表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

鉄柵

作者: 明宏訊

高い柵の向こうには何があるだろう?

柵によって切り刻まれた光景はどんなメッセージを送っているのか?

柵は夜空がひたすら好きだった。そこに向かって伸びたいのだ。

しかし近年このあたりは高い建物が増殖しすぎて狭くなるばかりだ。

恋しい夜空は狭くなりつつある。

だからといって足元への愛情を忘れてしまっているわけではない。

柵は柵の役割を忘れることはない。

それは目撃者から見てはならないものを覆い隠すという仕事。


しかしその目撃者は想像力に富んでいた。

まだ世間というものをまったく知らない美しい瞳は外界への好奇心に満ちていた。

そんな瞳に醜いものを見せるわけにはいかない。

だから柵は夜空への憧憬をしばし忘れて足下への注意を拡大した。

衝撃的すぎる事実は隠蔽されなくてはならない・・・時がくるまでは。

たとえ柵の奥で戦争が起きていようと、平安を装わなければならない。


安穏とした人々のさまは、きっと単なる装いにすぎない。

駅から吐き出された人々が、鬼のような妻の顔を見るまえに煙草で一息つく。

嵐の前の静けさ自体が嘘なのだ。

鉄の柵が連中の名誉を守っているだけ。

ほら、奥さんはナイフを隠し持って影に隠れているよ。

注意しないと、人生、最後の煙草となるだろう。

もしも自らの運命を知っていたら、高級な煙草を選んだだろう。

そして一目を気にして、携帯灰皿なんて持ち出さず、昔のサラリーマンみたいに足下に吐き出しただろうよ。

ちょうど彼の父親が若いころにやっていたようにね。

しかし彼は自分の死を心のどこかで予感していたのだろうか?

周囲の視線を気にもせず、あるいは気にもしないふりををして、吸殻をふっと吐き出した。

携帯灰皿が忘れ去れた女のようにむなしく夜風に震えていた。

吸殻を踏みつけた瞬間に、何処から女性の声が彼を呼んだ。何処かで聴いたことのある声だ。記憶を遡る。

20年の歳月を隔ててしまえば、現在と過去の顔を同定することは難しい。

だが、彼女の双眸を視たとたんに、子供時代の幸福な時間が走馬灯のようによみがえってきた。

何もしらない他者からみれば、やけに大げさな仕草と声。

地面に捨てられた煙草と合間って、通る人の視線は冷たいものだった。

影から見ていた妻にとってみれば、夫の浮気現場にしかみえなかった。

嫉妬に狂う女の目は魚眼レンズのように歪んでいた。

夫が吸殻を吐き出す姿が、自分の父親を彷彿とさせたのかもしれない。

はじめての男が実父だという事実を無理やりに身体にねじりこまされた。

そういう体験が彼女の目を魚眼レンズにしてしまったのか。

夫が浮気をしている。

それは彼女のなかで規定事実となりおおせた。

帰宅が遅いことだけが唯一あいびきの証拠とされたのだから、男としてもたまったものではない。


それは一瞬のことだった。

しかし鉄柵は大事な部分を覆い隠してしまった。

振り上げられたナイフはほぼ直角に男の口の中に収まった。

たまたま通った急行列車が誰の口からも迸りかけた声を無理やりに元に戻した。

こんな夜遅くに一人娘を放り出して夜の街に飛び出した母親。

彼女は幼い娘が追いかけてくるなどと想像だにしなかった。

大人の足についていくのは大変だったが、ようやくたどり着いた駅前で彼女が視たものは・・。

高い柵は情愛に満ちていた。

ただ夜の街に天に向かって突き出た黒い柵。

誰も単なる鉄の塊に人としての情愛があるなどと思わないだろう。

だが、だが、かわいそうな少女に父親が母親に刺殺される現場を覆い隠す・・時が来るまでは。

それは柵として当然の責務だろう。

しかしもっとも負い隠さなけれならない事実は他にある。

目撃者の本当の父親は誰かのか?

これは永遠に隠匿されなければならない。

そのくらいの情愛はその身体の中に備えていた。


鉄柵は夜風に震えた。

もう目撃者はいなくなったから、役割を果たす必要はなくなったのだ。

黒い鉄柵はきょうも狭くなりつつある夜の空に突き刺さる。

あたらしいマンションがまた完成しようとしている。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ