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遠くから聴こえる美しい音色にまず耳が覚醒する。
この音は和琴…そして懐かしいあの…
そう認識してすぐに、全身を鈍い痛みと寒さが襲ってくる。まだぼんやりする思考のまま目を開けると、辺りは暗く、粗末な筵と土がむき出しの床、そして薄汚れた木の壁が視野いっぱいに飛び込んできた。
一瞬で覚醒した脳に促され、身体を起こそうとするも、何故かうまくいかず、チクチクとした粗い筵に再び顔を擦り付ける事になってしまった。
慌てて自分の身体を見ると、身体を支える為の手が後手に縛られていた。足の方はと見ると、こちらは幸いにも自由がきく状態だった。
拐かされた…?!
少納言の言葉を鵜呑みにして、のこのこと綾綺殿に行き、背後から何か大きな布を被せられ身動きが取れなくなった。…そこから記憶が途切れている。あまりの事態と、息苦しさから、おそらく気を失ってしまったのだろう。
ここは何処なんだろう?
恐慌状態に陥りそうな心を必死に抑え、全神経を集中して聡耳を使う。
四方から風の音、木擦れと共に雪が落ちる音。
ここは小屋のような建物で、独立して外に建っているようだ。聴こえる音はそれくらいで、近くに人間の存在する音は聴こえない。
かなり集中して聴いたから、少なくとも目視出来る範囲には誰もいないはずだ。
見張りが居ない事に一先ず安堵の溜息が出る。
それならば此処から脱出して逃げる事も可能かもしれない。
二の宮に警告されていたにも関わらず、少納言の嘘を信じておびき出され、うかうかと拘束されてしまった。あまりの間抜け具合に、穴を掘って埋まりたくなるが、後悔よりも今は逃げる事を考えなければ…。
縛られている状態から何とか身体を起こし、粗末な木戸に近づく。後ろ手で開けようとしてみるもののビクともしない。こんな粗末な木戸に念入りな錠などあるはずがない。おそらくつっかえ棒などがされているのだろうと当たりをつけ、思い切って木戸に体当たりをしてみる。
ミシミシ…という音がするも、戸には変化がない。
もう一度…。
助走をつけて戸にぶつかれば、先程より大きな音が戸からだけでなく、小屋全体から鳴る。
もしかして戸が開くより先に小屋が潰れるかもしれない…。
背筋を嫌な汗が伝う。しかし、ここで止めてしまえば逃げる機会はもう来ないかも知れない。
女は度胸!たとえ小屋が崩れたとしてもその時はその時!私は何としてでも帰って、二の宮様に謝らなきゃいけない…!!
そう心に決め、再度助走をつけて木戸にぶつかる。肩に鋭い痛みが走ったが、戸の向こう側から、カラン…と何かが落ちる音が聴こえた。
期待を込めて木戸を引くと、果たして、凍えるような空気と共に闇に浮かび上がる雪景色が飛び込んで来た。
「やったぁ…!!」
気持的には高らかに拳を突き上げたい所だが縛られた状態ではそれもままならず。
さて、ここからどうしようか?
目が覚めた時に聴こえたあの和琴は未だに鳴り続けている。そちらの方へ行けば確実に人に会える。
けれどそれが私を攫ってきた少納言の仲間だったら終わりだ。
では人気のない方へ歩き、遠く離れた所で誰かに助けを求めるか…。
色々ぐちゃぐちゃになってはいるが、正式な女房装束で着膨れしているので寒さは多少なりとも我慢出来る。しかし草履も何も無く足袋のまま夜闇の雪の中を、当てども無く歩き回るのは無理だ。
風にのって聴こえる和琴の音に、とある確信を持って、私は音のする方へと急いだ。
閉じ込められていた小屋はどうやら、どこかの邸の敷地にある納屋だったようで、すぐに母屋らしき場所へ辿り着いた。
辺りは暗く、既に蔀も下ろされて部屋の様子は分からないが、聡耳をつかえば簡単に音のする部屋は特定出来た。
雪で濡れそぼった足や、乱れてしまっている装束の散々たる状況に一瞬躊躇いながらも、いつ少納言が来るかという恐怖に耐えられず階を登り、後ろ手に妻戸をこじ開けて中に滑り込んだ。
「そこに居るのは誰か?」
妻戸の開閉の音に気が付いたのか、御簾内の人物は和琴を弾く手を止めた。
私は自分の姿が少しでも見えるよう御簾近くに膝を折り頭を垂れた。
「突然のご無礼をお許しください。私は因幡守が娘。現在麗景殿東宮女御にお仕えする者にございますが、宮中より何者かに拐かされ気が付けばこちらに居りました次第でございます。
こちらは船岡宮様の御座所とお見受け致します。
やんごとなき御方にこの様な事を申し上げるは、本来ならば許されざる事であるとは充分に承知しておりますが……お願いです、どうかお助けください!!」
ままならない体で必死に平身低頭…もはやうずくまっているに過ぎない状態で待っていると、御簾がさやと揺れる音がした。
「面をあげよ。いかにも私は世に船岡宮と呼ばれる者だが、私はもはや俗世を捨てた。やんごとなき身の上などではない。」
恐る恐る顔をあげると、鈍色の上品な法衣に身を包んだ御方がすぐ近くでこちらを見下ろしていた。
今東宮様に似た面差しながら、その表情は能面のように一切の感情が見られないことに、目の前が真っ暗になった。
「……私は俗世を捨てた身ゆえ、どうしてやる事も出来ぬ。」
なんの感情も乗らない無慈悲な声。悪い意味で想像通りの答えに、心が折れそうになる。
このまま少納言の術中に嵌り、利用されてしまうのか…。私だけならまだ良い。でも二の宮様まで危ない目に合わせてしまったら…!!
それに二の宮様には謝って許してもらわなきゃ…その為には何としても…!
力の入らなくなっていた体を奮い起こす。
何としても帰らなければ…!
船岡宮さまの助力が得られずとも、自力で、這ってでも帰る!
「では宮様、せめてここは何処なのか教えていただきたいのです。京の中なのでしょうか?それとも船岡山ですか?
俗世を離れたとはいえ、道に迷った者に道を示す事を慈悲の心に溢れた仏は咎めますまい。」
「ここは船岡山の私の庵だが……待て。ここがどこかも知らず、どうして私が船岡宮とわかった?」
何の感情も見えなかった声が怪訝そうな声音に変わり
、私は思わず顔をあげる。能面のようだった顔は僅かだが眉を顰め、答えを求めていた。
「恐れながら、和琴の音色で貴方様と分かりました。
私は聡耳と呼ばれる、人よりよく聴こえる耳を持っております故、一度聴いた音は決して忘れませぬ。先程宮様が『想夫恋』を弾いておられた和琴は、『連理』という銘のある物ではございませんか?」
確信を持って問うと、船岡宮は驚きを隠せないようで、掠れた声で呟く。
「何故『連理』を知っている…それが何故私だと…」
宮は激しく動揺しているようで、瞳を揺らしながら問いともうわ言とも分からぬ言葉を呟いている。
聡耳の事を話すのは危険だと分かってはいたが、この方が少納言の仲間であるならいずれ知れる事だし、何よりこれから話すことを…あの御方の真心を信じていただく為には必要な情報だった。
「あれは、何年か前に私がまだ女童だった時分、母と共に参内した時の事にございます…」




