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 二の宮様の竜笛に、私は琴の琴で合わせる。

 夢の中のあの暗闇で聴いた時も、慈雨のような心に沁み入る音だと思ったが、こうして現実に聴くと、その迫力に肌が泡立つ。


 二の宮様の竜笛は『虹蜺(こうげい)』という銘を持つ名器。日々の研鑽に裏打ちされた技巧で、地を這うかと思えば遥か高みへ昇りつめるそれはまさに龍。

 そして虹蜺の名に相応しい、なんと色に溢れた鮮やかで豊潤な音だろうか。


 琴を弾きさして音色に聴き入る。

 途切れる事なく美しく連なる音は、遥か天上を優雅に揺蕩(たゆた)う龍さながら。息長(おきなが)の民にも劣らないのではと思うほどに長く深く続く息がそれを可能にしている訳だが、いくら名器だからとて、息の長さまでは変えられない。それは長い年月をかけて、弛む事なく鍛練したからこそ得られるものだ。

 宮様は本当に笛がお好きなのだわ…。

 煌々と輝きうねる虹蜺の音色にしばし身を委ねていると曲が終わり、低い声が響く。


「どうした?まだ辛いか?」


 気遣うように覗き込んでくる宮様へ私は微笑む。


「いいえ、宮様の音色に聴き惚れておりました。その神さびた音色は、名器に認められた証。宮様の日々の弛まぬ研鑽の賜物と存じます。私も精進せねばと思いました。」


 私の心からの賛辞に宮は目を瞠る。


「そんな風に他人に言われたのは初めてだ。皆、宮様だから上手いとか、虹蜺だから凄いとしか言わないからな。」

「…そうなのですか?いくら名器だからといって、誰でも素晴らしい演奏が出来るわけではありません。奏者の真摯な想いがあって初めて名器は応えてくれるんですから…。」


 小首を傾げる私に宮様は困ったような苦笑を浮かべ、つと、私の髪を耳にかける。


 不意打ちだ。

 これは完全に飼い兎と思われている?!

 微かに触れられた耳は熱く、湯気も出んばかり。


「もう充分聴いただろ?次はお前の番だ。」

「は…い。」


 私は熱を誤魔化すように、琴を膝に乗せる。冷んやりとした重みが、波立った心を鎮めてくれる。

 息を深く吸い、ゆっくりと吐き出す。


「この琴は、銘を『蓬莱(ほうらい)』と申します。師より受け継いだ名器にございます。」


 宮様はまたも目を瞠る。名器ながら、公の場で演奏したことがなく、世の噂にもならなかったわけだから、驚くのも無理はない。


「私もそう短くはない年月を『蓬莱』と過ごして来ました。私は人より優れた耳を持っていますが、だからといってそれだけで優れた演奏が出来るわけではないのです。今までの研鑽の日々に『蓬莱』は応えてくれていると信じて弾いています。」


 静かに絃を弾く。空気を震わせる重低音。音の波紋を感じながら、自身の魂を塗り込むように指を滑らせる

 。

 曲は『大胡笳(おおごか)』ーーー


 宮様の演奏に刺激を受けたこともあり、私は取り憑かれたように音を求めていった。十三の()の間を行きつ戻りつ指を滑らせ、魂の震えるままに、指を震わせ音の波を創る。その波間を撥ねる魚のように、また、揺蕩う海松(みる)のように弾く。(いわお)の様な重厚な低音から、甘く切なく変化する高音。散りばめては集め、重ねながら幽玄の世界を創り出す。


 最後の一音が消え、茜の空間に静寂が降りる。


「すごい…。」


 宮様の目は潤み、声は驚きの為か掠れている。


「海を渡り山を越え、遥か異国の桃源郷へ誘われたような心地だ。」


 私はその感想に満面の笑みを浮かべる。

 常ならざる世界へ誘う幽玄の音。それが『蓬莱』の音色だからだ。


「昨夜、聡耳だから上手いだろうなんて言ってすまなかった。蓬莱の音色も素晴らしいが、迷いなく滑る手の動きや音の強弱…とても一朝一夕で身につく物じゃない。俺も勝手な思い込みをする輩と同じだったようだ。」


 悄然とする宮様に、私は慌てて首を振る。


「大丈夫です。耳が良い方が有利なのは確かですから。」

「いや、本当にすまない…。」


 と、宮様は額を掻きながら吐息のような笑いを漏らす。

「何だか謝ってばかりだな。」


 困ったように眉を下げて微笑む宮様を見て、私はあることを思いつき、絃上に指を滑らせる。


「では次は催馬楽を…。私、宮様のその低くて甘い『蓬莱』のようなお声がとても好きなのです。許して差し上げますから、お聴かせくださいませんか?」


 上目遣いに冗談めかして言うと、宮様は驚いたような顔になり、甘く低い声で忍び笑う。


「それも初めて言われたな…。なかなか良い気分だ。」


 人懐こい柔らかな笑みのまま琴を促すので、私は絃を弾く。


 爪弾くのは『梅枝』


「なるほど、俺が鶯か…」


 宮様はまた面白そうに笑い、檜扇を膝に打ち付け拍子を取り歌いだす。


『梅が枝に 来居る鴬 や 春かけて はれ

 春かけて 鳴けどもいまだ や 雪は降りつつ

 あはれ そこよしや 雪は降りつつ』


『蓬莱』の音色と宮様の美しい声が茜差す室内に朗々と共鳴する。

 泡立つ肌はその全てで宮の音を感じ、高鳴る想いは琴に流れ音となり溢れ、宮に寄り添う。


 ああ、なんと満ち足りた時間だろう…。

 管弦の宴のように荘厳な音ではないけれど、今、この二つの音以外は全く必要がないと思える程見事に完成された空間。人の心なんて読めないけど、宮様も同じ気持ちでいてくれている事が手に取るように分かる。



 と、美しい時間をぶち壊すように、こちらに向かってくる無粋な足音が聴こえる。この浮かれたような足音は…


「んふふ〜。迦陵頻伽(かりょうびんが)が降り立っているというのはこちらかい?」

「違うから消えろ。」


 御簾と御簾の間に檜扇を差し入れ覗き込む満面の笑みに、氷の(つぶて)が投げつけられる。


「二の宮ばっかり楽しんでズルいよ〜!君らがお楽しみだった間に私は頑張って仕事してたんだよ?!私も混ぜてよ〜!」


 相変わらず御簾の隙間から悲しげな声を出す変態中将。

 と、ぼそりと呟く一言。


「白菊の正体も分かったのに…。」


「本当ですか?!」


 私は『蓬莱』を抱えたまま身を乗り出す。


「…?なんだ?」


 聴こえなかった二の宮様は怪訝な顔を向ける。私は瞬時に周りに他人が居ないのを確認し告げる。


「白菊の正体が分かったと…」

「なんだと!おい変態!それを早く言えよ!!」


 氷の礫から一変、火桶でも投げつけんばかりの剣幕。


「ひどいよ〜。私は昨夜から寝ずに今までずっと堀川殿の手下としてこき使われていたんだからね〜!」


 ちょっとくらい優しくしてくれたって…とぶちぶち言いながら入ってきて、背中を丸めて火桶の前に座り込む。


「はぁ、疲れたなぁ〜。二人はあれから共寝して心身共に元気なんだろうけど…」

「共寝なんてしてませんっ!」

「……。」


 即座に否定する私と、何故か彫刻のように沈黙する宮様。それをみた中将は、さっきまでの悲壮感は何処へやらのキラキラ笑顔を向けてくる。


「えっ?!なになに?八晩も二人きりで居て、何も進展しなかった意気地無しがついに…?!」

「ち、違う!!何もしてない!」

「宮様…?」


 慌てふためく宮様に今度は私が怪訝な顔を向ける。


「違うんだ!また具合が悪くなったらと心配だったから、お前が寝入った後もしばらく見ていたら、俺も猛烈に眠くなって…気がついたら少し横で寝てしまっていただけだから!」

「それ…もしかして三条のおば様は…」

「あ?ああ、三条がお前の様子見に来て、俺が一緒に寝てるのにビックリして声を上げたところで俺が起きた。もちろん何にもないって言ってあるぞ!」


 慌ててまくしたてる二の宮様に中将は明らかにがっかりしたような溜息をつく。


「なぁ〜んだぁ…。やっぱり意気地無しか。期待して損したよ。」

「体調の悪い女に何かするほうがオカシイだろ?!」

「…君、本当にそれでも二品親王(にほんしんのう)なの?」

「そこ関係ないだろ!!」


 ピーチク騒ぎ合う鴛鴦達を余所に、私は必死に考える。


 何も無かったとはいえ、同じ御帳台で眠った…。

 さらにマズイのは三条のおば様に目撃された事。

 あの噂好きのおば様の事だ、今頃は麗景殿は勿論、堀川様や父上にまで知れ渡っていることだろう…。


 婿取り前の清らかな乙女として、身内にそんなあらぬ誤解をされるだなんて恥ずかしすぎる…!!

 私は思わず頭を抱えてしまった。


 こんな生活ダメだ!このまま桐壺に通い続けるような昼夜逆転の生活じゃ、女御様へお仕えするのもままならない。

 何より…絶対に結ばれないと分かっているのに、制御できない感情が芽生えそうで怖い。

 何としてもこの事件、早期解決して鴛鴦から離れなきゃ!!

 並々ならぬ決意の元、私は衵扇で床を打ち鳴らした。


「はいはい!中将様!白菊について報告!私の人生かかってますので!」


 二人は顔を見合わせたかと思うと吹き出し、私にギロリと睨まれ口を噤んだ。


「んふふ。うさぎは怒ると怖いねぇ。では私が苦労して集めた情報を披露しよう。」


 中将が得意気に語った内容はこうだった。


 今朝私が倒れた後、参内してきた堀川様へ盗聴の内容を報告したところ、堀川様は傘下の公卿へ次々と遣いを出した。

 公卿達の姫の中に、白菊と呼ばれる者はいるか。もしくは白菊に例えられた懸想文を貰った者はいないか。

 それを万が一他人の目に触れても分からないように暗号文にして出したそうだ。

 すると、ある公卿から心当たりがあると返事が来た。


 按察使大納言の大姫に最近、姫を白菊に見立てた懸想文が何度も届いていたそうだ。姫は東宮更衣として入内が内定している身であるし、差出人は不明だったこともあり、姫には取り次がず仕舞いだった。ただ、文には素晴らしく馨しい梅花香が焚きしめてあり、並々ならぬ身分の方からの文ではないかと、大納言の耳にも報告が入っていたとの事だった。

 おそらくその梅花香は、二の宮の直盧から盗られたものだろう。

 朝顔の君は畏れ多くも東宮妃候補の姫を狙っていたのか…。しかも二の宮のふりをして。


「これが本当に東宮退位に関係しているのでしょうか?私には二の宮様を陥れる計画にしか見えませんが…。」

「んー、東宮妃候補を二の宮が奪うという事で、東宮の権威を貶める事は出来るけどねぇ。それが直接退位に結びつくとは私にも思えない。」


 中将はこめかみを指で押しながら疲労を滲ませ溜息混じりに呟く。


 あれ?というか、ここまでの話で中将が大変だった部分があっただろうか…。

 堀川様が活躍した話にしか聞こえなかったが。

 胡乱な目で中将を見ていると、二の宮も溜息をつく。


「…まぁ、兄上が直接狙われるより、俺が狙われてる方が気が楽だ。」

「そんな風に言うのはやめてください!」


 紙屑を投げやるような二の宮の軽い言葉に思わず大きな声をあげてしまう。

 目を瞠る二人に、我に返る。


「大声を出して申し訳ありません。…朝顔の君の思惑も、大江の目的も分からないけど、とにかく今度の望月の計画は何としても阻止しなきゃ!」


 恥ずかしくて耳が焼き切れそうに熱を持つが、言い出したら止まらなかった。


「絶対白菊姫を守って、二の宮様を護るんです!そのために私に出来ることがあれば何でもします!」

「ありがとう…。」


 そっぽを向きながら小さく呟く二の宮様の耳も赤く、照れているのが分かり少し嬉しくなった。


「いやぁ〜、立春通り越していきなり夏来たみたいに暑いねぇ。」


 眠そうな目でハタハタと檜扇をはためかせる中将にーーー


「なんだお前まだいたのか。さっさと邸帰って寝ろ。」


 ーーー再び冬がやって来たのだった。



 ****



「計画はどこまで進んでおる?」


 灯台の灯を酒に浮かべながら入道は静かに目の前の女を見据える。


「はい、次の望月に決行致します。既に朝顔は(けしか)けてありますし、万が一鴛鴦がねぐらから動いた場合にも備えて他にも罠を張っております。事が成れば時を置かず例の噂を流します。」


 能面のように感情の読み取れない女は、やはり無機質な声で報告をする。


「ほう。ではこれで二の宮と東宮の不仲説は完璧に都人の心に根付くな。」

「はい。私や手下が地道に不仲説をひろめて参りましたが、これを機に一気に信憑性を増すことでしょう。」


 入道は満足気に肥えた頬を緩めると、目を鋭く細めた。


「…堀川の動きはどうだ?」

「聡目がおりますゆえ、私と朝顔が接触しているのは知られているかもしれませんが、何を話しているかまでは漏れていないかと存じます。」

「うむ、では望月に咲く朝顔に期待して待つとしよう。これが上手く行けば計画も最終段階を迎えることになる。」


 水面に浮かぶ灯ごと酒を飲み干す入道を見つめながら、能面の女は初めて表情を変える。

 何かを懐かしむように、ここではない何処かを見つめとろりと笑う。


「全ては我が君の御代の為に。」


 歌うように呟く女の顔には、灯の揺らぎに合わせて歪な影が踊る。

 踊る影の中でただ、女のーーー


 大江の瞳だけは妖しく煌めいていた。


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