17
二の宮様に引きずられるように連れ込まれた先は、いつぞやのあの埃まみれの納殿。
もっとも今は、宴の準備のために掃除され綺麗になっていた。
がしかし、陥る状況は以前と全く変わりなくて。
私は必死に袖で顔を隠しながら、追い詰められるように壁に背を預け、顔の両脇にドンと付かれた二の宮の両腕の檻に閉じ込められていた。
「俺の所に来れないくらい忙しいと言った癖に、他の男と一緒にいるなんてどういう事だ。」
苦々しく歪められてもなお流麗な顔に正面から見据えられ、甘く低い美声に責められて、言葉の意味を把握する前に腰が抜けそうになってしまった。
けどーーー
「お前、あいつが誰か知ってるのか?船岡宮の手下で、おそらく高倉とも繋がってる。お前の聡耳を利用しようと近づいて来たのが分からなかったのか!?」
利用。
なんて残酷な言葉。
今一番聞きたくない言葉。
その言葉に体中の血が逆流する。
『可哀想に』という少納言の声と、哀しい旋律が蘇る。
「…何ですか皆して、利用、利用、って。そんな風に言うって事は、宮様もそう思ってるって、私を利用してるって事ですよね?」
いつに無く攻撃的な言葉が口をつく。少納言に古傷を剥がされ、どうしようもなく心が荒れていた。
「私の聡耳はさぞ利用価値が高かったでしょう?ご満足いただけましたか?…人と違うことがどんなに辛いか、人に差別されるのがどんなに悲しいか知らないくせに…。」
八つ当たりも甚だしいと分かっていても、醜い言葉が溢れ出すのを止められない。
「利用…。確かにそう言われても仕方ないかもしれない。」
二の宮は苦々しげに眉を顰める。
「けど、俺は無理強いなんてするつもりは無かった。お前が協力してくれるならと、お前の意思を尊重していたつもりだ。」
「一介の女房が国家権力に逆らえるわけないじゃないですか!」
「じゃあお前は権力が怖くて、俺が親王だから仕方なく従ってたってことか?」
「……。」
答えられずに押し黙ると、宮の切れ長の瞳がさらに細められる。
「お前は聡耳だからって差別するなというが、お前も俺の事を親王だからと差別してるんじゃないか。」
「そんなの差別とは言いません!」
「いや、差別だな。俺はずっとそう感じてきた。子供の頃から、親王ってだけで特別扱いされてきた。周りの大人も友人も上辺だけの付き合いで本心を明かす奴なんていなかったからな。」
「……。」
「でも、中将は違った。良くも悪くも本心で俺に接してくれる。お前もそうだと俺は思っていた。仲間として協力してくれたんだと思っていた。」
薄暗い中で二の宮の瞳ばかりが炯炯として私を捕らえる。
「確かにあの時、危険を冒してまであんな盗聴させたのは悪かったと思っている。お前が倒れた時、死ぬほど後悔した。けど、お前と過ごした夜は俺にとっては楽しくて貴重な時間だった。そう思っていたが、お前はそうじゃなかった。ずっと利用されてると思って過ごしていたんだな。」
二の宮は吐き捨てるようにそう言うと、私から体を離し、初めて会った頃のような目で私を見つめた。
すぐさま「違う!」と言いたかったのに、感情のない、庭の小石を眺めるようなその視線に、痛いほどの悲しみが襲って言葉が出ない。
「今まで悪かったな。お前を桐壺に呼んでたのは、きちんと礼が言いたかったからだった。協力してくれて本当にありがとう。もう関わらないから安心してくれ。あ、でも少納言には気を付けろ。聡目殿には伝えておく。」
それだけ言うと二の宮は踵を返し、振り返らずに納殿を出て行ってしまった。
「宮様…!」
その場にへたり込み、二の宮が出て行った戸口を呆然と見つめるしか出来ない私。
どうしよう…。宮様を怒らせてしまった…。
「ありゃ、間に合わなかったねぇ…。今、スゴイ顔の二の宮とすれ違ったよ。」
しばらく焦点の定まらなかった視界に、ひょこりと顔を出した中将に、私は力なく呟く。
「中将様、どうしよう…。」
****
少納言との会話から一通りを話し終え、「宮様を怒らせてしまいました…。」と項垂れると、中将は困ったように微笑む。
「違うよ。あれはね、傷ついた時の顔なんだよ。」
「え…?」
私は驚きに目を瞠る。
中将は私に目線を合わせるように覗き込み、面白可笑しい内緒話でもするように扇で口元を隠し顔を寄せてくる。
「二の宮は誰かに対して怒りを覚えたら氷の微笑で徹底的に責める質だからね。そりゃあもう、世にも寒々しく憎たらしい顔で、相手が生まれたことを後悔するまで、ね。」
うん…。それはかなり恐そうだ。出来ればお目にかかりたくない。
「だから、怒ったように見える時は、自分に対して怒ってる時や自分を責めてる時。…つまり傷ついてる時。」
聞いた途端、目元に急激に熱が集まり出す。
ああ…。どうしよう、私…。
中将の顔を見ていられなくて思わず俯くと、中将の大きな手が頭を撫でる。
「ほぉんと、分かりにくすぎて可愛い奴だよねぇ?」
集まった熱はみるみるうちに涙を作り溢れさせる。滲んでぼやけた視界に、パタパタと音を立てて、そこだけ色を変える装束が映る。
宮様を傷つけてしまった…?
その事実にどうしようもないほど胸が深く抉られる。
聡耳を使い過ぎて倒れた時、あんなにも優しく労ってくれた宮様を。
右大将邸で無茶をした私を、怒るくらい心配してくれた宮様を。
高貴な身分に驕ること無く、いつだって「すまない。」と謝り、「ありがとう。」と感謝を伝えてくれた宮様を。
時折みせる人懐こくて温かいあの笑顔を。
『利用している』なんて心にも無い言葉で否定して傷つけてしまった。
子供の頃、『聡耳』を気味悪がられた経験は消えない傷だった。大人になるにつれて大分癒え、表面上は澄んだ湖のような平穏を保っていたものの、消せない劣等感は水底に沈澱する汚泥の様に存在していた。
少納言の言葉は、心の湖を深く深く掻き回し、澄んだ水面を一気に泥沼へと変えた。
私は、濁って混乱した心のままに勝手に被害者ぶって八つ当たりしてしまったのだ。
ちゃんと思い出せば、宮様達と出会ってから『利用』されているなんて感じた事は一度も無かったのに…。
不意に、何年か前に父と話した事を思い出す。
「父様は、聡目だから堀川様に利用されてるんだって思う事はない?」
「ないねぇ。だって私が力になりたくて、好きで協力してるから。」
「好きで…?」
「確かに何も知らない他人から見れば、私は権力に釣られ良いように使われている憐れな男かもしれない。…お前もそう思うかい?」
「……思わないわ。だって堀川様と父様は対等な関係に見えるもの。」
「そうだよ。堀川殿と私は、身分こそ違うが、無二の親友だ。お互いに信頼し助けあっている。」
天下の堀川様を親友だとはっきり言い切る父に当時の私はものすごく驚いた。
「私も若い頃はこの能力の事でお前のように悩んだよ。けど聡目のお陰で、かつて堀川殿を助ける事が出来たし、今も力になれる。そのことを今の私は誇りに思っている。」
父の大きな手が髪をかき分け私の耳を撫でる。
「…いつかお前も信頼できる誰かに出会い、助けてあげたいと心から思える日がきっと来るよ。自分が利用されてるとか、されていないとか、そういうのは他人が決める事じゃない。自分が決める事だ。」
聡目の代償か、色素の薄い父の琥珀色の瞳。
絶対の信頼と揺るぎない意志を宿したその瞳と、父の言葉の意味が今やっと解った。
そうなんだ。
私は、ちゃんと自分の意思で行動していた。
私が力になりたくて、私が皆の、二の宮様の助けになりたくて…。
それはきっとこれからも変わらない…。
止まらない涙もそのままに、私は顔をあげて中将を見る。
「中将様お願い…。宮様の傍にいてあげてください。」
「でも、うさぎが心配。」
「私はもう大丈夫です…。今、猛省中なので、それが済んだら宮様に謝りに行きます。…中将様も、ごめんなさい。」
中将は苦笑を浮かべ、私の頭からその大きな手を離す。
「私が謝られる事は何一つないよ。むしろ好きなだけ詰って、責めてくれていい。宮と違って、私は確かに君を『利用』しているし、これからもあわよくば『利用』しちゃいたいと思ってるからね。…私は何を犠牲にしても宮を護らなければならないから。」
あまりにも堂々とした悪人宣言に思わず涙を忘れ苦笑する。
「…中将様も大概いいヒトですよね。」
そう言うと中将はその甘い目元に驚きを滲ませる。
「本当に誰かを上手く『利用』しようとするなら、あの手この手で綺麗に言い繕うものですから。
…それに、いくら中将様が利用してるって思っても、私は自分から宮様達の力になりたいって思って勝手に行動しますから、利用されてる事にはなりませんよ。」
涙でグチャグチャの顔だけど、それでも精一杯の笑顔で自信満々に言ってのけると、中将は吹き出して笑った。
「はははっ!…やっぱりうさぎはスゴイね。」
そして、「ありがとう。」と笑った顔は、この納殿で埃を払ってあげた時に見た少年のような笑顔。
もっとこんな風に笑えば良いのにと思うけれど、中将も何か傷を抱えていて、素直に笑えずに生きている人なのかもしれないと、ぼんやり思った。
今晩桐壺に行くことを約束し、中将は二の宮の所へ向かった。
私はというと、今だ熱を持った目元を冷ますべく納殿に籠城を続けている。
「目が真っ赤で、本当にウサギみたいだよ?」
と、中将がクスクスと笑いながら懐紙を何枚か重ね、外の雪を少し包んできてくれたので、それで目元を冷やしている。
このまま麗景殿に戻ったら、目敏い野次馬姉さん達に何を言われるか分かったものではない。
けど、そんな事よりも気にかかって仕方がないのは二の宮様の事。
あんなにも醜い自分を晒して、酷い言葉をぶつけてしまって、謝った所で許して貰えるだろうか?
冷えていく目元と共に、思考もだんだん冷静さを取り戻して行く。
もし謝ってもまた、あの無感情な目で見られたら心が千切れてしまう事だろう。そんな場面を想像するだけで足が竦むけれど、許してもらえるまで何度だって謝るしかない。一度失った信頼を取り戻すのは容易い事ではないけれど、たとえ何日、いや何年掛かっても、宮様に許していただけるまで頑張ろう。
そうして謝罪に向けて、年単位での並々ならぬ決意と闘志を漲らせていると、耳が扉の向こうを通りすがる人の足音と声を拾う。
「因幡の君、聴こえますか?」
少しくぐもってはいるが、その掠れたような声は、先程私を苦しめた少納言のもの。しかし先程とは違い、張り詰めた緊張を孕んだ声音。私は髪を掻き上げ耳を澄ます。
「二の宮様がまた狙われています。貴女になら犯人達の話が聴こえそうな場所を見つけましたので、誰にも知られないように直ぐに綾綺殿の裏手へ来てください。詳しくはそこで。」
ゆっくりとした足取りで歩きながらそれだけ言うと、少納言の足音はそのまま遠ざかっていった。
後から思い返せば、どうして少納言の言葉を鵜呑みにしてしまったのか、この時の自分の肩をがくがく揺すってやりたくなる。
しかし生憎この時私の頭の中は、耳あたりからじっとりはみ出そうなくらいに二の宮様への気持ちで満杯。
当の本人に警告されていたにも関わらず、二の宮様を助けなければという一心で綾綺殿へ向かってしまったのだった…。




