤマトってんだ」

 アタルは今にも泣きだしそうに顔をしわくちゃにして、服の裾をつかんでいる。

「お前、この辺りに住んでいるのか?」

「あっち」

 アタルが指差した方向は真っ暗だったので、家があるようには見えなかった。

「……母ちゃんに言う?」

 恐る恐ると言った様子でアタルがそう尋ねるので、俺は彼と視線を合わせたまま、にっと笑って言った。

「お前が今晩俺を泊めるように母ちゃんを説得してくれるなら、黙っといてやろう」

「本当……?」

「ああ、男と男の約束だ」


 アタルが母親と二人で暮らしているという家は、質素な家が多いこの集落の中においても取り分け粗末な造りだった。

 建て付けの悪い扉から吹き込む寒風が、横になっているだけで親子の体温を奪っていく。見かねた俺は小型熱庫のバルブを半開きにして、家の中を温めてやった。熱庫の内側で青い鉱石が熱と同時に光を放っている。アタルの母が俺に何度も礼を言って頭を下げる。その勢いの激しさに細い体が折れてしまうのではないかと心配になった。

 彼女が床下に隠しておいた食料を温め、料理をする。俺が熱庫の使い方についてアタルと話している間に出来上がったのは芋のスープだった。お世辞にも量が多いとは言えないそれを俺は「腹が減っていないから」と固辞して、アタルに譲った。アタルは母親に譲り、母親は俺に再度譲り、スープを入れた容器は三人の間をしばしぐるぐると回った後に、親子二人が分け合って食べることになった。

「本当に母ちゃんに言わなかったね」

「俺は約束を守る男だからな」

 翌朝、俺は一宿の恩と称してアタルの家の裏で薪割りを手伝っていた。愛車のスノーモービルには雪に紛れる白いシートを掛けて隠してある。人を疑いたくはないが、貧すれば盗みに走ろうとする者もいる。昨夜のアタル少年のように。

「ねえ、ヤマト兄ちゃん」

 アタルの真剣なまなざしを受けて、俺は鉞を手放し、彼と向き合った。

「なんだ?」

「これは兄ちゃんだから言うんだけどさ、あのバイクに乗せて俺と母ちゃんをどっかに連れてってくれないかな?」

 ずっと言おうとしていたのだろう。アタルの言葉は洪水のようにとめどなくあふれ出した。

「後ろにソリをつけてさ。俺たちはそっちに乗るから。どこか別の街に連れて行ってくれないか? お金が要るなら俺が働くよ。せめて母ちゃんだけでも、ここから、逃がしてやれないかな……?」

 涙声で訴えるアタルに、俺は問う。

「何から逃げるんだ?」

「寒霊から」

 その時、その名を呼んだことを詰るような甲高い音を立てて木枯らしが吹いた。

「あいつは時々やってきて皆から奪っていくんだ。燃料も、服も食い物も家も全部燃やしていく。父ちゃんは『これじゃ生きていけない』ってあいつに直接訴えて、それで凍えて死ぬまで熱を奪われた」

 アタルは凍りかけている鼻水をずずっと啜って、まっすぐに俺を見る。

「父ちゃんが死ぬ前に、母ちゃんのことを頼むって。それで俺、『うん』って言ったんだ。約束したんだ」

「逃げる必要はない」

 俺はアタルの頭に手を置いて、彼には大きすぎる耳当て付きの帽子の上から、その頭を撫でた。

「兄ちゃんな、あいつらを倒しに来たんだよ」

 にっと笑う俺の顔を見て、アタルはぽかんと口を開いた。


 ◆


 寒霊はいつも悲鳴と共にやってくる。

 その日の昼、寒霊は集落へとやってきた。背の高い男の姿を見て、人々が悲鳴を上げる。男の肌は死体のように生気がない。いや、「ように」ではなく、事実死体なのだ。

 寒霊は意思を持つ冷気だ。奴らには人の言葉を話す術がない。だから人の死体の内側に入り込み、乗っ取ることで人々へと意思を伝える。あの男は最早意思も鼓動もなく、ただその内側に潜む邪悪な霊に傀儡くぐられる操り人形にすぎない。

 その動く死体の前に、中年の体格の良い男が跪いてしどろもどろに機嫌を伺う。

「寒霊さま。本日はいったいどのようなご用件で……。熱のお納めはつい先日おこなったばかりと存じますが――」

 おそらく集落のまとめ役なのであろう体格の良い男の言葉は途中で遮られた。背の高い土気色の肌をした男は、その髪をつかんで立たせると、片腕だけで喉を潰すようにして大の男一人を軽々と持ち上げた。

「違う。寒霊ではない。私が、私たちが人間だ。お前たちは猿。何度言えば覚えるのだ?」

 持ち上げられた男が発そうとする謝罪の声は、かすれ、音を成さず、醜い喘ぎのまま宙に掻き消えていく。寒霊の指先が触れている皮膚は紫色へと変色し、血の気が失せていく。男の体温を吸い取り、食っている。

「昨晩野生の猿が紛れ込んだと耳に入ってな。ここは私が大君より預かった土地ゆえ、勝手に数を増やされては困る。お前たちは隙あらば子を成すからな」

 誰かが宿を探していた男、俺のことを報告したのだろう。支配下にある人々を相互に監視させ、脱走や反逆の密告をした者に褒美を取らせることで不信からの分断を図る。寒霊の常套手段だ。


「その野生の猿ってのは俺のことか?」

 俺は引き留めようとするアタルを押し退け、寒霊の操る死体の前へと姿を晒した。死体の首が不自然な角度に一息に曲がり、その濁った瞳が俺を見た。

 俺は腰のベルトに括りつけた鞘からすでに武器を抜いていた。短めの鉄パイプのような筒の柄から一本の角錐状の針が伸びている。俺はそのアイスピック状の針で貫くように拳大の小型熱庫を取り付け、バルブを解放した。光と熱を放つ青い鉱石を目にした寒霊が驚愕に目を見開いた。

「な、なんなのだ、お前は? それは? ああ、まさか。なんてことを!」

 熱庫を取り付けた柄の反対側から橙色に発光する灼熱の光刃が飛び出す。俺は柄を手の中で回転させ、刃を順手に構えた。たじろぎ、二歩、三歩と後ろに下がった寒霊に向けて、俺は駆け出す。靴の底の金属の歯が鳴る。「ひっ」と死体の喉から、青白い息と共に悲鳴が漏れた。寒霊はつかんでいた男を放り投げ、壁に叩き付けると俺に背を向けて逃げ出した。

 寒霊は靴底に氷の刃を造り出し、アイススケートの要領で凍原を滑っていく。走って追いつくことはできそうにない。

 俺はスノーモービルに被せていた白いシートを引っぺがすと、またがり、スターターをキックした。相棒が息を吹き返す。アクセルを一気に捻り、感じる強力な慣性も風圧も無理矢理に抑え込んで、敵を追った。

 雪を煙のごとく巻き上げ、凍った大地を削り、スキーユニットと後部の履帯が残す轍が、寒霊の残した微かな刃の痕を上書きする。俺は一秒ごとに逃げる背中へと近づいていく。寒霊が振り向きざまに放った氷の矢は俺の振るった熱放つ刃に触れると、一瞬で蒸発し、消え失せた。俺はついにその背中に追いつくと、追い抜きざまに蹴りを放つ。バランスを崩した寒霊は雪の上をバウンドしながら転げていく。俺は動かなくなった死体から目を逸らすことなく、機体にブレーキを掛ける。雪上に深いブレーキ痕が刻まれた。

 寒霊の潜む死体は雪にうつぶせになったまま動かない。俺は刃を構えたままゆっくりと距離を詰める。死体の頭部に青白い靄のような気体が見えた。俺は死体へと駆け寄るが、あと一歩というところでその靄は死体の口から飛び出した。


 死体の口から飛び出した気体は集落の方へと向かっていく。

 俺は再びスノーモービルに飛び乗ると、来た道を猛スピードで駆けていく。

 先程死体から飛び出した靄のような気体。あれこそが寒霊の本体だ。奴は追い詰められたことを悟り、寄生していた肉体を捨てて逃げたのだ。

 俺が集落の入り口でスノーモービルを降りると、寒霊は新たな肉体を得て、俺を待っていた。肉体は先程体温を奪われて壁に叩き付けられた体格の良い男性の物だった。その首には先程奴自身が操る別の死体によって付けられた指の痕が色濃く残っていた。太い腕には氷の刃が握られ、切っ先はぼろを何枚にも着込んだ少年、アタルの首筋に当てられていた。

「ヤマト兄ちゃん……」

「それ以上、近づくな」

 スノーモービルから降りた俺に見せつけるように寒霊がアタルを拘束する腕の力を強めた。少年の顔が苦痛に歪む。母親の悲鳴が奴の背後の人だかりの中から響いた。

「武器を捨ててもらおう」

「……」

 俺は熱庫のバルブを締め、柄から取り外す。灼熱を放つ光の刃が跡形もなく消えた。分解した部品を地面へと落とす。落ちた部品に残った熱で大地を覆う氷が融け、じゅうと音を立てて、白い水蒸気が沸き上がる。

「兄ちゃん、聞いちゃダメだ! こいつを倒してよ! 俺ごとで構わないから!」

「黙っていろ!」

 氷の刃がアタルの首筋に食い込み、赤い血が流れる。血は地面に滴り落ちる前に肌の上でわずかな線を引いて凍り付いた。

「動くなよ、動けばこのガキがどうなるか……」

 寒霊が歯を剥き出しに吠える。

「他の武器も捨ててもらおうか」

 俺は奴の指示に従い、ジャケットから小型の熱庫を二つ取り出し、雪上に放った。男はそれが氷を融かす刃の熱源と同じ物だと気付いて顔を歪めた。

「お前は、いったい何人の命を奪ったのだ……」

「それはこっちの台詞だ。お前たち寒霊は、いったい何人の命を奪った? 何人を凍えさせて殺した?」

「それこそこちらの台詞だ! お前たち猿はあの空を覆う灰でこの星を凍えさせて、我らを何人飢え死にさせた? 我らは最早この星をお前たち猿のさせるがままにはしない!」

 ぴきぴきと俺の周囲の空気が音を立てて凍っていく。地を這う冷気が俺の足を絡め取り、凍てつかせた。徐々に氷は侵食し、ついには膝下が氷に覆われた。

「お前の死体は氷漬けにして、通りに飾らせよう。物覚えの悪い猿でも、誰が主人かを忘れぬようにな!」

 寒霊は俺が身動き取れなくなったのを確認すると、用済みと言わんばかりにアタルの体を後ろに放り投げた。彼の母親がその体を放すまいと抱きしめる。

「兄ちゃん! 逃げて!」

 刃を構えて俺に迫る寒霊を見て、アタルが叫ぶ。アタルはじたばたと暴れて母親の腕の中から逃れると、服の中に隠し持っていたもう一つの熱庫のバルブを全開にして、寒霊の背中に押し付けた。服と肉の焦げる臭いがした。憤怒の形相を浮かべた寒霊は俺に背を向け、手に持った氷の刃を少年の脳天目掛けて振り下ろした。

 アタルが思わず目を閉じる。しかしいつまで経っても衝撃も痛みもやってこない。俺が寒霊の腕をつかんで止めていた。

 俺が全身から発した熱により、足の拘束は融け落ち、寒霊が握りしめた氷の刃は液化し、形を留めず雪を濡らす。

「貴様、まさか……」

 俺は寒霊の言葉を待たず、右腕をつかんだまま、その下腹を渾身の力を込めて蹴り飛ばした。ぶちぶちと筋繊維の引き千切れる音が響く。寒霊はしばらく宙を舞った後に悲鳴とともに雪上を転げた。

 今度は逃がさない。

 俺は手元に残った奴の右腕を放り投げ、走る。地面を転がる刀身の無い柄を拾い上げ、蠢く死体へと迫る。ゆらゆらと起き上がる死体の口と右肩とアイゼンの形に空いた腹の穴から、青白い冷気が今にも飛び出そうとしていた。

 俺は奴の心臓目掛けて、柄頭のアイスピック状の金属針を突き立てる。ゴオオォッと吹きすさぶ寒風のような音が死体に空いた穴から漏れた。直後、爆発するような勢いで寒霊に突き立てているのとは逆側から灼熱の刃が飛び出した。

 生きたまま熱庫にされた寒霊が苦悶の呻きを上げる。寒霊が貯めこんだ熱は今、金属針を通して無制限に外へと排出されている。

 寒霊は熱を食って生きている。熱のある場所に引き寄せられるのは奴らの本能だ。新たな肉体を求めて傷口から逃げ出そうとした寒霊は熱を奪う針によって仮初の肉体に縛り付けられた。逃げることのできない状況で熱を奪われ続け、活動を維持するのに必要な最低熱量を下回ったとき初めて寒霊の体は実体を持つ。不死身の彼らは液化することで長い休眠状態に入るのだ。

「貴様、猿ではっ……!」

 俺は液化した敵が潜む目の前の死体から、さらに熱を吸い上げた。一カ所に集められた寒霊の本体が凝固していく。アイスピックの針の先で、青い鉱石のような寒霊の核が形成された。

 霜が付いた死体の腕が俺へと伸ばされ、しかし届かず空をつかむ。

「なぜ、猿の味方を? 動物愛護の精神か……? いや、しかし、……()()()()

 寒霊の声に微かな安堵が滲んだ。

「猿に、殺されたとあっては、一族の恥、だ。それなら、猟奇殺人鬼に殺される方が、まだマシだ……」

 俺は「霊核抉り(レイス・ピッカー)」の柄を握る拳に力を込めて、更に深く針を押し込んだ。青い鉱石が背中から飛び出すと同時に、氷像と化した亡骸が砕け散った。


 ◆


「行っちゃうの?」

 シートを外し、スノーモービルを給熱する俺にアタルは尋ねた。

「ああ」

 俺は短く返すと、スノーモービルの熱庫から青い鉱石、寒霊の核を取り出し、小型熱庫から熱を移す。霊核には寒霊が復活するために熱を蓄える性質がある。父の発明品である熱庫はその霊核から熱を引き摺り出す装置だ。

 俺は自分の肉体を通して十分に熱が移ったことを確認すると、霊核を再び熱庫の中へと格納した。

「俺と話して母ちゃんに怒られないのか?」

「へへっ。大丈夫だって」

 この集落の支配者を気取っていた寒霊は打ち倒された。だが人々の明るい声は聞こえない。それはそうだろう。彼らにとっては奴を倒した別の寒霊が支配者になるだけで何も変わらない。そう考えるはずだ。彼らが本当に自分たちは自由の身になったのだというのを実感するにはもう少し時間がかかるはずだ。

 しかし、その自由も長くは続かない。寒霊たちには身分がある。彼らは人々から年貢のように熱を集め、より上位の者へと献上する。あの寒霊の消息が途絶えたことが知れれば、新たな地頭が送り込まれて来るだけだ。

 だが、その頃には俺の仲間たちがここの人々をトラックで回収し、この集落はもぬけの殻になっている手筈だ。ほとんどの者は近くのトーキョー駅に送り届けるが、中には俺たちの拠点で働くことを選ぶ者もいる。アタルは拠点に来たいと考えているようだが、彼の母親がそれを許すかどうかは分からない。

「ねえ、ヤマト兄ちゃん。最後にバイクに乗せてよ」

「なんだ、興味ないんじゃなかったのか?」

 アタルに手を貸して座席に座らせて、ゴーグルを貸してやる。

「しっかりつかまってろよ」

 アタルの腕が俺の腰にしがみついたのを確認してから、俺はアクセルを捻る。エンジンが唸り、機体が風を切る。後ろで「うおー、はえー!」というアタルの声が遥か後方に取り残されているかのように聞こえた。

 俺はアタルがジャケットのポケットにこっそりと返し損ねた小型熱庫を入れるのを見て見ぬ振りをして、更にスノーモービルの速度を増す。

「ねえ、兄ちゃん!」

「なんだ!?」

 口を開くとそのまま顎が持っていかれてしまいそうな強風の中で、俺とアタルは互いに声を張り上げる。

「俺いつか自分のバイクを買うよ! そうしたら、俺も連れてってよ!」

「いいぜ! その時はツーリングしよう!」

「約束だよ!」

「ああ、男と男のな!」


 ミラーに映るアタルはいつまでも手を振っていた。

 俺は彼に別れを告げて、愛車で凍原を駆る。いつまでもあの集落にはいられない。俺がいればあそこの人々に安寧は訪れない。

 グリップをつかむ指に力が入る。

 加速すると機体にぶつかる風の音が激しくなった。服が風に棚引く。スキーユニットが積もった雪を崩しては均していく。

『そうとも。お前は、お前たちが言うところの寒霊なのだから』

 無数の音に混じって耳元で声がした。この身に融けたあの悪霊の意識はすでにない。だからこれは幻聴だ。

『お前はもう人間には戻れない。かと言って寒霊にもなれない。お前の居場所はこの凍えた星の何処にもない』

 分かっている。俺の肉体はもう死んでいて、心臓は動いていない。食料も必要としない。熱を奪い、食らう存在、奴らと同じ寒霊だ。

 父さんはかつて俺を乗っ取ろうとした寒霊をこの体に封じた。その核は俺の全身に融けて、俺は今、奴の力を使って俺の死体を動かしている。

『ヤマト。頼む。あいつらから、人間を、この星を、取り戻すんだ。お前にしかできないことだ』

 分かっているよ、父さん。

 約束は必ず守る。

 俺は戦うよ。寒霊から人間を、この星を、そして父さんの亡骸を取り戻すその日まで。


 凍原に一本の木が残されている。

 枝葉の上には雪が積もり、今にも折れんばかりにその身をしならせていた。

 その木の横を一台のスノーモービルが通り過ぎる。風に煽られ、どさどさと音を立てて雪が落ちた。木はその幹を右に左に揺らしながらも、やがては折れることなく持ち直した。

 厚雲の隙間から漏れ出る光に向けて枝を伸ばすその木を置き去りに、スノーモービルは見渡す限りの凍原を雪煙を上げながら、猛スピードで駆けていった。


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