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ーーーいずれの帝の御代であっただろうか…
藤の一門がこの世の栄華を極めていた時代
舞台は栄華の中枢『平安京』
人より少し優れた『耳』を持った娘の今は昔の物語ーーー
「みぃつけた!」
そんな私の声にはピクリとも反応せず、白と黒の丸々と肥えた毛玉は、孫廂から庭の雪景色を見ながらぬくぬくと日向ぼっこに興じている。
「またこんな所まで遊びにきて!きっと衛門の君が探しているわよ?」
「なぁご」
またお前か。
と言うように猫は面倒臭そうに返事をくれる。
周囲に人が居ないのを確認して、耳元の髪を少しかき分け、承香殿の方へ耳を澄ますと、やはりこの猫『納言』のお世話係りの衛門の君が懸命に探している声が聴こえる。
とは言っても、大声を出して走ったりなど、はしたない真似は決して出来ないので、いつもの通り雅やかな声で囁くように探しているのだが…。
納言は脱走の常習犯なのだが、「納言」と聞こえるからと、名前の由来にもなっている特徴的な鳴き声のお陰で、遠くに居ても私の『耳』が反応する。結果的に捕獲係となり、いつも衛門の君に感謝されているのだった。
納言は相変わらず冬晴れの陽の光をほこほこ浴びて丸まっている。黒い毛の部分が光を反射して、砧で打った上質な衣のようにつやつやと輝いて、つい撫でてしまう。
「お寛ぎの所申し訳ないけれど、ここは麗景殿、貴方の御座所は承香殿。ちょうど大役の勤めを果たし終えた所だし、送って差し上げるわ。」
大げさに溜息をついて納言を抱き上げると、温石のように温かく、ほのかにする陽だまりの匂いに先程までの緊張がゆるりと溶ける心地がした。
後宮に出仕して三月。
日々の勤めには慣れたが、先程のように、やんごとなきお方達の前に出るのはきっといつまでたっても慣れないだろうと思ってしまうのだった。
さかのぼること半刻前ーー
「うさぎに御使いを頼みたいの。」
私がお仕えする麗景殿の主である東宮女御は衵扇の影から艶やかな笑顔で仰った。
紫の匂のご衣装を優美に着こなしている我らが女御は、満開の藤の様な艶めかしい美貌の持ち主。同性の私さえもうっとり見惚れてしまうのだが…このキラッキラな笑顔はダメだ。
面白いイタズラを見つけた童のようなこの笑顔。加えて、今日に限って装束の襲色目を『雪の下』にせよという特別な指定があったのも朝からものすごく嫌な予感がしていた。
お仕えしてわずか三月の経験値だが非常警戒警鐘が頭の中で高らかに鳴りひびく。
「この文を先程作らせた雪うさぎと一緒に東宮様へ渡してほしいの。」
ああやはり…。
思わず引きつる口元は扇で上手く隠せているだろうことを祈る。
「畏れながら女御様、何度も申し上げておりますが、私のことはうさぎではなく、因幡とお呼びいただきたく…。」
父が因幡守の職を賜っているので、私の女房名はそれに因んで因幡としているのだが、女御はもちろん同僚の女房でさえ誰一人呼んでくれやしない。
「うさぎとあだ名される私が雪うさぎを運ぶなど、また東宮様や公達にからかわれてしまいます…。」
条件反射的に髪に手をやり耳が隠れているか確認する。
女性が髪を耳に手挟んで耳を出すのは、はしたないとされる中、私の耳は少し大きい上に長く、さらには前を向いて生えている所為で、どんなに頑張って隠しても髪からぴょこんと飛び出て、まるで手挟んでいるように見えてしまう。
そう、まるでうさぎのように…。
お陰で人よりだいぶ…いや、かなり良く聴こえる『聡耳』という能力があるのだが、私はそれが嫌で仕方ないのに。
「貴女をうさぎと呼んでいるのは、耳のことを貶しているのではないのよ?その耳はとても魅力的だし、黒目勝ちな瞳や、真っ白な肌も可愛いうさぎの様だから、愛しさを込めて皆そう呼ぶのですよ。」
女御様はいじけた私を優しく諭すように仰る。
「…それに最近東宮様は少しお疲れの様だから、この趣向の御使いを貴女がしてくれるととても喜ぶと思うのよ…。」
と衵扇を手元でいじりながら恥ずかしそうに呟く女御様。
あぁ、そういう事か。
確かに最近東宮はどちらの女御もお召しにならない日が多い。お会い出来ない日が続いてご心配なのだろう。
今東宮には二人の女御がいるが、何かと気苦労の多いこの後宮で寵を競い、皇子を授からねばならない使命を担う立場は本当においたわしい。そんな中、幸運だったのは、我らが女御は東宮を心からお慕いし、東宮もまたこの女御をとりわけ愛してくださる関係になれたことだろう。
そんな主の憂いを除いて差し上げるのも女房の勤めよね…。
いじけ心をくしゃくしゃに丸めて、心の中から放り出していると、
「それにね、公達はもう退出している頃だからきっと誰にも会わないわよ?」
と、やけに確信めいた女御様のお言葉。
仕方が無い。お仕えして三月、この方のこの笑顔に勝てた試しはないのだ。
丸めて捨てたいじけ心の代わりに、『観念』と『自己犠牲』という文字を溜息と共に心に貼り付ける。
「畏まりました。御文を届けて参ります。御前失礼致します。」
平伏して潔く降参の意を伝えると、
女御の満面の笑みを受けつつ、用意された文を持って廂へ滑り出た。
蒔絵の美しい黒塗りの盆の上に、これもまた見事な蒔絵の文箱。その隣には皿に乗った赤い目の可愛らしい雪うさぎ。それを届けるのは『雪の下』の襲を着たうさぎの君。
確かにこれは趣のある趣向だ。おそらく文の中にも雪やうさぎを掛けたお歌が詠まれているのだろう。
自分が趣向の一部などでなければ、
「流石は麗景殿東宮女御、風雅を解する素晴らしい女君よ!」
と皆と共に声を大にして賞賛させていただくのだが…。
耳が少しでも隠れるように髪を整えながら、もう何度目かになる溜息は白い靄となって風に溶けていくのだった。
東宮の御座所となっている梨壷の女房へ用向きを伝えると、「しばしそこに…」と留め置かれる。
待たされる間、聴くともなしに御簾の内に耳をそばだてると、衣擦れの音に混じって東宮のお声の他に公達とおぼしき声が微かに届く。
…誰もいないって女御様の勘、大ハズレじゃないですかぁ!
文を置き去りに今すぐ立ち去ってしまいたい衝動に駆られるも、御簾内から戻ってきた女房の先導であれよあれよと畏れ多くも直に東宮にお目通りする事になってしまった。
「うさぎ、久しいね。私の女御は息災かい?」
数日ぶりに聴く東宮の声は変わらず穏やかであるが、微かに掠れる声音に疲れの色が混じっているように感じた。畏れ多くてご尊顔を直接拝見することは出来ないが、恐らくはお顔にも疲労の色が見てとれることだろう。
「はい。畏れながら、女御は東宮様の御身をご案じになり、少しでもお慰めしたいと…御文をことづかって参りました」
雪うさぎの盆を、取次の女房が御前へ運ぶのを見ながら、ちらりと同席の男君達へ目をやると、なんと、噂に名高い鴛鴦の二人が座っていた。
鴛の中将、鴦の宮と呼ばれる二人はその美貌もさることながら、とある理由で宮中でも大変有名なのだ。そんな有名人を前に一介の女房が緊張せずに居られようか?
いや無理だ。
よりによって、こんな二人がいる時に来てしまうなんて…女御様をお恨みしたいが出来ないので、己の運の無さを呪ってしまう。
「これは可愛い雪うさぎだな。文も…女御の想いがとても嬉しいよ。それに、恥ずかしがり屋のうさぎまで来て励ましてくれたのだから私も気丈に居らねば一一一」
「そなたはうさぎと言うのかい?うさぎが雪うさぎを運んでくるとは、面白い趣向を考える女御様ですねぇ。んふふ」
畏れ多くも東宮のお言葉を遮って鴛の中将は好奇心満載に身を乗り出してくる。
中将様、食いつきが良いですね…。
私の存在はゼヒとも無視していただきたいのですが。
ヒクつく口許を衵扇で完全防御して目だけは何とかにこやかさを保つ。この三月で体得した奥義を見よ!
「ああ、うさぎは出仕して日が浅いから初対面かな?こちらは宰相中将殿。その隣が私の弟、二の宮だよ。」
苦笑いと共にご紹介くださる東宮様にお礼を述べ、私は改めてお二人に首を垂れる。どこに居ても目立つお二人なので、遠目で何度かお姿を拝見したことはあったが、これほどお側近くで観察…いや、お目通りするのは初めてだった。
好奇心満載の鴛の中将こと宰相中将は大輪の八重桜のように華やかなお姿なのに対し、庭の小石でも眺めているかのような無感動な目線の鴦の宮こと二の宮は、風になびく青柳のように爽やかで端整なお姿であった。
「お初にお目にかかります。麗景殿女御様にお仕えしております、『因幡』と申します。どうぞお見知り置きくださいませ。」
ついつい因幡の部分を強調して申し上げてしまったが、
「んふふ、『うさぎ』は本当に恥ずかしがり屋なんだねぇ。その愛らしいお耳が理由かな?」
と、聞いちゃくれない中将。
「しかし名前の通り可愛らしいことだ。これは東宮からの退出命令に背いて居座った甲斐がある。ねぇ二の宮?」
中将が愉しそうに話かけるも、二の宮は胡散臭そうな視線を中将へ投げている。というか、退去命令とはなんの事か…?
話の流れが読めず戸惑っていると、
「実は君が来る少し前に先触れが来てねぇ。その者が持ってきた文を見るなり東宮は私達を追い出そうとするものだから、何か愉しそうだと思ってのらりくらりと居座っていたのさ。」
んふふ。と特徴的な笑いでタネあかしを始める中将。
「全く、中将は変に鋭いから…うさぎが恥ずかしがるから、私一人で会って欲しいと女御から言われていたのに…中将、うさぎを余りからかってくれるなよ。」
「からかうだなんてそんな!私はただ可愛らしいうさぎを愛でていただけなのにねぇ。」
いや、中将様…。明らかにからかってましたし、そんな色気垂れ流しな目で見られても何も嬉しくないですし。
「今まであまりご縁がなかったけど、今度うさぎに会いに麗景殿に行こうかな?」
結構です。遠慮します。と言いたいのだが言えるわけもなく、奥義を駆使しつつここからの脱出方法を必死に考える。
と、パチンと檜扇で隣に座っている中将の膝を叩く二の宮。
「中将、良い加減にしろ。」
その声に、瞬時に肌が泡立つ。
頭で考えるよりも早く、耳が、体が、反応した。
「兄上、早く女御様へ返歌を。このままではこの女、中将の愛玩動物になってしまいますよ。」
泡立つ肌はそのままに、遅れてやっと思考が動き出す。
ああ、この声は、今まで山のように動かず喋らずだった二の宮様が救いの船を差し向けてくださったのだ。
「あ、ああ。そうだな。誰か硯を持て。」
サクサクと梨壺の女房達が動き、サラサラと女御様へのお歌を書き出す東宮様。
「二の宮~酷いじゃないか。……ん?というか愛玩動物なんて言ってる貴方のほうがもっと酷くないかな?」
「気のせいだ。」
そんな遣り取りを半ば放心状態で眺める私。愛玩動物だろうが何だろうが今はどうでも良い。
それより二の宮様の声…。
低く甘く響くその声は、まるで春の雨夜のよう。
しっとり包む雨の匂いに、何処からか仄かに忍ぶ甘い花の香りが心の底を甘く引っ掻き、ざわざわと乱される。
いつまでも聴いていたい、もっと何でもいいから喋って欲しい。というか、あの声で恋の歌なんか詠まれた日には噴死する!!
『聡耳』のお陰で昔から音の違いには敏感で楽器の音や人の声も印象的な音は一度聴いたら忘れない私。生まれてから17年間、特にこの三月は本当に沢山の音を聴いたが、こんなに心震えるほど印象深い声は初めてだった。
音に酔い、私は半ば放心状態で東宮様からの御文を預かり、退出の口上を申し上げ、まだ何かキャンキャン言っている中将様を無視して御簾の外へ向かう。
だから、無意識に遠雷の音を聴いて思わず近くの女房に言ってしまった。
「日暮れには雷が…今日は早めに蔀を降ろされたほうが良ろしいですわ…。」
「え?ええ…。そうしますわ。」
快晴の空を怪訝そうに見上げて不思議そうにしている女房を見て、そこでやっと我に返った。
しまった!雷はまだまだ遠く、普通の人には聴こえないのに!
変な風に思われないように、いつもは言動に細心の注意を払っているというのに…。
「た、ただの勘ですわ!気になさらないで!では失礼致しますわね…!」
慌てて言い繕い、脱兎の如くとはいかないまでも、品を損なわない程度には急ぎ足でその場を後にしたのだった。
そうして這々の体で麗景殿に戻ってきた所で納言を見つけた私は、東宮様からの大事な大事なお返事をすっかり忘れて、そのまま承香殿へ納言を届けに行ってしまい、後で女御様にこってり怒られたのであった…。
もっとも、その夜は東宮様から久しぶりにお召しがあり、女御様は雷が鳴るのも物ともせず嬉しそうに梨壺へ渡られたので、恥をかきながらも御使いをした甲斐があったなぁと幸せな気分で床に就いたのだった。




