ー地獄の果てまで、愛してましたー
父は市役所の事務員で、母は専業主婦。平凡な中流階級の家庭に生まれ、女として平均点ぐらいの顔に、平均点ぐらいの大学に通う平凡な学生だった。友達も数人いて、彼氏ができたことだってあった。特に人気があるわけでもなかったけれど、人生それなりに満足していた・・・人生最悪だったあの日までは。「紗奈!定期券は持った?お弁当は?」と、毎朝家を出るたびに口うるさい母。「うん、持ったから」と冷たく返し、ドアに当たるかのように、バタンと閉めた。娘を想うお節介であることはわかっていたが、毎朝小学生のように確認されると苛立ってしまう。19歳。もう選挙権だって持っている歳だ。最寄り駅まで、母に対してイライラした気持ちを抱えながら歩いていると、ポタッと頬に水が落ちてきた。上を見上げると、少し小雨が降ってきたようだった。駆け足で駅まで向かった。コート一枚上に羽織ったぐらいでは、寒い日だった。今日の授業は、韓国語だけだった。大学の専攻は英文学だったが、英文学よりも、今は第二外国語の授業の韓国語の方が楽しかった。楽しい理由は、この秋から新しく来た韓国人の先生がイケメンだったからだ。韓国語の勉強を始めて3か月、授業にはあまりついていけていなかった。それでも、先生の顔を眺めているのが楽しかった。たまにニコニコしながら先生を見つめていると、「サナサン!今日、イイコトアリマシタガ?」と先生に聞かれたこともあった。いつも通りに授業を受けていると、教室に事務員が走って入ってきた。息を切らしながら事務員は、「早乙女紗奈さん、いますか?」と生徒に向かって聞いた。私、なにか呼び出されるようなことをやらかしてしまったんだろうか。弱々しく手を挙げた。「お母様、危篤ですって。お父様から電話あって、すぐに病院に来るようにって。」と事務員。気づいたら、教科書を全部机に置いたまま、お財布と携帯だけもって、事務員と一緒に学校の駐車場まで走っていた。最寄り駅までは、事務員が送ってくれるという。病院までは、学校から2時間もかかる距離だった。車で行くよりも、電車で行った方が近い距離だった。病院までの2時間、「間に合いますように」と祈り続けた。今朝まで元気だった母が危篤なんで、信じられなかった。事故にでも巻き込まれたのだろうか。あれこれ考えていると、2時間があっという間に過ぎた。病室に走っていくと、父は泣き崩れ、母の顔には白い布がかかっていた。「嘘でしょ」と絶句して佇んでいると、父は「ママ、紗奈も来たよ」と母に話しかける。白い布を取り、母の頬を触ると、氷のように冷たかった。「ねぇ、ねぇ、起きて!!起きて!!」何度叫んでも、母は目覚めることはなかった。「なにがあったの?」そう父に尋ねると、「ごめんな。お前には言わないでおこうってママと決めてたんだ。最近心臓がちょっと悪くなっててな。たまに病院に通ってたんだが、突然死だって・・・こんな早くなくなるなんて誰も予想してなかったよ。」と鼻をすすりながら話し始めた。父が泣いたのを、初めて見た。あれほど口うるさかった母も、いざ亡くなると恋しくて仕方なくなる。まだなにも親孝行できてない、ろくに「ありがとう」すらいえなかったのに。それから数日間、葬式も遺品整理も何もかも上の空で、母が亡くなった実感のないまま過ごした。ただ、母の遺影と目が合う度、涙がこぼれた。父と娘、二人だけ取り残された。母が亡くなってから
父はあまり家に帰ってこなくなった。母と過ごした思い出のつまった家にいると、母を亡くした悲しみがこみ上げ辛いのだろう。たまに深夜に帰宅しては、お酒に逃げていた。お酒に酔った父は、直接暴力を振うことはなかったものの、ドアを壊したり、壁をなぐって自暴自棄になっていた。そんな父と生活するのが嫌になった。
母を失った悲しみから逃れるように、私は大学の「長期交換留学」を申請した。なんとなく韓国語に興味があったから、韓国に行くことにした。父も、反対することはなかった。母を失って父一人家に残すのは心苦しかったが、海外で暮らせることに胸が弾んだ。韓国行くまでの数か月間は、カフェのアルバイトのシフトを増やし、貯金に専念した。そして、いざ、韓国へ行く日がやってきた。寮も契約し、授業料も父が負担してくれた。貯金も少し貯まった。私のような韓国語がまだほとんどできない生徒は、現地の「語学堂」と呼ばれる、大学付属の語学研修センターで韓国語の基礎を学ぶところからスタートだった。