3:それは、長くはなかったものの、温かくもある物語
ただ今、狐と翁は山頂を目指して歩いております。翁にとっては嫗を亡くしてから登った以来です。
あの頃と比べると翁の足取りは軽快とは言えないものとなっておりました。
一方、狐の方は翁とは対照的でリズムを刻んでいくかのようにステップしたりしています。
狐が翁よりずいぶん先の方まで行ってしまいました。その事に気がついた狐は翁のもとへと引き返してきます。
「じい様、足の調子は大丈夫かの?どこかで休憩しなくて平気かへ?」
「足というよりかは腰の方が、ちぃとばかし痛むくらいだから平気じゃよ」
そんな会話を時折交えながら翁と狐は山の頂を目指していたのです。
さて、話は変わりますが今回どうして狐と翁が山頂に向かっているのかと言いますと、それは少し前の出来事。場所は山小屋、時刻は巳の刻。午前十時頃。
翁は今日も狐がやって来るのを首を長くして待っております。
それから間もなくして狐が翁のもとへとやってまいりました。
「じい様、今日も来たのじゃ。中の入れてくれなのじゃ」
その声を聞いた翁は快く狐を小屋の中へと入れてあげるのでした。
「お前さんに頼みたい事があるのだが聞いてくれるかね?いや、お前さんだからお願いしたいのだ」
そのように翁は狐に対し言いました。
「仕方ないのう。分かったから取り敢えずは言うてみるのじゃ」と狐。
そうは言ったものの狐は翁から頼られているのが嬉しかったのです。
「儂と共に山頂までついてきてくれぬか?」と翁。
「どうしたのじゃ、唐突なお願いじゃの。妾は別に良いが」と狐。
それから翁は、そのように思った理由を狐に話すこととしました。
今から約二〇年前、亡くなった嫗に少しでも近づけるかと思ったものの会えるわけもなく、後悔だったりといったネガティブな感情しか湧いてくることはありませんでした。
それ以来、山頂に翁一人で行こうと思えばいつでも行くことができたものの、気持ちのどこかで引っかかっているようでした。ついには一人で行こうにも行けなくなってしまったのです。
翁は弱い自分の心というものに正面から向き合えるかも分からないものの嫗に会えた暁には、せめて胸を張れたらと思い『生きる』という選択をしました。
そんなある日、川で出会った狐に対し何気ない気持ちで生魚をやります。生魚に対して狐は警戒しつつも近づいていき食べました。
それから狐が翁の住む山小屋へと訪れるようになったのです。
そうやって狐と会っている間は翁にとってかけがえのない時間となりました。
そして今日、翁は一緒に山頂を目指してほしいと狐にお願いしたのです。
たとえ翁一人で山頂まで行くことは不可能でも狐が一緒なら何とかなるような気がしたのです。
それに、過去の自分との決別、いや区切りをつけようとする気持ちがあったのです。
何か辛いことから逃げ出そうとしてしまう弱い自分、何かを成し遂げようともできなかった自分、それら全てが自分なのだと認めるために。
全てを受けとめて少しずつでも成長していきたいという思いがあったのです。
翁の思いの丈を聞き終えた狐は、こう言いました。
「分かったのじゃ。一緒に行ってやるとするかの...」と、少し照れくさそうに。
やっとのことで翁と狐は山頂に到着しました。あの時と景色は同じものだとしても翁の心には一輪の花が咲いているようでした。
嫗のことは自分が死んでしまうまで忘れることができなくても、その時までは彼女の分まで精いっぱいに楽しく生きられたらと思う翁なのでした。
「じい様や、今日は誘ってくれて有り難うなのじゃ。この景色をじい様と一緒に見られてよかったのじゃ」
「礼を言うのは儂の方じゃ。一人では無理だったろうし、お前さんがいてくれたから登りきれたのだと思うしの」
そうして翁と狐は、しばし景色を眺めていることにしました。
青空をゆっくりと流れる雲、僅かながらに耳に届いてくる小鳥の囀り。それらは時間が経つのを忘れさせてくれるのでした。
その後、翁と狐は下山をして山小屋まで戻っていくのでした。
「じい様や、妾も今度、虎のところへと戻ってみることにするのじゃ」と狐。
「そうか、今まで伝えられなかったこととか全部言えたらよいな」と翁。
「じい様に言われずとも最初からそのつもりじゃ。じい様よりも長生きなのじゃからな」
そう言った狐の表情は翁と初めて会ったときよりも少しばかり柔らかく思えた。
いつかは終わりが来ようとも、それまでは無駄だとしても、もがけるだけもがいてみよう。
出来ないままでいるよりは、少しずつでも後退してもいいからゆっくりと前へ進んで行こう。
茜色の空に照らされる翁と狐は、とても眩しく思えた。
お読みくださり有り難うございます。あと一話、番外編がありますので、そちらもよかったらお読みください。