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ぼんやりした頭のまま、丸めたティッシュを投げる。私の手からふわっと飛び出した白い塊は、緩やかな弧を描いてゴミ箱へと飛んでいく。
「あぁ、くそ。外した」
あと少しだったのに、ゴミ箱のフチに当たって床に転がってしまった。
ベッドから降りて、ティッシュを拾いに行く。結局こうなるなら、最初からこうやっておけばよかった。などと思うことって、世の中にたくさんあるような気がする。
なんて、やけに冷めたことを考えている。
大人になった、ということだろうか。
「よいしょっと」
腰をかがめて、ティッシュを拾う。それをそのままゴミ箱に入れようとして、私はふとその中身が気になった。
「ねぇ、枢?」
ゴミ箱を見たまま、ベッドの枢に声をかけた。眠そうな声が返ってくる。疲れてるんだろう。
「ティッシュすごい捨ててあるね」
疲れているんだろうに、私がそう言った瞬間、枢は悲鳴をあげながらベッドを降りてゴミ箱を私から遠ざけた。すごい速さだった。
「これはあれ、ほら、うん。大丈夫、鼻がね?鼻炎なんだよ、ズルズルなの、はは」
丸めたティッシュが山のように入れられたゴミ箱を抱えて、枢が動揺しきった様子で矢継ぎ早に言葉を並べ立てた。彼が鼻をすすっているところなんて見たことがない。本当に鼻炎なんだろうか。
「ね、どうしたの?」
「なに、なにが、え、なにが?」
「ものすごい慌ててるけど、ゴミ箱見られたらマズいの?」
「いや鼻水ティッシュがね、リリに見られるとね、ちょっと恥ずかしいというか」
「怪しい……」
ゴミ箱に何か良からぬものでも入っているんだろうか。私にも見せられないような何か、悪い何かが。けれど、このまま普通に聞いたのではきっと教えてくれないだろう。枢がこんなにも狼狽しているんだから、きっと相当な秘密に違いない。
こうなったら、いきなり奥の手だ。
「私に隠し事するの?」
「いや……」
よし、効いてる。ちょっと卑怯だとしても、枢にはこれがものすごく有効だろうと思ったら、案の定だ。
「結婚するのに、私に隠し事するんだ?奥さんだよ?一生そばにいるって約束したのに、何か隠されてるって思ったままじゃあ、不安だなぁ」
枢は私のことが大好きだ。私も人のことは言えないけれど、好きな相手にこんなことを言われたら、きっと秘密をバラしてしまう。目の前の枢だって、困った顔で私を見ている。
そろそろとどめだ。
「大好きだから教えて?枢の全部が知りたい」
「あぁ……」
きた。これはもう完璧だ。こんなに簡単にいくなんて、ちょっとクセになりそう。
「リリ……引かないで、いや、引かれるなぁ……」
「引かない引かない、大丈夫だから」
行き着くところまで行ったわけだし。もう、ここまできたら大抵のことは大丈夫だろう。本当に引かない自信がある。これは絶対だ。だからさっさと教えて欲しい。枢がそんなにも隠したいことってなんだろう。
「これは、その……」
「うんうん」
「日々のストレスを、なんていうか」
「うん」
「発散した時のゴミというか」
「うん?よく分かんない」
ストレス発散のためにティッシュを丸めて捨てるってことか?まさかそんな子供みたいなことを枢がするだろうか。
「だから、あのね……」
「うん」
「リリのことを考えてると、ムラムラしてくるっていうか」
「あん?」
「リリのことを考えながら、ひとりで、その、自らのあれをね、刺激すると、ほら、出るわけじゃないですか、なんか、あれが」
話しながら、枢の手が軽く上下する。まるで何かを掴んで擦るような。しごくというか、なんというか、それが私のことを考えながらだということは……。
「うわ……」
「あ、引かれた!」
「いや引くでしょ……」
舐めていた。これはちょっと引く。自家発電というやつだ。
私のことを想いつつ自らを慰めていた、というだけならまだ何も問題はない。むしろ、ちょっとくらい喜んだりもしたかもしれない。しかし……。
「多くない?ティッシュしか入ってないじゃんこのゴミ箱、これ全部そうなの?」
丸めたティッシュがどっさりのゴミ箱。ひとつは私が捨てたやつだからいいとして、それ以外のどれだけが枢のイメージトレーニングに使用されたものなんだろう。
「全部じゃないけど、だいたい……八割くらい?」
「うわほぼ全部だ」
多すぎる。いや、もしかして私が知らないだけで世の男子ってみんなこうなのか?
「一日に何回やるの?」
これだけゴミ箱に貯まるということは、きっと一日一回じゃない。
「何回かやる日もあれば、やらない日もあるから……」
枢が困った顔で私を見る。ついさっきお互いに全てを晒したと思ったような気もしたけれど、まだまだ知らないことはありそうだ。
「これで何日分?」
「これはだいたい一週間かな」
「オナ魔神じゃん」
全然知らなかった。
枢がこんなにも……あ、いや知ってた。枢はもともとこういうやつだった。
「やらしいのは卒業したんじゃなかったの?」
私のためにいかがわしいのはやめると宣言して、それ系のグッズも処分したと言っていた。それなのになんだ、この感じは。
「卒業したけど、やっぱりひとりでリリのこと考えてるとムラムラしちゃって……」
「私と会ったあとに?」
「会う前に抜いたこともあったよ」
「抜くとか言わないで……」
卒業すると言ったあの日からものすごくまともになったと思ったのに。変態が全然治っていないではないか。こんな一日に何回も自家発電なんて、完全に危ない人だ。しかも、このティッシュの山は全部私を想ってのことだ。これが全部。
……全部、か。
「枢ちょっと私のこと好きすぎじゃない?」
一途とかそういうレベルではない。これは一歩間違えれば犯罪に転んでしまうようなタイプだ。
「リリが大好きだから」
枢が私の手を取って、幸せな顔をする。ちょっとどきっとした。
「……いやいや、でもこんなにひとりでやるのはさすがにだめよ」
枢にどきっとしたからもういいか、なんて一瞬だけ思いそうになって、すぐに首を振る。それはだめだ。変態かどうかとか、引く引かない以前に、この量は体力的に問題だろう。こんなことやってるとまた倒れてしまう。
「お、リリが抜いてくれるの?」
「ちがぁう」
人が心配してやってるのにこいつ……。
「そういう発言は控えなさい」
ティッシュの山を見られたからか、諦めて堂々としはじめた。切り替えの早い頭だ。ポジティブすぎる。
「卒業したんでしょ?」
「あ、うん。そういうの卒業した」
どう考えても卒業できていない。いや、昨日まではたしかに卒業できていたのに、何故か戻ってきた。
「……ほら」
試しに、枢の前で制服のスカートを少しつまみ上げてみる。ぎりぎりで下着は見えないくらい。
すると、枢はへろへろな顔をして私の足に抱きついてきた。
「あぁ、可愛い……」
「全然卒業できてないじゃない。離せこら、離しなさい」
私の太ももに頬擦りをしはじめた枢を強引に引き剥がす。このまま蹴り飛ばしてやりたい。すごく不快だ。何が不快って、こんなことをされてるのにあんまり嫌じゃないのが不快だ。
私から離れつつ、枢が切ない顔で床に膝をつく。
「リリのこと好きすぎてもうだめだ」
「またそんなことばっか言っ……ちょっと!」
枢は膝をついたまま、なんと手も床について頭まで下げはじめた。土下座だ。
「お願いします。太ももをぺろぺろさせてください」
「やめてほんとに。だめだって、昨日までとキャラが違いすぎるから」
肩を掴んで頭を上げさせると、枢はそのまま私に抱きついてきた。
ふたりして重なったまま床に寝転がる。枢が上、私が下だ。
「急に変わるのだめ、対応に困る」
今から変態になりますって言われてもそれはそれで困るけれど。すると、枢が悪戯っぽい顔で笑った。
「リリが我慢するなって言ったんだよ」
たしかに、我慢しなくていいと言ったのは紛れもなく私だ。まさかここまでとは。
「幸せだよ、ものすごく幸せ」
言葉通り、幸せそのものな顔をしている枢を見ると、やっぱり我慢するなってのは無かったことに、なんてことは言えない。私自身、枢に甘えられるのがそんなに嫌じゃないのもあるし。ただ、ずっとこれでは困ってしまう。
「……ふたりきりの時だけね」
私がそう言うと、枢はもはや言葉になっていない何かよく分からない鳴き声をあげながら私の額にキスをした。
「リリをひとりじめだね」
「もうそれでいいから、人前でやったらだめだよ」
どうしたものか。
これでは変態を卒業すると宣言したあの日よりも前に逆戻りだ。
しかし、困った。
幸せ丸出しの顔をした枢に抱きつかれるのって、全然嫌じゃない。
離れられないって、こういうことを言うんだろう。