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「あれは、何年か前に私がまだ女童だった時分、母と共に参内した時の事にございます…」ーーー
珍しく母の参内についていったその日。なかなか用事が終わらない母を置いて、今東宮の元で働いている兄に会いに行こうと梨壺へ向かっていた時だった。
どこからか素晴らしい音色の『想夫恋』が聴こえてきた。
和琴の音色もさる事ながら、聴いているこちらがなんだか照れて面映ゆくなってしまう何かが込められた音色…。
女童だった当時は分からなかったけれど、二の宮様への気持ちを自覚した今なら分かる。
…あれはひたむきで一途な恋情が込められた音色だった。
あまりに素敵だったので、私は兄に会いに行く事などさっぱり忘れて音のする方へ向かったのだ。
音はとある塗籠から聴こえてくる。
少し迷ったものの、好奇心に勝てず廂に面した入口からそっと中を覗こうとして…参内の為にいつもより着重ねていた装束に躓いてそのままあれよという間に塗籠の中へなだれ込んでしまったのだ。
「若宮様…?」
こちらに背を向け和琴を弾いていた女君は、うわ言のように誰かの名前を呼びながらゆっくりと振り返った。
ひと目で高貴な身分と分かる美しいその女君はしかし、病的なまでにやつれ、本来は美の象徴とされる肌の白さも痛々しく感じられる程だった。
どこか焦点の合わない瞳で私を捉えると、椿の花が落ちるような危うい儚さでこてりと首を傾げた。
「まぁ…なんて可愛らしい…。御仏の御使いかしら?私を迎えにきてくださったの?」
御仏の使い?
何かの例えなのかよく分からないが、貴人の御前に許しも得ずいきなり現れる事が非常識極まりない行為である事は子供の私とて分かることだった。
「あの…無作法をお許しください。とても美しい和琴の音色が聴こえましたもので、どなたがお弾きになっているのか知りたくなってつい…。」
「まぁ…ではこの『連理』の音色が御使い殿を呼んでくれたのね…。私のような者がこんな素晴らしい名器をいただいて良かったのかずっと悩んでいたけれど、でも若宮様のおかげでやっとここから自由になれる…若宮様…。」
どこか遠くを見るようにうわ言を呟く女君は子供の私が見ても危うく、今にも消えてしまいそうに感じられた。
「あぁ、また二人で船岡の蓮の花を見たいわ…。どうして私はこんな所に居るのかしら?若宮様の女御になるって入内したのに…違う人が東宮様だって言うのよ?間違ってるって、この人じゃないって父さまにも乳母にも教えたのに誰も信じてくれないの。なぜ若宮様と共に居られないの…?なぜ…?どうして…?」
ここではない何処かを見つめ、童のような口調でうわ言をつぶやく妙齢の女君。
異様な光景に動けず固まっていると、あらぬ所を見ていた女君の瞳がゆるりと戻ってきて、今度はしっかりと私を捉えた。
「御使い殿、本来ならば若宮様にお返ししなければならないこの『連理』を共に抱いて逝く事をどうぞお許しください。今生では叶いませんでしたから、これを縁に後の世ではきっと、例えどんな形であっても若宮様のお側に在りたいのです。どうか…。」
そういってほろほろと涙を零す女君に私はいよいよどうしていいか分からず狼狽えてしまった。
「わ、分かりました。貴女の願いは『連理』を通じてきっと御仏にも、その若宮様にも伝わりましょう。どうか御心を安らかにして健やかにお過ごしください。」
狼狽えてとっさにそんな事を言ってしまったが、それを聞いた女君は、目に涙を浮かべたまま、花が綻ぶように可憐に微笑んだ。
と、反対側の入口の方から衣擦れの音と共に、人の声が聴こえてくる。
「女御様?いかがなさいました?」
くぐもってはいるが、はっきりと聴こえたその言葉で女君の身分を知り、頭がいよいよ真っ白になった。
「何でもないわ。もう少し弾きたいから下がっていていいわ。」
女君…女御様はどこかあどけなく歌うように応えると、また和琴を弾き始めた。
塗籠の向こうの気配が遠ざかったのを見計らって私は女御様へ辞去の礼をして入ってきた戸から外へ滑り出た。
今はただ 儚くなりなむ 身なれども 蓮葉の露 それと眺めよ
(いまはもう死んでしまうこの身なので蓮葉の上の露を私の代わりと思ってください)
後の世は 交わせる枝を 縁にて 割れても末に 巡り逢ひたし
(連理という銘のこの琴を縁にして、分かれても一つの枝になるという連理の枝のように来世では貴方と一つになりたい)
その時微かに聴こえてきた女御様のお歌に込められた本当の意味をその時の私はまだ分からなかった…。
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「後になってその女君は桐壺女御だと知りました。女御様が入内なさった経緯も。そして…時を置かずに病でお隠れになった事も…。」
恐る恐る、けれどしっかり船岡宮のお顔を見上げると、白皙の肌がより一層青白くなっていた。
「その頃はまだ子供で、私にはその感情が何だったのか分かりませんでした。でも大人になって…私も恋をして…さきほどあの想夫恋を聴いて分かったのです。今も鮮明に思い出せる…桐壺女御様とまったく同じ音色。
あれは身を焦がすような激しい恋の音色だった。
…女御様は貴方様をひたすらに想っていたんだと。」
「そんな…」
船岡宮は切なくて千切れそうな声で呟き、御衣で顔を覆い立ち尽くしていた。
ふいに遥か遠くから物々しい人の足音が『聡耳』に聴こえてくる。
恐らく私の追手だろう。
私は全神経を集中して追手の様子を聴く。
「追手は3人。うち1人は少納言…あの忌々しい声は忘れない。鎧の音…他の2人は武士か何かね。厄介だわ。でも捕まるわけにはいかない…。」
私は再度船岡宮に首を垂れた。
「船岡宮様、名残惜しゅうございますが、追手が来ましたのでお暇致します。ここでこうしてお会い出来たのも御仏のお導き。桐壺女御様…いえ、連理の君の御心しかとお伝えいたしました。」
「……。」
そうして私は反応のない宮様を置いて、少しでも追手から遠ざかる方向へ足を向けた。
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縫い止められたようにその場から動けずどれくらいそうしていただろうか…
「我が君?そのような所でどうなさった?」
声のする方を見遣ると狩衣姿の成雅が居た。
「……捕らえたのか?」
そう聞くと成雅は喉の奥で低く笑った。
「脱走した兎がご迷惑をかけましたか?ご安心を。しっかりと捕らえましたので。」
そうか、あの女房は捕まったのか…。
「追手は何人で来た?まさか無断で邸へあげたりしていないだろうな?」
努めて何の感情も乗らないよう聞くと、
「手下の武士を2人連れてまいりましたが、外で待機させておりますのでご安心を。」
と、女房の言った通りの答えが返って来た。
「……その兎はこれから何処へ?」
じわりと掌に汗が滲むのを感じる。
成雅は不思議そうに少し首を傾げたが、虫も殺さぬような涼しげな笑顔で何でもない事のように告げた。
「北の廃寺へ。二の宮を呼び出したので、来るの待って無理心中していただきます。
二の宮殺害を兎に依頼したという偽の東宮の文を宮中で発見させ、廃太子に追い込むと同時に堀川の権勢を削ぎます。」
そこまで言うと、成雅は目の前に膝をついた。
「若宮様…いや、我が君。もう少しお待ちください。貴方の御代になれば、貴方を裏切っていった者共を如何様にもする事が出来ましょう。
その時まで御心安らかにお待ちください。」
「………成雅。……私は、」
「では、最後の仕上げをして参ります。」
私の言葉を最後まで聞かず成雅は立ち上がり暗闇の中へ消えていった。
御簾の中へ目をやると、灯台の僅かな灯の中に『連理』の片割れが悲しげに浮かび上がっていた…。
作中の和歌は文法やら用法やら色々おかしいかもですが、平安時代ポイ雰囲気を出すためという事でさらっとスルーしてください(土下座




