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幼い頃は『聡耳』がもたらす音の渦に飲み込まれないように必死で生きてきた。
今のように力を制御出来ず、遠くの音も近くの音も無差別に全て拾って、情報を処理しきれず混乱したものだ。
その所為で常人には聴こえない音の話をしたりするものだから、事情を知らない人からは変な目で見られるので、他の子供達と庭を駆け回るような年頃も室内で一人遊んでいることが多かった。
そんな私を支えてくれたのは、同じく特殊な家族だった。
父は『聡目』の持ち主で、遥か遠くの松の枝の数を詳細に数えることや、空を飛ぶ雁の群の雌雄の区別までやってのけるほど目が良い。
読唇術もお手の物。
昔、その力で堀川右大臣の窮地を救った事から無二の親友、『堀川殿の盟友』や、『堀川の聡目殿』と世間には認知され、そのお陰で今や上国「因幡」の国守や、その他宮中でもお役目を賜っている。
兄は『剛腕』の持ち主で、その腕は鋼のように硬く、刀すらはじき返し、一度力を込めれば大きな牛車でも一人で軽々と持ち上げる。
子供の頃家族で石山詣へ行った時、ぬかるみに嵌って動けなくなった牛車を持ち上げて助けてくれ、その地方に語り継がれる神童伝説となったらしい…。
そんな兄は春宮亮として東宮様のお側に仕え、影の護衛として頑張っている。梨壺に行くのは気が進まないのだが、兄の働く姿を見られるという点だけは密かに気に入っているのだった。
家族の中で私が一番地味ね。と笑う母は、『聡鼻』の持ち主。
万物のあらゆる匂いを嗅ぎ分ける。遠くの雨の匂いを嗅いで、「明日は雨ね。」などとさらりと当てる。確かに地味かと思いきや、貴族の嗜みの一つである薫物。ここに母の能力は鼻開く…違った、花開く。
香木の一本一本の質から嗅ぎ分け選別をし、その能力を駆使して絶妙に調合される香は他の追随を許さない至高の逸品。
各家にはそれぞれ自慢の調合法というものがあるそうだが、「割合だけの問題じゃないのよねー。」と一蹴する母。
宮中の薫物合わせなどには必ずお声が掛かり、その技をいかんなく発揮する。現在の中宮様が堀川右大臣の妹姫であるご縁で、度々お召しをうけ、藤壺にて薫物教室なるものを開いたりして中宮の権勢に花を添えている。そんな母が家族の中で一番華やかな暮らしをしていると知らぬは本人ばかりなのだ。
私はそんな異能家族の中で少しずつ力の使い方を覚えて生きてきた。
私の力は悪用される恐れがあった為、今までは堀川邸でひっそりと、三の君にお仕えする日々を送ってきた。
でも、三月前のある日、右大臣様からお声が掛かったのが人生の転機ーーー
「私の大姫である麗景殿東宮女御の元へ出仕してもらいたい。」
目の前に座った父と右大臣様はどこまでも真面目な顔だった。
この時期特有の長雨の音ばかりが人払いされた室内に響く。雨の音は余計な音を掻き消してくれるから、耳が疲れにくくて良い…。って、危ない。一瞬現実逃避しかけたが、今の言葉の意味をしっかり判断しなければならない。
「…理由をお伺いしても?」
宮中は怖い所だからと、母の参内にもろくに付い行かせてもらえなかった私が。三の君と離れ、今まで数えるほどしかお会いしたことがない大姫様にいきなりお仕えしなければならないその意図は?
右大臣様は部屋をぐるりと見渡すと厳かな声で呟く。
「…周囲に人の気配はするか?」
私は髪を掻き分けて『耳』を澄ませる。近くに人が居れば、どんなに微動だにしなくとも、たとえ息を殺していても、その命の鼓動が聴こえるはず。
「居りません。ご安心ください。」
「私の『目』も何も映しません。」
父も周囲を視てくれたようだ。
そうか…。と右大臣様は満足気に目を細める。その笑顔はいつも拝んでいる阿弥陀如来様のようなのだが…
「東宮を退位させようと狙う下衆な輩がいる。うさぎには宮中でその『耳』を使ってあらゆる情報を集めて欲しい。燻り出して生まれてきたことを後悔させてやるでな。」
さすがは権謀渦巻く宮中に君臨する右大臣。慈愛溢れる笑顔のままに、禍々しい毒を吐く。
「今上と、藤壺中宮、そして麗景殿女御、そなたの兄には伝えてある。御身の事で動揺されては困るので東宮には何も申し上げておらぬからそのつもりで。そなたには、文遣いなど極力内裏を歩き回る仕事をあてがうゆえ、あらゆる場所で耳を欹て不穏な話があれば直ぐに教えて欲しい。」
今まで呑気に生活していた私がいきなり間諜の真似事とは、重すぎる荷ではないかと父に口の動きだけで伝えるも、
「大丈夫。父も兄もついている。頑張りなさい。」
とあえなく千尋の谷に突き落とされる始末。
お父様、獅子の子じゃないんだから、うさぎは谷に落とされたって生きて行けませんよぅ…。
それでも這々の体で谷を這い登ったところに追い打ちをかける阿弥陀様の一言。
「それとだね、うさぎもそろそろ年頃なのだから、ついでに宮中で良い婿がねも探してきなさい。」
間諜やるついでに婿探しって何…。
阿弥陀様の無茶振りに、私の心はついに深い谷底の地面にめり込んだ。




