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右大将邸突撃から一夜明けて、私は内裏には戻らず堀川邸に里帰りし、『聡耳』の使い過ぎによる体調不良と称して自室に閉じ籠った。
急に飛び出してきたのだから、早く麗景殿に戻らなければ迷惑をかけてしまうとは思うものの、昨夜の出来事が衝撃的すぎて心の整理がつかない。
朝顔の方はどうなったのか、私達が抜けた後の宴はどうなったのか、気にするべき事は色々あるのに、気がつけば二の宮様に触れられた事ばかりを思い出してしまい、一人のたうち回る有様。
あの場では、ああいう振りをするのが一番有効だった。
右大将の思惑を躱し、見事にアリバイを成立させたのだから。
二の宮様はどんな危機にも冷静に対処できるすごいお方だと改めて思う。承香殿の火事の時も、朝顔盗聴の時も、いつも素早く判断して無駄なく動いていた。
でもあの口吸いの意味は…?
外に居た偵察者には音だけ聞かせれば良かったのだから、あの口吸いは不必要な行為だったはず。
じゃあどうして…。
無意識に自分の唇に触れて感触を思い出そうとする自分にまた恥ずかしくなる。
宮様に返そうとして、褒美だから貰っておけと押し返された袿を手元に引き寄せ、そっと顔を埋める。
主を離れても香しく薫る梅花香に胸が高鳴る。
宮様は私の事をどう思っているんだろう?
もしあの場に居たのが私じゃなくても同じ事をした?
もしあのまま宮様が手を止めなかったら私達はどうなっていたのだろう?
不毛な疑問ばかりが際限なく湧いて来る。
宮様に一体どんな顔をして会えば良いのか…。
また桐壺で夜を過ごせと言われたら、確実に恥ずかしさで死ねる。それに、この想いを隠し通せる気が到底しなかった。
仮病2日目に突入し、あいもかわらず悶々から発狂の繰り返しを続けていると、堀川様からお呼び出しがかかった。
「おお、うさぎ!ご苦労だったな。体の調子はもう大丈夫かの?」
いつも傍に控えている父は今日は居らず、人払いされた居室に菩薩様のみが鎮座していた。
「あ、はい…。ご心配をおかけしました。もう…大丈夫です。」
菩薩顔で労ってくれる堀川様の目を見ることが出来ずに、私は俯き加減で答える。
だって、堀川様のあの何でも見通すような目を見てしまったら、私の不毛な思考も、必死にしまい込んである想いも全て見透かされてしまうような気がするのだ。
「ならば良いが…。あまり無理をせぬようにな。右大将邸でのあらましは、鴛鴦に聞いておる。」
どくりと血が凝ったように心臓が不自然に鳴る。
あらましって何を何処まで…?!
動揺のあまり、大量の汗が全身から噴き出る。
「朝顔の方も阻止出来たし、二人ともそなたを褒めておったぞ。よくぞ駆けつけてくれたとな。」
「…もったいないお言葉でございます。」
「とりわけ二の宮様は、そなたの体調を心配しておられた。聡耳を使い過ぎたのであれば、そなたを見舞って笛を吹きたいとまで仰せであったが…。」
「えっ!いえ!結構です!もうこの通り元気ですし、明日には女御様の元に戻りたいと考えておりました!」
お気持ちは嬉しいが、見舞いなどに来られればそれこそ逃げ場がない。まだ自分の心も定まらないのに、何が悲しくて宮様との遭遇を早めなければならないのか。
最近の過保護具合を考えると、このまま引き込もっていれば宮様は確実に押しかけてくるだろう。
とにかく内裏に戻り、今まで疎かにした分、麗景殿女御様に精一杯奉仕しよう!そうしよう!
少し二の宮様と距離を置いて、自分を取り戻すのだ!
そうと決まれば善は急げ。
私は藁にも縋る思いで、菩薩様に手を合わせた。
「あの、おじ様!お願いがあるのですが…。」
****
「……で、今日も例の宴の打ち合わせだから桐壺には来られないと?」
「はい…。そう言ってました。」
ここ数日恒例になった問答をあえて繰り返すと、鈴丸は目の前に座る存在に怯えながら恐る恐る答える。
鈴丸が怯える存在は、愛笛『虹蜺』の手入れをしながらも、血も凍るような冷気を迸らせている。
眉間に出来た渓谷が日に日に深くなっていく様子に、つい苦笑が浮かぶ。
「鈴丸、明日はどうか聞いたかい?」
「明日は…夜勤だから無理だと…。」
ビシリ…。
二の宮の涼しげな顔に青筋が浮かんだように見える。そろそろ我慢の限界が来ているようだった。
そして私も…。
突然だけれど、開けてはいけないという扉があれば、私は即開ける質だ。
来るなと言われれば全速力で近付いてあげるし、燻る火種があれば率先して煽る。
そんな私の眼前に明らかにそれと分かる逆鱗がちらついていれば触れるなというほうが無理と言うもの。
この数日間、言いたくて堪らなかったが、じっと我慢していた一言をついに吐き出す。
「んふふ。これはもしかしなくとも、見事にうさぎに避けられてるねぇ、二の宮?」
「煩い!」
二の宮は射殺さんばかりの迫力でギロリとこちらを睨めつけると、現実から逃避するように、また愛笛の手入れに没頭し始めた。
常人であれば、その殺気に恐れおののくところだろうが残念、私はもう慣れてるし、むしろ快感すら感じるから威嚇しても無駄というもの。
うさぎに避けられてるからってこうまで拗ねるとは、二の宮もずいぶん可愛くなったものだと、もっと逆鱗を突ついてやりたい衝動に頬が緩んでしまう。
右大将邸での一件以来、うさぎは何日か堀川邸に留まっていた。
『聡耳』を酷使した為、朝顔盗聴の時のように体調を崩したからと聞いたときは、今にも駆け出さんばかりに心配していた二の宮。その後、無事に麗景殿に戻って来たと聞いて、桐壺に招くべく、鈴丸を迎えにやったのだが、生憎夜勤だからと断られた。
今までこちらの都合で振り回していた手前、その日は引き下がったのだが、次の日も夜勤、その次の日も夜勤だと言う。
今まで他の女房に代わってもらっていた分なのだと言い訳するうさぎは、鈴丸の目から見ても明らかに挙動不審だったらしい。
二の宮も、あれだけ心配した相手なのだから、何かしら行動を起こしても良い筈なのに、終日不機嫌な様子で過ごすばかり。
うさぎと何かあったのか?と問うても、「何もない。」の一点張り。
そうこうするうちに、今度は東宮主催の管弦の宴の開催が決定し、うさぎは琴の琴の演奏者として指名を受けた。他に何人かいる琴奏者との打ち合わせや、合同練習などで昼も夜もあれよという間に多忙になり始めたのだった。
二人の間に何かあったことは一目瞭然なのだが、その内容に関しては肝心の二の宮が貝のように口をつぐんでいる為分からない。
どうせくだらない内容だろうからと、しばらく放って置いたのだが、流石にこうまで長引くと心配になってくる。
二の宮はまぁ良いのだが、会わずにいる分、様子の分からないうさぎが心配だ。
ーーーふと思い出される猫目の女。
****
それは、右大将邸で二の宮がうさぎを連れて宴から離席した後の事。
貴族達の間を回り、一頻り情報操作を終え、休憩がてら簀子に座り、酒を片手に一人で満月を見ていた時だった。
チリン。
と涼しげな鈴の音と共に近づいて来る猫目の女。隣に座るやいなや首に腕を回して、しな垂れかかってくる。彼女は異国風の薫りを漂わせ、耳元に唇を寄せ囁く。
「右大将の懐に薬が。唐渡りの即効性の高い媚薬でしたわ。」
驚いて思わず女の方を向くと、口吸いが出来そうな程近くにある女の蠱惑的な笑み。
私も微笑み返しながら女の腰を抱き寄せ、開いた扇で自分と女の口元を隠し、周囲の貴族達の目から遮る。
読唇術など出来るのは堀川の聡目くらいだろうが、何を話しているか悟られないように念をいれる。
はたから見れば濃密にイチャつき、一夜の愛を囁きあっている遊女と美しい公達の図だろう。実際は、その光景に見惚れている者達が想像だにしない物騒な会話が二人の間でなされるのだが。
「媚薬だと…?どうやって調べた?」
「ふふ。右大将に飲ませてやりましたの。」
「すごいな…。で、その右大将はどうした?」
「鼻息荒く迫ってきたので、馴染みと思われる女房に押しつけました。今頃は良い夢を見ているかと…。」
「そうか…。報告ありがとう。」
女の腰から手を放し距離をとり、思考の海に沈む。
媚薬か…。
やはり右大将は二の宮と自分の娘との既成事実を狙っていたらしい。あの大人しい気性の男らしからぬ行動。
誰かに唆されたか?
第一、唐渡りの媚薬など普通に生活していて入手出来る物ではない。右大将を唆し、媚薬を渡した黒幕がいることは間違いないだろう。
堀川殿にはこの女から直ぐに報告が行くはず…。私はもう少しこの場で右大将の最近の動向など聞き込んで、黒幕の正体を調べて行くか…。
女につがれた酒をあおり、長い息を吐く。
それにしても、媚薬ならばこの際、意気地なしの二の宮に飲ませておいても良かったか…。
そうすれば今頃うさぎを押し倒して想いを遂げていたかも…。などと、二の宮が知ったら斬り殺されそうな事を考えていると、
チリン。
耳元に鈴の音と女の吐息が再び触れる。
「うさぎを宜しくお願い致しますわね。あの子、時々自分を顧みず突っ走る事があるから心配で…。今日だって、宮中で右大将が宮様に何か薬を飲ませようとしていると聴いて、居ても立ってもいられずここに。
危ないから残っていろと堀川様も散々説得したんですが、聡耳の自分ならきっと何かの役に立つと言って聞かなくて。」
「うさぎらしいね…。」
思わず笑みが零れる。
「ええ、困った子です。ですから、危ない事をしないよう、聡耳も使い過ぎないよう気をつけてやって下さいまし。まぁ、申し上げなくとも二の宮様も貴方様も既に良くご理解頂いているようですが。」
女は今までの蠱惑的な笑みとは違う、姉の様な慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「うさぎとはどんな知り合いなのかな?」
「古くからの友人ですの。」
多くは語らず意味深に微笑む女。さらに掘り下げようとした言葉は、女の溜息に遮られた。
「それにしても…私とこんなに密着して平静でいられる男がいるなんて癪だわ。」
猫目の女の心底悔しそうな顔に、私はつい声をあげて笑ってしまったのだった。
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回想から現実に戻ると、笛の手入れをしている筈の二の宮は、手を止めたまま宙を睨んで固まっている。
気にしてないフリをしてもバレバレだ。全く…。
思わず苦笑いが込み上げる。
猫目の女との約束を果たすには、ひとまずこの強情な幼馴染をどうにかして動かさなければだな…。
「ん〜、じゃあ私はもう帰るよ。二の宮も、待ってたってうさぎは来ないんだから早く帰りなよ〜?」
「別に待ってなどいない!!」
「はいはい〜。そうだ、ついでにうさぎの様子でも見て帰ろうかなぁ。確か打ち合わせは仁寿殿でやってたんだったか…。」
「.…中将待て!」
「なんだい?」
「……俺も行く。」
釣れた釣れた。
あまりにも思惑通りに動く二の宮に、思わず吹き出しそうになる。
そんな事をしたらまた臍を曲げかねないので、にんまり顔を見られないように慌てて扇で隠したのだった。




