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床に叩きつけられた杯は、見るも無残に割れ、並々注がれていた酒は床に飛散した。
「失敗しただとっ?!」
「申し訳ございません。」
丸めた頭の先まで赤く染め、怒りを露わにする入道に、不本意ながら平伏する。
怒鳴りたいのは私の方だ。
骨を折って朝顔を嗾け、按察使大納言家の女房を買収し、二の宮が東宮妃内定者に妻問いをしたと噂を流す手筈まで万全の計画だったというのに。
「按察使大納言家に向かった朝顔でしたが、警備の数が多い事に気付き、遠巻きに牛車を走らせながら観察していた所、堀川の聡目に誰何されてしまい、侵入を断念したそうです。また、内通者からの文では、当日いきなり警備が増え、姫もその日は寝殿に移されたとの事でした。」
「聡目が出て来たということは、堀川めに情報が漏れていたということか…!」
悔しいがそういうことだ。
一体いつ、何処からか漏れたのか見当も付かないから腹立たしい。
体をぶるぶると震わせ頭から湯気も出んばかりに怒る入道に、半ばヤケになりながらもう一つ悪い報告を重ねる。
「そして、もう一つ用意していた罠の方も網を喰い破って逃げられました。塒ねぐらを離れ、右大将邸の宴に参加した二の宮を其処の姫にあてがう予定でしたが、遊女の乱入により失敗に終わったとのこと。」
接触を図っていた公卿の中の一人の催す宴に、二の宮が顔を出すと聞いて、朝顔がダメでもこちらで確実に仕留められるとほくそ笑んでいたのに。
唐渡りの媚薬を使って強引にでも既成事実さえ作れば、翌日の宮中は何もしなくともその話で持ちきりだった事だろう。そこに私達が、尾ひれを付ける。
『右大将は姫を東宮に差し上げるおつもりだったらしいが、二の宮様に強引に奪われたらしい…。』
『最近二の宮様は東宮を蔑ろにし過ぎているのではないか?桐壺に夜毎女房を召し出すなど、過ぎた行いではないか。』
噂は噂を呼び、東宮と二の宮の対立という図式を人々に植え付けることが出来ただろう。
それなのに…。
「…遊女だと?たかが遊女ごときに何が出来るのだ?!それも堀川の差し金か?!」
怒りの為かはたまた酒の所為か、血走った目で睨まれ、私は言い淀む。
時間が足りず、手下を右大将邸に潜り込ませられなかった為、詳細が分からないのだ。
「それがまだ何とも…」
「おそらくそうですよ。二の宮を助けた遊女、変装していましたがあれは今二の宮と噂になっている麗景殿のうさぎという女房でした。」
人払いしていた筈の部屋に第三者の声が響く。
「成雅様…。」
声の主は大江の幼馴染みの男だった。男は颯爽と歩み寄って来て、入道の前に膝をつく。
「珍しく二の宮が宴に来るというので、昨夜は私も参加していたのですよ。」
そうして男は、宴で起きた一部始終を話した。
「大江が仕掛けた罠に気づいていたなら初めから参加を断るはず。後から罠に気がつき慌てて助けに来たと考える方がしっくりくる様子でした。…私が思うに、あの女房が全ての鍵ですね。高倉様、二の宮を引っ張り出す事が出来るやもしれません。私にお任せ頂けますか?」
自信に溢れたような余裕の笑顔をする男を入道は顎髭を扱きながら睨めつける。
いつもながら、何を考えているのか分からないこの幼馴染の発言に、背筋を汗が伝う。
この男はいきなり現れて何を言っているのか。
パシン!
入道は檜扇で脇息を叩くと、醜悪な笑みを浮かべた。
「…よかろう。計画は最終段階へ移す。大江は成雅を補佐しろ。」
「……畏まりました。」
私は渋々首を垂れた。
「どういうつもりです?」
入道の御前を辞して、ひと気の無い渡殿で成雅を睨みつける。
「君ばかり頑張らせる訳にはいかないからね。」
成雅は飄々とした調子で覗き込んでくる。
「二の宮と女房の噂を耳にして以来、僕なりに色々調べたんだ。」
雲居に隠れていた月が顔を出し、成雅の顔を照らし出す。人の良い笑顔の奥に煌めく無慈悲な色。
「あの女房、耳が恐ろしく良いんだと思う。流石は聡目の娘。化け物一族だな。」
虫も殺さぬ顔をして、次の瞬間には刃を突き立てる。
つくづく敵に回したくない男だと感じる。
「耳…。では、何処か見えない所から聞かれていたという事ですか。それだと今後宮中では滅多なことは話せませんね。筆談に切り替えなければ…。」
「そうした方が懸命だね。しかし、一先ず僕に任せておくれ。君はもう堀川に監視されているから動かない方が良い。高倉はもう失敗を許さない。僕がきっと二の宮を引き摺り出して最後の仕上げまでやり遂げてみせる。」
狂気に歪むその笑顔。
子供の頃のあの優しかった成雅はもう居ない…。
私達は変わってしまった。
狂ってしまった。
欠けてしまったーーー
空に浮かぶのは一見何の不足も無く、満たされているように見える月。
けれど、望月を過ぎたその月は、どんなに丸く見えていても欠けているのだ。
静かに輝く歪な月。
まるで今の私達のようだと、ぼんやり思った。




