9
真っ白に燃え尽きた私と、何だか燻っている二の宮は、這々の体で桐壺へ戻った。
私が身を削って得た情報を聞いて、中将と宮は押し黙った。
「白菊の姫…聞いたことがないねぇ。朝顔達が勝手にそう呼んでいるのだろうから特定は難しいか…。十重二十重に護られているというからには、公卿の姫か、それとも斎院の宮様…は高齢だし無いか…。もしや内裏の…?」
「いや、内裏は無いだろう。大江は西の対へ行けと言ったのだろう?婿となれば将来安泰だと。
やはり何処か京の邸にいる公卿の未婚の姫と考える方が良いように思うな。範囲が広いが、絞り込んでみよう。」
鴛鴦の見解を聞いて心が折れた。
ああ…拷問と言っていいほど精神を酷使して聴いたのに、特定情報が無いなんて…。
私は目眩を覚えてその場に突っ伏してしまった。
「うさぎ、大丈夫か?…今日は確か非番だったろ?ここで休んでいくといい。」
二の宮様がなんとも優しい提案をして下さると、それを聞いた中将が急に身を乗り出す。
「…ああっ!そうだね!そうだとも!ゼヒそうした方がいいね!もう日も登るし、こんな時間に帰ると人目についてまた何を言われるかわからないしねっ!」
いつもより3割増しで輝く中将のんふふ顔には、労わりの心が一切、全く、欠片も感じられなかった。
それどころか何だか嫌な秋波を感じるが、疲れ切った私には考える気力もなく、そのまま桐壺で自分を立て直すことにしたのだった。
「じゃ、堀川殿に報告してくるからごゆっくり~!んふふ…」
満開の笑顔で変態中将が去って行くと、二の宮は二階厨子をあさり出す。
「うん…言われてみれば少し減ってるな。」
「何がですか?」
「練香だよ。大江が朝顔に俺の香を渡したって言ってただろ?俺のは秘伝の調合で有名だからな。…ここのが盗られてるんだ。」
宮は心底不愉快そうに口許を歪める。
確かに二の宮様はいつも素晴らしい薫りを纏っている。
八日間に渡る至近距離での宿直で、すっかり身に馴染んだその薫りは梅花香なのだが、甘い薫りの中に鼻を抜ける爽やかな何かが隠れている。この時期は梅花香を愛用している人が多いが、それらとは一線を画する代物だった。
何を調合しているのか聞いてみたが、教えてもらえなかったので、今度母様に分析してもらわねばと思っていた所だったのだ。
「それは酷いですね。大江が直接盗んだんでしょうか……っっ!」
喋っていてくらりと揺れる視界に、思わず顔を覆う。眼裏に蛍の大群が飛んでは消える。そんな私の様子に気づいたのか、二の宮が慌てて寄って来た。
「おい、大丈夫か?構わないから御帳台を使え。ほら、いくぞ。」
早口で言うや否や背中と膝裏に手を回され、そのまま体が宙に浮く。普段の女房装束であれば色々嵩張るし重たいので到底無理だが、梨壺潜入の為に簡略化して着ていた壺装束がこんな所で裏目に出るなんて…。
「お、重たいですから、降ろしてください!一人で歩けます~!」
「うさぎ一匹くらい何てことないから気にするな。火事消すのに運んだ雪の方がまだ重かったぞ。」
冗談めかして笑うその秀麗な顔を間近に見上げ、余計に目眩が悪化する。
あれよという間に御帳台に寝かされ宮の衣だろう物を掛けられる。衣に染み込んだ馴染みの薫りのお陰か、他人様の御帳台なのに何故か安心する。
大江じゃないけど、私も欲しいな…宮様の練香。
そうすれば、宮様と接点がなくなっても淋しくならなくて済むかも…。
横になった途端、急速に押し寄せる眠気に抗えず、半分活動を停めた頭にふわりと浮かぶそんな気持ち。
「具合良くなるまでとりあえず寝ろ。後の事は俺が何とかするから。」
初めて会った時には欠片も見られなかったような、慈愛に満ちた瞳で見つめられ、さらには優しく髪を梳かれ、耳を撫でられるという驚きの現実についていけなくなった私は、とうとう意識を飛ばして現実逃避した。
最後に感じた気持ちが何なのか分からないまま…。
****
無音の闇ーーー
疲れきった精神と耳は、考えること、聴くことを止め、ただひたすらに回復の刻を待つ。
闇の中の私は、ただただ力なく座り込む。あたり一帯は墨のように黒くドロリとした泥濘が広がる。手足はもちろん、綺麗に設えた装束も黒く汚れ、長く垂らした髪も手入れの甲斐もなく泥濘に無惨にたゆたう。
聡耳を使い過ぎて倒れると見る、いつもの夢。
これは夢だと知っているから、目を閉じてひたすらに目覚める刻を待つ。
寒い…。
泥濘に浸かった所から冷気が這い上ってくる。
早く目覚めたい…。
ふと、静寂を破る矢のような高い音。
これは笛の音?
驚いて辺りを見渡すと、頬に何か降ってきた。
見上げると、暗く空虚だった天からの雨。お湯のように温かい雨。
それはたちまち豪雨となり私を濡らす。不思議と不快感は無く、冷え切った体を温かさが包む。雨は体中に絡みついていた墨も泥濘も、たちまち洗い流していく。私は思わず立ち上がり全身に雨を受ける。
その間にも絶えず聴こえる笛の音。
高く、低く、空気を、心を、震わせる音色。
心の弦を甘く掻き乱し、揺さぶり、胸を締めつける。
この感覚はよく知っている。
それはいつの間にか日常になりつつあるもの。
少しずつ私の中を占めていく存在…。
気がつくと雨は止んでおり、泥濘の代わりに透明に澄んだ水面が広がっていた。その水面に何か煌くものが映っている。見上げると闇の中に光り輝く虹がかかっていた。
陽の光も無いのに煌々と色を放つ孤は、澄んだ水面に映った孤と繋がり、光の環となっている。見たこともない幻想的な光景に、惚けたように立っていると、虹は見る間に煌く龍の姿へ変わり、うねりながら天へ登って行く。
待って、行かないで。
闇の中で私は必死に手を伸ばすーーー
「うさぎ、起きたのね?」
手に触れる温もりに意識が掬い上げられる。
「三条のおば様…?」
目を開けるとそこには堀川邸の頃から親しく、今は麗景殿の先輩女房である三条が私の手をとって微笑んでいた。
「あなたが人事不省に陥ってるからと堀川様から連絡いただいてね。そこで、『聡耳』の事を知っている私が様子を見に来たのよ。」
「そうだったのですか…。有り難うございます…。」
どれくらい寝ていたのだろうか、体を起こし室内を見ると、燃えるような茜に染まっており、もうすぐ陽が落ちる刻限だと分かった。
「今回は目覚めが早かったわね?いつも耳を使い過ぎた後は、一昼夜懇々と寝続けるのに…。二の宮様の笛のお陰かしらね?」
笛…。
あの暗闇で聴いた音色。
それは現実のものだったようで、今も美しく響いている。三条のおば様は、御帳台を出てさらに御簾の外へいざり出ていった。
笛の音が止み、程なくして御簾を乱暴に掻きあげ二の宮様が入ってきた。
「うさぎ、大丈夫か?!」
自分を心配する宮の声。寝起きの無防備な体を甘い毒は駆け巡る。掻き乱され締め付けられる。
ああ、暗闇の中で探していたものは…ーーー
じんわりと広がる温かい気持ちを撫でながら笑顔を向ける。
「ええ、もう大丈夫です。二の宮様の笛の音が癒してくださいました。ありがとうございました。」
御帳台の中まで入ってきた宮様に感謝を述べると、灯が点ったように宮様の表情が明るくなる。
「そうか!良かった!三条から綺麗な音が疲れた耳に良いと聞いて、煩いかとは思ったんだが…すまない。」
私の為に演奏してくれたのだと思うと、耳が熱くなる。何だかしょげている宮様を元気付けたくて、私は努めて明るく笑う。
「いいえ、いつもなら一昼夜寝続ける所が半日で済んだのは宮様のお陰です!」
二の宮様は一瞬目を瞠るとすぐ人懐こい笑みを浮かべる。
手が、伸びてくる。
細い、でも節くれ立った逞しい男の手。
私の髪を掻き上げ、耳から首筋を撫ぜる宮様の手。
「すまなかったな…。『聡耳』がこんなにお前を疲れさせるものだと知らなくて…無理させた。」
「いえ…………。」
今が夕暮れ時で良かった。きっと全身、末摘花で染めたようになっている私だけど、夕陽の色で多少は誤魔化せているはず。
というか何なんだ、宮様のこの過保護っぷりは?!
動物愛護週間か?!
それとも飼い兎認定されたのか?!
なおも、寝乱れた髪を手で梳かれたりしている異常事態に、目を泳がせて助けを求めるが、頼みの綱である三条のおば様は、熟練女房の必殺技『空気に溶ける』を華麗に繰り出し中。
さらには「夕餉の支度をしてまいります。」と絶妙な間合いで御簾の外へ滑り出ていった。
おば様ぁーーー!!
夕餉はいいから傍にいて欲しいのにー!!
と、さらに狼狽え彷徨う目の端にある物を見つけ、咄嗟に声をあげる。
「琴!おば様が私の琴持って来てくださったみたいなので!合奏しませんか?!」
そこで二の宮様も我に返ってくれたようで、手を引っ込め少し照れたように笑った。
「ああ、そうだな。お前のお手並み拝見といこう。」
再び差し出された手に躊躇いながらも手を重ね、御帳台を出る。
今朝方の体調不良が嘘のように体が軽い。
いつもなら一昼夜寝た後、冷たく鈍い体で琴を弾き、自分で耳を癒していたのに…。
今は、重なり合った掌から二の宮の優しい温もりが沁みて身体も心も暖かい。
茜さす二の宮の横顔を、私は面映ゆい気持ちで見つめてしまった。




