変貌
「坂井さんじゃないですか…」
光一が、妻の留美と歩いている時だった。
いきなりすれ違いざまに声を掛けてきた男がいた。
「おお、大介か。久しぶりだな~」
坂井光一の、高校時代の後輩・梅宮大介だった。
男同士は久しぶりの対面に、簡単に近況を報告し合っている。
留美は、夫の側に立ったまま、大介を見ていた。
「じゃあ、店継いで頑張ってるんだ…」
理容師の父親が現役を退いて、今は大介が店を任されていると言う。
「でもね…なかなか大変なんですよ。今もモデルを探しに出てきたんですけどね」
競合店も増え、昔ながらの理髪店では経営も苦しくなっていると
そんな事を話しながら、大介は留美に目を向けた。
「お久しぶりです…相変わらずおキレイで…」
お世辞と思いつつ、留美はそんな言葉に微笑んだ。
「インターネットも利用したり…今日探しているモデルも
ネットコンテストに出すつもりなんですけどね…なかなかイイ人がいなくて」
光一は、可愛がっていた後輩の話を、熱心に聞いていた。
「せめて坂井さんの奥さんくらいキレイな人がモデルになってくれたら…」
冗談とも本気とも取れる大介の言葉に留美はドキッとした。
しかし…大介は本気だった。
「お願いです、モデルになってもらえませんか?」
いきなり真剣な顔で頼まれて、光一も留美もさすがに驚いてしまった。
モデルって言っても…二人の戸惑いを払うように、大介は説明し始めた。
「店でちょっと髪型を変えさせて貰って、デジカメで写真撮るだけですから
どこかに行って、大勢の前で何かをするとかそんなんじゃないんです」
大介の真剣な様子に、まず光一の心が動き始めた。
「まあ、それくらいなら留美でも出来るだろう…やってみるか?」
いきなり光一にそう言われて、留美は言葉が出なかった。
もともと、そんなに活発ではない留美は、こういう状況の場合
夫の光一に決定権を委ねている。
「キレイにして貰って、写真撮ってもらえばイイ記念にもなるしな」
光一のその言葉で決まってしまった。
大介が喜んで、早速、二人を店に案内すると歩き出した。
「じゃあ、早速始めさせて貰いますから…」
土曜日の午後と言う事で、店は数人の客と従業員で活気付いていた。
一番奥の空いている椅子に留美を案内し、座るように促した。
「それでですね…スタイルはこちらに任せて貰っていいですか?」
大介が店の若い子に命じて、留美はシャンプーされていたので
彼女には聞こえなかっただろう、光一が代わりに返事をする。
「ああ、それは構わないよ…」
手早く髪を洗った従業員は、留美の椅子を起こしタオルドライをしていた。
「どうしてもしたいスタイルがあって…ちょっと…ショートなんですけど切ってもいいですか?」
今度の言葉は留美にも聞こえた。いきなりそんな事を言われて留美は慌てた。
今まで、肩に付くくらいのボブスタイルばかりだった留美はショートなどした事がない。
「ショートか…いいんじゃないの?いつも留美は同じスタイルだしな」
光一は、そんな留美の心の中を知ってか知らずか嬉しそうに言う。
「お前のしたいようにしていいよ、モデルなんだから…任せるよ」
光一の言葉に、大介はなぜかほっとしたような顔をし、
そして留美の首にカットクロスを巻き付けた。
ざっとくしで梳かすと、いきなりカットが始まった。
肩に付くくらいのボブヘアが、どんどん切られていく。
横の髪が持ち上げられたかと思うと、耳の上辺りでジョキンと切られる。
15センチくらいある髪が、バサバサとカットクロスの上に落ちて来て
そのまま滑って下に落ちて行く。
(う、うそ…)留美の驚きがおさまらないうちに、もう次の髪がまた落ちて来る。
耳の上がすっかり数センチに切られて、大介のハサミは後ろの髪に移って行った。
トップから持ち上げてジョキン…またその下の髪…
やがて、一番下の髪も、生え際ギリギリにハサミが入る。
床は切り落とされた髪でいっぱいになっていった。
その様子を、近くで見ていた光一も驚いていた。
ショートとは聞いたものの、まさかこんなに短く切られてしまうとは…
しかし、光一より驚いているのは留美の方だった。
あっという間に、髪が切り落とされて、もう耳もすっかり見える長さになっている。
後ろは良く見えないけれど、手やハサミが当たる感触で、
やはり相当短くされてる事は判った。それでも、大介のハサミは止まらず、
残されていた反対側もあっという間に耳が見える長さまで切ってしまっていた。
「さてと…」
独り言のようにつぶやくと、大介は留美の前髪を持ち上げた。そして、
『ジョキッ…ジョキジョキ…』
軽く横分けにして、鼻先まで届きそうだった前髪が、
額の真ん中より上生え際からわずか2~3センチの辺りで切られてしまった。
ハラハラと、切られた髪が留美の目の前を降って来る。
その髪の雨が終った後には、顔をすべて出された自分の顔が鏡に映っていた。
「えっ…」
思わず声が出てしまった。まさか前髪までこんなに短くされてしまうなんて…
鏡越しに留美の顔を覗き込んでいる光一も、驚いたような戸惑った顔をしている。
留美は、カ-ッと顔が赤くなるのが判った。
そんな二人の様子にはまったくお構いもせずに、
大介は更にトップの髪を持ち上げては大胆にハサミを入れて切っている。
相変わらず、留美の目の前には切られた髪が次々に降って来ていた。
「はい、とりあえず終了…」
大介はそう言ってハサミを置いた。
留美の長かった髪は、すっかり短く切られ、トップはツンツン立ち上がっているし
耳もうなじもすっかり露になるほどだった。
「ずいぶん…切ったねぇ…」
光一が、ようやく口を開いた。
もちろん非難する気があった訳ではなくその髪型も、留美には似合っていると思った。
ただやはりかなり短い…。
(まあ、感じが変わっていいか…)
そんな新鮮な気持ちも光一の中にはあった。
留美は何も言わなかったがあまりの変身ぶりに、
気持ちが付いていかないままだったからだ。
でも、そんな二人の気持ちを見透かすように大介が言った
「ずいぶん…って、まだまだですよ」
「まだって…終了って言ったじゃないか」
光一が、黙っている留美に代わってそう言った。
「ああ、とりあえずカットはね…ハサミでの…」
笑いながら、大介は後ろの棚に歩いて行き、そこからあるものを取り出した。
「次はこれですから…まあ、見てて下さい」
大介が手に持っていたものは、バリカンだった。
もちろん、光一も留美も、それ自体は知っている…ただ…それでやると言うのか?
「おいおい…そこまでやるのか?」
光一は、今度は留美の気持ちの代弁ではなく、本心だった。
「だって、任せるって言ったじゃないですか…」
大介は、何を今更…と言うような戸惑いと、少しの非難を含んだ声で言った。
確かに…さっき、任せるよ、と言ったのは他でもない光一だった。
「いや…確かにそうだが…なあ…」
最後の「なあ…」は鏡に映る留美に向かって言った言葉だった。
留美も、出来る事なら、いや、今でもじゅうぶん短いのに、
これ以上短くするなんていや…そう言いたかった。でも…
自分では言えない事を、夫の光一に目で訴えたつもりだった。
しかし…留美の思惑とは逆に夫の口から出たのは
「まあ、いいか…最後まで任せるよ」
と言う了解の言葉だった。
「あなた…」
思わずすがるような声が出てしまった。
そんな留美に光一は仕方なそうに軽く頷いて見せた。
「じゃあ、続けますよ~」
了解が出て、ほっとしたのか、急に笑顔になった大介がバリカンのスイッチを入れた。
『ブィーーーン…』
大介が大きな手で、留美の頭をぐいっと押さえ付けるようにして下を向かせた。
そして、カットクロスを少し引き下げると、その首筋にバリカンを当てた。
ビクン、と留美の身体がわずかに震えたように光一には見えた。
『ジジジ…ジジ…』
首筋から素早く上に向かって動き出したバリカンは襟足の髪の下に潜り込み、
呆気ないほど簡単に髪を刈り始めた。
『バサバサ…』
さっき、かなり短く切られたと思った髪が、今度は根元から刈られていく。
カットクロスの上を背中を伝って滑っていき、床にそのままバサッと落ちる。
(下の方だけだろう…)
そう思っていた光一は、目の前の光景に目を疑った。
襟足から入ったバリカンは、止まる事なく、後頭部の真ん中まで上がっていき
そしてまだ止まる気配を見せなかった。
バリカンの動きと共に、留美の後ろの髪があっという間に刈られていった。
そして、つむじの方まで上がっていくと、ようやく動きを止めた。
その通った後は、わずか5ミリほどの髪が残されているだけだった。
「ず、ずいぶん上までやるんだな…」
動揺を隠し切れない声で光一が言った。もう留美は俯いたまま動かない。
「無難なスタイルじゃダメなんですよ、これからは…
かなり大胆なスタイルを打ち出していかないと」
大介はそう言いながら、さっき刈った部分の横にまたバリカンを入れた。
今度はさっきよりも動きが早くなった気がする。
『バサバサバサ…』
あっと言う間に刈られた髪が、すごい勢いで落ちていく。
そして、その後には、地肌が見えるほど短く刈られた部分が見える。
目の前で、妻の髪が坊主に近い長さにまで刈られている…
光一は、複雑な思いでそれをじっと見ていた。
大介は、更に後ろの髪にバリカンを入れ、またつむじの方まで刈っていく。
やがて、後ろの髪をすっかり刈ってしまうと、
今度は横に映ってもみ上げの辺りから上に向かって刈り上げていった。
もちろん、そこも下の方だけ…なんて程度ではなく
思いきり良く、上の方まで短く刈っていた。
留美は、今度は上を向かせられているものの、目を閉じていた。
自分の髪が、まるで坊主にでもされそうな勢いで刈られているのを直視できない、
そんな心境なのかもしれない。
「大丈夫、大丈夫、奥さん頭のカタチもキレイだから…」
大介は、二人と違って、楽しげにどんどん刈っていた。
反対側もすっかり上まで刈上げてしまうと、バリカンを置いた。
そのまま、またハサミに持ち替えて、トップと前髪を更に短く切っていった。
「はい、出来あがり…」
細かい髪の毛を流し、スタイリングが終了した後、カットクロスが外された。
トップと前髪はツンツン立つくらいの長さになり、
それをワックスであちこち向くようにスタイリングされている。
それ以外…後ろと横は、上の方まですべて5ミリくらいに刈上げになっていた。
「女性でもココまでやるとカッコイイでしょ…」
大介は自分の創ったスタイルに大満足の様子だった。
光一も留美も、仕上がりを見て、新たに驚いていた。
留美は、まさに呆然自失と言う感じで声も出ない…
「確かに…すごい…」
すごいに続く言葉が出ないまま、光一は変わり果てた妻の姿に見入っていた。
大胆過ぎる、と言えばそうだけど、
刈上げられたうなじに思わずドキッとするような色気を感じなくもない…
勿論ココで言う訳にはいかないが…
無言のまま立ちあがって、近くに寄って来た留美のうなじに思わず手を伸ばしてしまった。
『ジョリ…』
その感触に、光一が手を離すと、恐ろしいほど怖い顔をした留美がいた。
「後で…覚えておきなさいよ…」
光一は自分の耳を疑った…。
結婚して3年、いやその前に付き合っていた2年を足しても、
留美がそんな顔や言葉使いをした事は一度もなかった。
「絶対に仕返ししてやるから…」
光一だけに聞こえるような声で、また留美が言った。
まさか…?あの留美が…?
「さあ、写真撮りますよ…」
デジカメを取りに行っていた大介が戻って来た。
「留美さん、別人ですよ…不思議なもんで髪型を変えると
中身まで別人みたいになる人がいるんですよね…」
罪のない顔をして、大介が嬉しそうにそう言った。
END