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逸る心と裏腹にずしりと重い女房装束を引きずりながら、やっと承香殿へ辿り着くと、南廂に人集りが出来ていた。
慌てて駆けつけたのだろう内舎人や武官たちに鴛鴦の二人が指示を出している。
間から覗くと、倒れて一部焼け焦げた几帳に覆い被さる雪の塊。火元と思われる傍の火鉢にもこんもり雪が積もっていた。
よかった、無事に鎮火出来たんだ…。
額に吹き出る汗を懐紙で拭いながら胸を撫で下ろす。
ふと横を見ると、柱に縋り付くようにして衛門の君がへたり込んで呆然としていた。
「衛門の君…大丈夫ですか?どこかお怪我はありませんか?」
近くに寄って緩やかに肩を揺する。
「うさぎの君…。」
焦点の合わなかった瞳が私という像を結んだかと思うと、みるみる涙を湛える。
「わたくし…女御様のご衣装を運んでいて、足元に納言が居るのが見えな…くて、踏んでしまったの。それで…」
衛門の君はついに袖で顔を覆って泣き出してしまった。
「驚いて暴れた納言に…足元を取られて几帳に…倒れかかってしまって…その几帳に火鉢の火が…うぅ…。」
「そうだったの…。」
さめざめと泣く衛門の君の背をさすりながら納言を探すと、白黒の毛玉は簀子の隅に丸まってこちらを見つめている。心なしかしょげているように見えるのが気の毒だった。
火事は何よりも忌むべきもの。
一歩間違えれば取り返しのつかない事になっていただけに、衛門の君の恐怖は計り知れない。
不運な事故なのだから、お咎めを受けたりなどならないよね…?
ふとよぎる不安を打ち消したのは特徴的な笑い声。
「んふふ。大丈夫だよ。火は駆けつけた二の宮様がすっぱりさっぱり消して大事には至らなかったし、二の宮様はもちろん、承香殿女御様からも今上におとりなし頂くからね。」
いつの間にか傍に座り込んでいた宰相中将は檜扇でハタハタと衛門の君を扇いでいる。袖で隠れている顔は青ざめ、浅い呼吸を繰り返していて、あまりの心労に貧血を起こしているようだった。
「宰相中将行くぞ。今上に報告だ。」
頭上から降るぞわりと甘い声に、思わず我が身を掻き抱きたくなる。頭の片隅で悶える自分を必死に抑え、貧血で動けない衛門の君を他の女房と支えて、さりげなくこの場から退場する女房その1になりきる。
「うさぎとやら。お前はこっちだ。」
あ、やっぱバレてましたね…。
有無を言わさぬその美声に名を呼ばれ、私は体も心も囚われ動けなくなってしまった。
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耳にかかる、吐息。
「お前、あの時俺たちの話を聞いていたな?」
ギャー!至近距離でその声で責めないで~!!
連れ込まれた先は人気の無い仁寿殿の納殿。今は物置に使われているのか、だいぶ埃っぽい。
裳やら袿やら引きずる裾が埃を撒き散らすのも気にせず、あれよという間に壁際に追い込まれる。
扇を開いて距離を置くこともままならず、せめて至近距離で顔を見られることは避けようと両袖で何とか隠しているものの、左右は壁に荒々しくつかれた二の宮の両腕に阻まれ完全に窮鼠、いや、窮兎状態。
他人には聞かれたくない話だからか、低い声を一層押し殺したように耳許で囁かれるので、耳が火傷しそうなほどに熱くなる。
「あのっ!この周りに人の気配は聴こえないので、もう少し離れて話しませんか?!」
一刻も早く、一歩でも遠く離れたくて『聡耳』を使ったが、それは自白したも同じだと直ぐに後悔した。
「…気配が聴こえる?随分良い耳をしてるんだな?…なるほど、遠くの雷の音も、承香殿の火事の音も、この耳で聴いたのか。」
不意に髪を掻き上げられ耳を撫でられ、驚きのあまり「ひぎゃ!」なんて色気のない声を出して堪らずしゃがみ込んでしまった。
両袖で必死に顔を覆い隠していたから、耳に手が伸びてきたのに気がつかなかったのだ。
どうにも出来なくて、両手で耳を隠し、顔を俯け必死に丸くなる。
二の宮はなおも私を逃がすまいと、覆いかぶさるように膝を折る。
あぁ、こんな時に何だけど、宮様から薫る梅花香がくらりとするほど良い匂い…。
「ということはやはり、あの雪の中の俺たちの会話も聴こえていたわけだ。…で、誰に情報を流すんだ?東宮退位の為に俺達をどうするつもりだ?」
両手で覆い隠した耳に、なおもしつこく囁かれたが、話の流れがおかしい事に気づき、思わず顔を上げる。
「残念だが兄上を退位させるなんて、俺が絶対に許さない。言え、お前の雇い主は誰だ?」
二の宮はその流麗な顔を怒りに歪め、睨みつけてくる。
その肩越しに見える宰相中将は野次馬根性丸出しのにやけ顔で他人様の不幸を覗き見てくる。
これはもしかしなくとも、濡れ衣を着せられている…?!
確かに、自分達の内緒話を盗み聞きされたら敵かと疑うのも仕様が無いけれど…。
まさか自分が反東宮派だと疑われるとは寝耳に…いや、聡耳に水もいいところだ。
宮は尚も、どうやって麗景殿に潜り込んだのかなどと責めてくるし、中将は視界の端に忙しなくニヤニヤ顔を出してくる。
無性にイライラしてきた。
だいたい、反東宮派だったら火事だって教えないっつーの!もし私が反東宮派だったら、この火事を利用して何かでっち上げて東宮様に濡れ衣きせて廃太子に追い込もうと考えるわよ!
なにより、女房の嗜み投げ捨ててまで梨壺から承香殿まで頑張って早歩きした私の、この懐紙に染みた玉の汗をとくと見よ!と言いたい。
甘く痺れる声にも大概慣れて耐性が付き、この状況を明らかに楽しんでいる中将への苛立ちが頂点に達したところでプツンと何かが切れた音を聞いた。
「っだーーもう!男の癖にネチネチうるさい!超絶素敵な声だからってもう許せません!」
急に両手を振り挙げ、立ち上がって大声を出し始めた窮兎に、鴛鴦は面食らって時を停めた。
その間を良いことに、私は中将を睨みつけ、胸元に差していた衵扇を抜き取り中将に向けてビシッと突き出す。
「そしてそこのニヤケ中将様!人様の不幸を面白がってんじゃないですよ!サイテーです!罰として以前名乗った私の正式な女房名を答えなさい!!」
中将は一介の女房ごときに指差されても気を悪くするどころか、とろりと華の顔を満開にして頷く。
「んふふ。黙っていて見ていて悪かったね。だって、あの二の宮が女性に迫るだなんて、余りにも胸がときめく状況だったからつい…」
「迫ってない!尋問だっ!!」
一時停止から我に返った宮はすくっと立ちあがる。
また拘束されては堪らないので少し距離をとり、腕を組み中将に答えを促す。
「んふ。君の女房名は確か『因幡』だったね。因幡の白兎って誂えたようだなって驚いたから印象深かったよ。」
「よろしい。では二の宮様!」
今度は衵扇をビシッと二の宮へ差し向ける。
「堀川右大臣が大姫にして麗景殿女御であるお方に仕える私のこの女房名が意味する所は?!」
鴦の宮は怪訝そうな顔をする。
「……?外見ばかりでなく女房名までもうさぎ関連で、もはやうさぎという名は一生ついて回るぞ御愁傷様ということか?」
「違います!!二の宮様って鈍い?鈍いの?!」
「何だとっ?!」
二の宮のトンチンカンなのに無性に心を抉る回答に、私は女房としての洗練された身のこなしや言葉遣い、女性としての有るべき姿を全て、えいやっと埃っぽい棚に押し上げて、感情のままに地団駄を踏む。
扉の隙間から僅かに差し込む日差しの作る道にキラキラと埃が舞い踊る。
ふと光の筋の先を見ると、しゃがみ込んだ中将の丸まった背中に行き着く。肩を震わせ必死に笑いを堪えている様にまた怒りが込み上げる。
「「笑うなっ!」」
宮と揃って声をあげた事で、中将の堤防は決壊したらしい。
「あっはっはっはっは~!」と床を叩き更なる埃をまき散らしながら笑う中将。
いい加減ここから出ないと全身埃で真っ白になる予感がする。
「中将様って、んふふって以外にあんな風に笑うんですね…。あ、宮様肩に埃が…。」
「ああ、ありがとう。…付き合い長いが、あそこまで派手に笑ってるのは初めて見るな…。お前こそ頭の天辺に大きい塊付いてるぞ。」
「あ、ありがとうございます。」
中将の馬鹿笑いにすっかり毒気を抜かれ一時休戦し、毛繕いをする猿よろしく待っていると、ようやく笑い納めた中将が起き上がる。
肩一面に埃がこんもり積もっているのは罰として放置してやれ。
「いやぁ~、お腹割れるかと思ったね。」
割れりゃいいのに。
隣をみると二の宮もそんな顔をしている。
「で、話を再開してもいいかな?」
お前が中断させてたんだろーが。
今、私の聡耳は宮様の心の声すら聞き取っている確信がある。
中将は人差し指を眉間に当てて狭い空間を無駄に歩く。あぁ…また埃が…いやもう何も言うまい。
「女房名というのは、親類縁者の官職名から取ることが多い。現在、『因幡』国に携わっている官人の中で、堀川右大臣と深い関わりがある人と言ったら一人しかいない。」
「左少弁兼因幡守…『堀川の聡目』か!」
「その通り!」
ようやく思い至って声を上げた二の宮に、我が意を得たりとばかりに中将が指を差して格好をつけるが、肩に埃を被ったままなのでイマイチ決まらない。
「そうです。私の父は堀川右大臣の盟友『堀川の聡目』です。私は堀川様の命を受け、貴方様達と同じように、反東宮派の動向を探るべく麗景殿に仕えております。」
誤解は解けましたでしょうか?
私はやっと女性のたしなみを棚から降ろしてきて、衵扇の影から嫣然と微笑む。
「聡目殿やその北の方は有名だが、娘の話など聞いたことがないが…。」
二の宮は顎に手をやり記憶の糸を辿る。
「私の聡耳は利用価値が高いのですが、か弱い女の身ゆえ、悪意のある者に狙われないよう、ずっと存在を隠して参りました。
…しかし今回ばかりは堀川のおじ様も事態を重く考えておいでのようで、微力ながら私がお手伝いをさせていただくことになりました。」
「…ということは、うさぎは私達の仲間だねぇ?いやいや、頼もしい仲間が出来たじゃないか二の宮?」
肩の埃はそのままに、華やかな顔で背の低い私を覗きこんでくる中将。そろそろ埃、取ってあげようかな?
二の宮は顎に手を当てて、まだ思考の海を漂っているようだった。
これ以上何か言われないうちにさっさと逃げよう…。
「まだお疑いであれば、直接堀川のおじ様に聞いてみてください。ではそろそろ失礼致します。」
「うん、また会いに行くよ。近いうちに…ね。」
中将の意味深な発言と艶めいた笑顔に薄ら寒いもの感じつつ、私は思い立って歩み寄り、肩の埃を払ってあげた。
「肩に雪が積っておりましたよ。ご衣装は濡れてはいませんか?」
少し茶化して言ってやると、中将は一瞬目を瞠り「ははっ」と少年のようにあどけなく笑った。
この笑い方も初めて見た…。
いつもの婀娜っぽい雰囲気との落差に、図らずも熱くなる耳を懸命に隠して、私はそそくさと仁寿殿を後にしたのだった。




