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今日は例の望月の日。
鴛鴦や、堀川様の差配により、按察使大納言家の警備は万全。念の為、父上も出動し『聡目』を使うので、万が一にも間違いは起こらないだろう。
けれど、大丈夫と分かっていても落ち着けるはずも無く、仕事も手につかないまま気がつけば茜差す時刻となっていた。
鴛鴦達はもう出発しただろうか…。
我が女御様から叔母にあたる中宮様への文遣いの道すがら、渡殿から見える夕暮れの空に月を探す。
二人は今宵、右大将邸で開かれる月見の宴に出席の予定だった。
二の宮様は激しく嫌がっていたけれど大丈夫かしら…。
そんな風に考えながら歩いていると、「右大将」という言葉が聴こえてきて、つい声のする方向を探る。
壺庭を挟んだ向かい側の透渡殿に、二人の公卿が佇んでいた。
私は歩調を緩め、耳を澄ませる。
「今までどんなに誘っても梨の礫であった二の宮様が、まさか本当にお越しになるとは思いもよらなんだ。」
「右大将殿が羨ましいのぉ。今頃最後の準備に大忙しだろう。」
「今や都一の婿がねだからな。ずっと男色だからと諦めていただけに、麗景殿女房に入れあげていると聞いた途端、皆血眼だ。」
「きっと女に対する免疫がなかったんだろうて。…大将殿も、一度でも姫に逢わせれば必ずや情を移してくださるだろうと申しておった。」
「しかし、あのお堅い宮をどのように姫と逢わせるのか…。」
「そこはそれ、とある筋から唐渡りのよく効く薬を貰ったと大将殿が興奮しておったわ。」
「成る程…それを上手く使って宮様を姫の寝所に押し込めば…」
老成の公卿らは檜扇の陰で下卑びた笑いを零しながら去っていった。
緊張と驚きで私の背中を冷たい汗が伝い降りる。
やられた!
朝顔の君が失敗しても、敵が在らぬ噂をたてるかもしれない事を警戒してわざわざ右大将家の宴へ出席し、アリバイを作ることにしたのに、そこにすら罠があるというのか。
いや、もしかしてこれは罠などではなく公卿達の純粋な婿取り合戦なのかもしれない。でも、右大将へ薬を渡したという不気味な存在…。
薬とは何の薬だろうか?婿がねと言っているのだから、まさか毒薬ではないだろうが…。脳裏に大江の澄まし顔がチラついて嫌な予感しかしない。
もう宮様も中将様も右大将邸へ出発してしまっただろう。文を出すか?しかし、他人に見られてもマズイ。何とか宴へ乗り込む方法はないか…。
とにかく堀川様に相談せねば…。
私は重い女房装束を引きずりながら精一杯の速さで先を急いだ。
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日もとっぷり暮れ、美しい望月が冬の澄んだ空に浮かぶ頃。
「なんだ?お前達は。」
怪訝顔を向ける右大将邸の門衛の前には、被をかぶった壺装束の十数人の女達。
「はい、あたくし達は旅の遊女一座でございます。こちらのお邸で雅な月見の宴をなさっていると聞き及んで推参いたしましたの。」
よく通る美しい声で話した代表らしき女は、前に進み出て被から僅かに顔を覗かせる。
篝火に照らされたその妖艶さに門衛は固まってしまった。
「実はあたくし達、宰相中将様にお誘い頂きまして。中将様にこれをお渡しいただけますか?そうすればすぐ分かっていただけるかと思いますので。」
そう言って女は、蒔絵の美しい盆に乗せた雪うさぎを差し出した。篝火で煌めく猫のような瞳、鮮やかな唇に、思考能力をもぎ取られた門衛はただ応えるしかなかった。
「…と、殿にお伺いを立てるゆえ、暫し待て。」
「ありがとうございます。」
その微笑みを得ることが出来ただけで、この仕事をやっていて良かったと妙な感慨に浸る門衛であった。
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おかしい。
鴛の中将はなみなみと注がれた酒を少し口に含んだ。
横目で隣を見やると、産まれたての赤子を世話する乳母が如く、二の宮にへばりつく右大将。
少しでも宮の盃に余白が生まれるとすかさず酒を注ぎ満たす。
宮のげんなりした様子も気にせず、あれやこれや話しかけては一人で笑っている。いつもの物静かな右大将とはかけ離れた姿。
二の宮は確かに今宵の出席者の中で一番高貴な身分ではあるが、この一瞬たりとも下へ置かぬ異常なまでの持て成しぶりには、もはや警戒心しか湧かない。
朝顔事件に備えてアリバイを作るために貴族達の宴に出る事を決め、多数招待された中で一番静かに過ごせそうだからと、ここを選んだはずだったのに。
やはり年頃の姫の居る家に来たのは間違いだったか…。
うさぎとの噂以来、都一の婿がね認定されている二の宮は、年頃の娘がいる親達の垂涎の的。そういった事に関心の無さそうな右大将だから大丈夫だろうと高を括っていたが、甘かったようだ。
右大将は傍からみても異様なほど落ち着きがなく、必死に何か隙を伺っているようだった。
何とか姫の寝所へ押し込みたいんだろうが…。
バレバレの思惑に込み上げる苦笑いを酒に流す。
どうする。
気分が優れないと言って帰るか。
しかしそれでは来た意味が無くなるし、右大将がここぞとばかりに休息用の部屋などと偽って、姫の寝所へ押し込む危険性もある。
どこに打っても悪手となりそうな碁の盤面を睨むような気分でいると、邸の家令であろう老成の男が何かを手に静かに寄って来た。
「殿…と宰相中将様もおいででしたか、丁度良かった。実は旅の遊女一座が推参しているのですが、宰相中将様のお馴染みとの事で、こちらをお見せすれば分かっていただけると…。」
家令が差し出したのは蒔絵の盆に乗った小さな雪うさぎ。
起死回生の一手が打てるかもしれない。
思わずにやつく口許を扇で優雅に隠す。
「おぉ、あの一座ですか。右大将様は幸運の持ち主ですねぇ。今来ている一座を宴に上げると、良い事があると専らの評判なんですよ。断って他の邸に行かれては勿体無いですから上げてやってはいかがですか?」
そんな一座など知らないが、さも最もらしく理由を作る。
「ほぉ。それは良い…。推参を断るのも不粋ですしな…。おい、許すと伝えろ。」
嘘とは知らず、満足気に顎髭を撫でる右大将。
ちらりと二の宮を見ると、やはり雪うさぎの意味を解したようで、家令の去って行った方向を凝視している。
愉しい事になりそうだ…。
たった一人の女の登場で、先程までの苦しい盤面から一転、活路に溢れる盤面へと変わる。
んふふ。とつい、笑い声が漏れ出る。
今の二の宮ならば、私の手助けなど不要かもしれない。
恋路を邪魔するのも不粋だし、ここはお手並み拝見といこうか…。
心に余裕が出来た所為か、血の巡りと共に酒も廻る。
傍に置かれた雪うさぎを撫でれば冷んやりと、酒に火照った掌を優しく癒してくれたのだった。




