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 二の宮様を避けるように、堀川様へ口添えを頼んで連日夜勤に志願し、昼夜逆転の生活を送る毎日。


 鈴丸君が毎日のように桐壺への伺候を促しに来て、その愛らしい瞳が悲し気に潤むのに罪悪感を覚えるが、夜勤を理由に頑なに辞退する。


 二の宮様の声を聞きたい。

 あの匂いに包まれて、その笑顔を見たい。

 そう思うのだが、宮様と会えば会うほど想いは募って、諦めるのが辛くなるのは火を見るよりも明らかだった。


 そろそろ夜勤だけを理由に二の宮様を避けるのが難しくなって来た頃、東宮主催の管弦の宴での琴奏者に任命された。普段なら大勢の前で演奏など嫌がる所だが、これでまた忙しくなり宮様を避ける理由が出来ると思うと、そちらの方が心休まるのだった。


「因幡の君、この曲の解釈についてもう少しお話したいのですが、宜しいでしょうか?」


 直ぐ後ろから掠れ気味な所が魅力的な声に呼び止められ、私は振り向いた。

 仁寿殿に宴の関係者が一同に会し、宴の流れや曲目などのお達しを受け、解散になってすぐの事だった。


「少納言様…?」

「はい、少納言藤原成雅と申します。

 同じ琴奏者として宴に参加させていただきます。予てからお話をしたいと思っておりましたので、このような機会に巡り合えて嬉しいです。」


 そう言って少納言は垂れ目気味の甘い目元をいっそう緩ませ微笑む。

 年の頃は三十代前半くらいだろうか、変態中将のような華やかな美に、落ち着いた大人の魅力が加わった少納言につい見惚れてしまう。そして、そんな状況でも、年を重ねていって大人の魅力を得た宮様はどんな風になるんだろうとぼんやり想像してしまうあたり、だいぶ重症だろうと自分に呆れる。


「こちらこそ、数少ない琴の名手でいらっしゃる少納言様にご指導いただけるなんて光栄でございます。」


 そう申し上げると、少納言は喉の奥で鳩が鳴く様に低く笑った。


 それから私達はそのまま近くの火桶に身を寄せ、今回の曲目についてや、琴の奏法など様々な事を話し合った。

 遠く、刻を報せる鐘の音に気づけば茜さす時刻になっており、同じ様に広間に(たむろ)して居た人々もいつの間にか疎らになっていた。

 今宵は夜勤ではないが、そろそろ戻らねばならない時間だ。


「少納言様、今日はとても有意義な時間をありがとうございました。また是非。」

「こちらこそ、また誘わせていただきますよ。」


 座ったまま穏やかに微笑む少納言に辞去の礼をし、広間の御簾をくぐり出て妻戸を開ける。雪に冷えた夕暮れの空気が、火桶の熱で上気した頬を撫で冷ます。

 と、後ろから小さく聴こえる低い鳩の鳴き声。

 そしてーーー


「右大将邸で遊女に扮しての演奏は大変見事でしたね…。」


 考える間もなく、振り返っていた。

 少納言は御簾を隔ててまだ先ほどの火桶の傍に座ったままのようだ。

 しまったと思った瞬間、冬の冷気よりも冷たい何かが体を凍らせる。

 御簾に隔たれ、顔さえ朧げな相手。常人にはとても相手の呟きが聴こえる距離ではなかったのに!

 胸に手を当て激しくなる動悸を抑えこみ、瞬時に考える。御簾内よりこちらの方が暗いから、振り返ってしまったのは見えなかったかもしれない。

 このまま何事も無かったように出てしまおう…。

 ところが、また聴こえるくぐもった笑い声。


「やはり貴女は特別な耳をお持ちのようだ…。」


 扇で口元を覆いながら、少納言は優雅に御簾をかき上げこちらに歩いてくる。そして妻戸を開いたまま、金縛りにあったように動けなくなった私の耳元に抗えない強制力を持った声で囁いた。


「お話を聞かせてもらえますね?」




 ****




「可哀想に。貴女は二の宮様に利用されているんだね。」


 そう言われて、私は二の句が継げなかった。


 先程座っていた火桶の元に強制送還され、あくまでも琴奏者の打ち合わせのようにして、少納言は器用に琴を奏でながら、質問を重ねてくる。


 私の耳の事。二の宮との関係。なぜ右大将邸で遊女に扮して居たのか。


 どれも核心をつく、答え難い質問ばかりだった。

 私は聡耳の事を掻い摘んで話し、それを二の宮に知られて、バラさない代わりに二の宮の男色説を払拭する手伝いとして恋人の振りをしていたと説明した。

 東宮退位の陰謀や、朝顔と大江の事など、重要な部分は上手くすっ飛ばし、我ながら上手い説明だったと自分を褒める。

 けれど…


「可哀想に。貴女は二の宮様に利用されているんだね。」


 甘い目元を悲し気に歪ませ私を見つめる少納言。


 利用…。


 十三の徽の間を滑らかに動く少納言の指先を見つめながらその言葉を反芻する。

 確かにそうだ。私はこの男にそう説明したし、改めて過去を振り返ればそうとしか言いようがない。でもこれは自分で決めてやって来たこと。堀川様や女御様…それに二の宮様を守りたくて自分で決断した事。そう思うのに傷ついている自分がいる。


 琴の旋律が物悲しいものに変わる。低い声が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「聡耳の貴女を傍に置けば、何かに使えると思ったんだろうね。男色説の払拭なんて、私にはこじつけの理由にしか思えない。宮は所詮貴女の聡耳の力が欲しかっただけだろう。盗み聴きとか…色々やらされたんじゃないかな?」

「いいえ…。」


 心配そうに、それでいて何処か探るような瞳。動揺が伝わらないように、言葉数少なく答える。


「ふうん?…でも、現に貴女のお陰で右大将邸での危機は回避出来たのだし。二の宮様はさぞお喜びになったろう?」

「いえ…それ以来まだお会いしてなくて…。」

「そうなのかい?それは酷いね。体を張ってまで助けたのに…。最近貴女が桐壺に召されなくなったと女房達が喜んでいるのを聞いていたけど、やはり二の宮様は貴女を使い捨ての道具としか思っていないんだね。」

「いえ、それは私がこの所忙しくてお誘いを断っているのが原因で…。」

「でも二の宮様自身は何も言って来ないのだろう?文でもくれるのかい?」

「いいえ…。」


 たたみかけるような少納言の言葉に、音色に、不安が掻き立てられる。

 確かに二の宮様は何も言って来ない。鈴丸君も途中からは宰相中将の御使いとして来ていた。やはり宮様は私の事など何とも思っていないのだろうか。


 朝顔の件が片付いたから私はもう用済み?


 自分から避けていた癖に、いざ会わなくなってから募っていく不安に気づかないようにしていた自分。

 今までなら何とも思わなかった。聡耳の利用価値も分かっているつもりだし、反対に気味が悪いと拒絶される可能性も分かっていた。

 でもそんな事を忘れるくらい彼の方の傍は心地が良かった。耳を使い過ぎた時はとても心配してくれたし、右大将邸に乗り込んだ時も危ないからと怒ってくれた。優しさを沢山貰った。

 この想いを自覚したからこそ、宮様の心がひどく気になってしまう。

 私はただ利用されていただけなのかな…。


 暗くて寒い…。


 耳を酷使した後いつも見る夢のあの暗闇に戻った心地がする。救いを求めて足掻くが、闇を払う龍は見えず、少納言の琴にますます暗闇に引きずりこまれていく。


「貴女との噂のお陰で今や彼は都一の婿がね。身分の違う貴女は当て馬に過ぎないと皆嗤っている。」


 少納言の言葉は、獲物に巻きつく蛇のようにじわじわと心を絡め取る。


 やめて。そんな事言われなくたって分かってる。


「そんな風に貴女が貶められていてもあの方は何もしてくれない。つまりは、貴女の事など、どうでもいいと思っているのでは?」


 やめて。


「身分が低い、しかも異能の女など、利用するだけして、捨てればいいと思われているんですよ。」


 やめて。心が爛れていくーーー


 聴きたくなくて、両手で耳を覆い目を瞑り俯く。

 けれど悲しいかな、私の優れた耳は、手で塞いでいても悲しい旋律やくぐもった鳩の鳴き声、低く掠れたその声をひろってしまう。


「可哀想な貴女。私が貴女の支えになりますよ。」


 不意に、耳を覆った両手に、少納言の大きいけれど冷たい手が添えられる。



「少納言!!そいつに触るな!」


 広間の空気を一瞬にして凍らせる大音声。

 怒鳴っているのに低く痺れるような甘い声。

 それは私が聴きたいと願っていたあの人の声。


 驚きに固まる人々を尻目に、二の宮はズカズカと広間を横切りこちらへ向かってくる。

 あっという間に私達の前に来ると、私の手を掴み上げ無理矢理立たせる。


「うさぎ、来いっ!」


 考える間も無く、重い女房装束諸共引きずるように強引に引っ張られる。


「ちょっ!二の宮様?!」


 転びそうになりながらも後ろを振り返ると、ニヤニヤ顔の変態中将と、暗く微笑む少納言が見えた。



「……少納言殿まで出て来て、一体今度は何を企んでいるんです?貴方が出て来たとなると…。あの方も噛んでおられるのか?」


 突然の出来事にざわめく広間を尻目に、宰相中将は静かに問う。

 普段の婀娜っぽさは欠片も見えず、見たものを凍てつかせる絶対零度の形相と声音だった。

 そんな剣呑な雰囲気をふわりと流し、少納言は喉の奥で笑う。


「何のお話ですか?私は同じ琴奏者として因幡の君と打ち合わせをしていただけです。」

「…そうですか。帰って貴方の主に伝えて下さい。我々は全て知っている。これ以上の無礼は身を滅ぼすことになる。と。」

「さぁ、何の事やら分かりかねますが、全て知っているという割には余裕の無いご様子ですね。」


 そう言うと、余裕の笑みを浮かべて少納言は広間を去っていった。


 余裕が無い。確かにそうだった。

 朝顔も、右大将の件も無事回避し、事件は収束に向かっていると思った。しかし、少納言が出て来た…。


 まだ終わっていない。


 言い知れぬ不安から今すぐ少納言を捉えて、知っている事を吐かせたい衝動に駆られる。しかし、証拠も何も無い状況であの男が何かを喋るとも思えなかった。


「……喰えないおっさんだな。」


 無意識に握り締めていた掌に汗が滲んでいるのを見つけ苦笑する。

 とにかく、少納言の事を堀川殿や今上に報告せねば…。

 しかしその前にーーー


「うさぎを魔の手から救出にいかなきゃねぇ〜。」


 二の宮によって強制捕獲された哀れな子うさぎを観察…いや、助けるべく中将は足取りも軽やかに二人の後を追った。


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