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アナベルの存在

「アントニー様。ほんとうに、ほんとうに感謝しきれません。パウエル公爵家を去る前に、何か一つでもご恩返しが出来ればいいのですが……」


 ご恩返し……。


 彼との子どもが、せめてものご恩返しになるかしら?


 告げるなら、いまよね?


「アントニー様、アナベルさんは子どもはお好きですか?」

「なんだって?」

「唐突に申しわけございません。アナベルさんのこと、まったく知らないものですから。彼女、どんな方なのでしょうか。もちろん、アントニー様の愛する女性ですから、素敵な人ということはわかっていますけれど。あっ別にやきもちとか、離縁したくないから尋ねているというわけではないのですよ」


 彼がだまりこくっているので、ついつい嘘ばかり連ねてしまう。


 わたしの大嘘つき。


 自分で自分を罵った。


「では、どうしてアナベルさんのことをきくのか?、ですよね。それはそうです。じつは、わたしお腹に……」

「アナベルは関係ない」


 お腹の赤ちゃんのことを言いかけたタイミングで、彼がかぶせてきた。


「アナベルは関係ないんだ」

「関係ないって、おおいにありますよ。もう間もなく、あなたの妻になるのですから」

「だから、関係ないって。いないんだ」

「はい?」


 アントニーは、ローテーブルの向こう側で背筋を伸ばした。美貌には、険しい表情が浮かんでいる。


「いないんだよ。この世に存在しないんだ」

「えっ、いったいだれが?」


 彼の突然の「いないんだ」発言に戸惑いを禁じ得ない。


「アナベルだ。そんな女性、存在しないんだ」

「はいいいいいい?」


 ど、どういうこと?アナベルがいない?あれだけ愛しているだの、妻にするだのといっていたあのアナベルが存在しない?


 ま、まさか、まさか他人には見えないお友達というのかしら?イマジナリーフレンド的な存在なの?


 たしかに子どもの時分、彼にはそういう友人や兄弟や冒険者パーティーのメンバーがいた。


 この年齢になってもまだ、それが続いているの?


 だとすれば、アナベルがこの世に存在しないという事実より衝撃的だわ。


「何か誤解していないか?」


 わたしの口がぽっかりあいているのを見、彼が訝し気に尋ねてきた。


「いいえ。何も誤解していません」


 たぶん、と心の中で付け足しておく。


「きみとの結婚が具体的になったとき……」


 彼の説明が始まったみたい。


 彼は、わたしとの結婚が具体的に決まったタイミングで伯父様に余命宣告をされたらしい。


 たしかに、カーリーの診療所でそう言っていたわね。


 そのとき、彼はショックを受けたのと同時にわたしのことをかんがえてしまった。


 わたしとの結婚を楽しみにしている両親の手前、婚約を破棄するわけにはいかない。すくなくとも、両親は先に死んでしまう。両親が死んでから、わたしと離縁すればいい。だけど、わたしに心配をかけたくない。


 それだったら、いっそ嫌われよう。軽蔑されよう。わたしが彼と離縁してよかった、と思わせるようにすればいい。


 彼は、そう思いいたった。


 この世に存在しないアナベルという女性を愛している。わたしを愛することはなく、離縁してアナベルと結婚する、と告げたという。


「だから、アナベルなんていないんだ。ユイ、ほんとうにすまない」


 彼は、ローテーブルに頭をぶつけそうな勢いでそれを下げた。


「そ、そんな……」


 衝撃がこれほど重なると、思考が追いつかない。


 だけど、なぜか負けていられないと負けん気が発動した。


「アントニー様。わたし、子どもが出来たのです。もちろん、あなたとの子どもです。あの夜のことが、奇蹟を起こしたみたいです」


 即座にやり返していた。


 わたしばかりが衝撃を受けたり驚くのは癪だから、一度くらいはやり返したい。


「な、な、なんだって?」


 長椅子からぴょこんと立ち上がってめちゃくちゃ驚いている彼を見て、ほんのちょっと快感を覚えた。  


「ええ、そうなのです。あの夜、大当たりしたみたいです」


 おどけたように告げているが、内心ではドキドキしている。


 アナベルの存在が架空なのだったら、もしかしたら子どものことを受け入れてくれるだろうか。


 両手で腹部をさすりつつ、彼の反応を待っている。


「あっ、そうでした。先日、嘘をお伝えしました。あのときは、わたしも伯父様にだまされていたのです。妊娠の症状なのに、余命一年の不治の病だ、と。そして、あなたと同じように薬を渡されたわけです。結局、錠剤が苦手で服用しなかったことが不幸中のさいわいでしたが」


 一応、謝罪しておく。だまされていたとはいえ、真実を伝えていなかったのだから。


 その間も、腹部に視線を落として腹部それをなでまくっている。


 まだ動くのがわかるわけじゃないけれど、小さな命が育まれているのははっきりと自覚できる。


「嘘だろう?まさか、おれが父親に?父親になれるのか?」


 その震えを帯びた声で顔を上げると、彼がローテーブルをまわってすぐ横に立っていた。


「ええ、アントニー様。あなたは、この子の父親なんですよ」


 腹部をさすりつつ、彼を見上げた。


 彼の美貌が真っ赤になっている。みるみるうちに目尻に涙がたまって溢れたかと思うと、堰を切ったかのように流れ落ちはじめた。


「やったぁ!」


 彼の叫び声で鼓膜が震えた。


 って認識したときには、彼はわたしを抱きしめていた。


 いいえ。わたしたちを……。


 アントニーは泣きながら、いついつまでもわたしたちの赤ちゃんとわたしを抱きしめていた。

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