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時間が経つのは意外と早い。枢との関係が終わって、あっという間に一カ月が過ぎた。最初の頃はもう何もしたくないくらい頭がぼんやりとしていたけれど、このところはすっかり元気になった。気がする。もう大丈夫だ。
きっと大丈夫。
「帰りにどっか寄ってくか?」
枢と会わなくなってから、帰り道に花火と遊ぶ事が多くなった。元気になった、大丈夫そうだと思いつつも、何かと構ってくれる花火にはどうしても甘えてしまう。やっぱり、こういう時に頼りになるのは気心の知れた親友だ。
「今日はどうする?」
「ちょっと腹減ったな」
花火がだらしなくお腹をぽんぽん叩きながら答える。男の子みたいだ。
「花ちゃん、面白いね」
「なにが?」
「それ」
お腹にあてられたままの花火の手を指すと、彼女はふんと鼻を鳴らしてお腹から手を離した。もしかして、恥ずかしいんだろうか。
「可愛い」
「いいから。ファミレス行こう」
腹が減って動けねぇ、とか言いながらすいすい進む花火に連れられてやってきたのは、駅前のファミレス。花火と一緒によく来るけれど、枢と会うのも、いつもここだった。枢と一緒に来るのはもっと遅い時間だったけれど。
入り口の前で足が竦むのも、とっくの昔に卒業したこと。いまは、少し心臓のあたりがざわつくだけで、普通に入れる。
「なに食おうかな」
四人掛けのボックス席に向かい合わせで座るやさっさとメニューを眺めはじめた花火にならって、私もメニューを眺める。そういえば枢はよくどのパスタを食べていたな、とか一瞬だけ考えては追い払うように頭を軽く振るのも、もはや慣れてきた。
「……見てらんねぇよ」
早いところ注文を決めてメニューを閉じてしまおうと思った私に、花火から小さな声がかけられる。見ると、彼女はとっくにメニューを閉じて怖い顔で私を睨みつけていた。
「どうしたの?」
顔が怖いのはいつものことだけれど、睨みつけられるのはあまり経験がない。おっかない怪獣に見つめられているようで、背中のあたりに汗が滲んだ。
「リリ、なんかあったろ」
ため息混じりにそう呟いた花火が、私の額に人差し指を当てる。彼女はこうやって私の額をとんとんやるのが癖みたいだ。
「あたし分かってんだかんな。リリがずーっと思い詰めた顔してんの」
私の額をとんとんしながら、花火がいつもよりずっと不機嫌そうな顔で呟く。
「なんかあったなら言えよ」
夜道で出くわしたら泣き出してしまいそうなほど怖い顔をして私を睨んでいるけれど、これはきっと心配してくれている。目を見れば分かる。親友だから。
「そっかぁ……」
花火に額をとんとんされながら、自分でもびっくりするくらい大きな空気の塊を吐き出した。私が彼女の目を見て分かるのと同じように、彼女も私を見ただけで色々と分かってくれている。それは、きっと親友だから。
「彼氏と別れちゃった」
従業員を呼び出すボタンを押しながらそう呟いてから、そういえばこんなこと誰にも話していなかったな、と思い出す。私がこんなことを話せるのは、親友の花火だけだ。
話す、というのは恐ろしいもので、最初の頃はそんなに詳しく話すつもりはなかったのに、気がついたら三十分以上も枢のことを花火に愚痴っていた。
「……なるほどな」
料理が運ばれてきてからも延々と喋り続ける私に嫌な顔ひとつせず、時折うんうんと相槌を打ちながら聞いてくれていた花火が、久しぶりに言葉らしい言葉を発した。
「思ってたよりヘビーな話だったわ」
父の会社の社長の息子との婚約。なんやかんやあって付き合ってみるも、すぐに破局。自分で話していても、わりと嘘くさい気がしていた。
「いまどきそんな話……いや、あるんだろうけどまさか高校生で巻き込まれたりするんだな」
運ばれてきた料理をすっかり平らげた花火が、ドリンクバーのジュースが注がれたコップに口をつけて呟いた。彼女はこういう時にストローを使わない。
「しかし衣笠枢かぁ。びっくりだわ」
話している時に枢が一番びっくりしていたのは、枢の名前を出した時だった。私はあまり気にしていなかったけれど、枢は学校では有名人らしい。
「金持ちのイケメンだろ?あんまり学校来ねえからって芸能関係のバイトとかしてるみたいな噂聞いたことあるけど、マジでガチの仕事してたんだな」
「そんな噂があったのね」
学校では枢のことなんてほとんど意識していなかったから、そんな噂は初めて知った。たしかに、あの顔ならモデルなんかをやっていると言われてもそんなに変ではない。身長も高いし。
「で、リリはそんな忙しい衣笠枢に惚れちまったわけだ」
花火がコップの水滴を撫でながら言う。口調は相変わらず悪いけれど、いつもより声が優しい。彼女なりに慰めてくれているんだろう。
「惚れたっていうか」
「惚れたんだろ?」
「……そうだけど」
有無を言わさない花火の問いに、自分の声がどんどん小さくなっていくのが分かる。あんまり枢への気持ちを確認させられると、なんだか悲しくなってきた。
「あ、ごめんごめん。そうだよな、別れちまったんだもんな」
鼻の奥の方が痛くなってきたと思ったら、花火が慌てた様子で私の頬に指を伸ばす。
「泣くな泣くな。悪かったって」
このまま続けたら泣いてしまうかもしれない、なんて思っていたら、予想よりも早く涙が出てきていたらしい。指で優しく私の目元を拭ってくれる花火が見たこともないくらいうろたえているので、私も自分で目元を擦った。
「……ごめんね」
目元を擦った指に思ったより水滴がついた。呟いた声も、びっくりするくらい小さくて詰まっている。
なんだ、全然大丈夫じゃないじゃないか。誰だ、もう大丈夫とか言ったのは。
「よしよし。よく頑張ったな、リリ」
花火が私の隣に移動してきて、当たり前のように手を握ってくれた。枢と同じくらい温かくて、枢より柔らかい。
「花ちゃん、男前すぎるよ……」
「だろ?」
肩を抱くように腕をまわしてくれるから、私は花火の胸に顔を埋めるような形になった。いい匂いがする。温かいし、枢にはなかった柔らかい感触もあって、思わずため息をついてしまうくらいの安心感が急に押し寄せてきた。
「花ちゃん……」
花火が優しく背中をさすってくれるものだから、胸を溶かしていく強烈な静穏を止められない。このところ溜まっていた汚い感情が、どんどん洗い流されていく。
「花ちゃぁん……」
「おい、スリスリすんなって、ちょ、くすぐったい」
「花ちゃぁ……」
「あぁ、もう……」
溶かされてどろどろになった心のモヤモヤが、目元からどんどん吐き出されていく。
「あんまりおっきい声だすなよ」
珍しく恥ずかしそうな声を出した花火が、私の頭を撫でてくれる。
さっきから枢のことを思い出してしまって、悲しいのと寂しいのが胸にぐるぐると渦巻いている。けれど、花火のおかげで、いまはそれ以上に嬉しい気持ちと優しい温かさが全身を包んでいた。
花火の胸に顔を埋めて、私は二十分も泣いていた。まあ、ずっと泣き続けていたわけではなく、途中からは軽く話をするくらいの余裕はあったけれど。
「鼻水だけは勘弁しろよ」
「ズルズルするかも」
「マジでやめて」
しきりに私が鼻水を垂らさないか心配していた花火も、やめろと言いつつ私を引き剥がさなかった。
涙を流しきって気持ちが完全に落ち着いた頃には、すっかり日が暮れていた。
「ありがとね、花ちゃん」
「親友のためだからな。あたしって優しさに溢れてるから」
「ほんとにね」
ファミレスを出て、ふたりで駅前の道をだらだらと歩く。花火のおかげで、気持ちがだいぶ楽になった。かなり気分がいい。親友が私を優しく慰めてくれたから、今なら枢に会ってもぶん殴ってやれるくらいの晴れやかな気持ちだ。
「はぁ、すっきりした」
「よかったよかった」
「花ちゃんみたいに優しい子が親友でほんとによかった。花ちゃんも何か辛いこととかあったら私に言ってね」
持つべきものは親友だ。私は今日ほど花火という大親友の存在に感謝した日はない。これまでも彼女がいてくれて良かったとか、話せて嬉しかったと思ったことはあったけれど、胸で泣かせてくれるなんて、こんなに優しい子は他にはいない。
「それにしても、花ちゃんの胸は柔らかかったなぁ」
「おい」
花火の胸はけっこう大きいというのを、顔を埋めてみて初めて知った。
「あれを好きにできるって彼氏うらやましいな」
「おいってば」
恥ずかしそうに、花火が私の背中を軽く叩く。なんだか幸せな気分だから、こうやって彼女と一緒に下らない話をして歩くのがすごく楽しい。
このままずっとこんな楽しい気持ちが続けば、そのうち枢のこともきっと忘れられる。
「花ちゃん、大好き」
「まったくこいつは……あれ?」
呆れ顔で私を見た花火が、そのままどこかに視線を向けたまま固まる。
その視線を追いかけて、私も全身が凍りついたように動けなくなった。
「枢……」
「マジかよ」
視線の先には、枢がいた。
それだけならきっとなんとも思わなかったはずなのに、私の視界には、枢の隣に誰かいるように見える。
枢よりもほんの少し背が低いだけの、スタイルのいい女性。落ち着いた黒いスーツ、手入れの行き届いた黒くて長い髪の毛。大きな瞳がまっすぐ枢に向けられていて、口元は優しく微笑んでいる。
「はは、今なんだ、こういうのって……」
最悪のタイミングだ。せっかく花火のおかげで前向きな気持ちになれたというのに、このタイミングで会ってしまうなんて。
「おいリリ、落ち着けって。大丈夫だ、ほら」
花火が優しく私の腕を引っ張ってくれるけれど、私の足は少しも動いてくれない。
この場から離れないといけない、枢が新しい婚約者と一緒にいるところなんて見ていても仕方ないのに、彼に向けた視線を外すことが出来ない。
「かなめ……」
心臓が大きく暴れる。全身を駆け巡る血の勢いは増していくのに、呼吸がうまくできなくて、どんどん息苦しくなってくる。
優しそうな大人の女性に腕を引っ張られて、枢が笑っている。
あの顔は、私だけに向けられていたはずなのに。
「リリ、ほら来い。行くぞ。おいリリ!」
「枢!」
抱きかかえるようにしてその場から離れようとしてくれた花火を振り払って、私は無意識に枢の名前を呼んでいた。どうしようとも考えていなくて、ただ目の前にいる枢の名前を口にした。
「リリ……」
私に気付いた枢が、驚愕に目を見開いたまま動きを止める。
「リリ、そんな……」
「枢……」
私が思わず枢に一歩近づくと、彼は隣の女性に引っ張られていた腕を素早く振り払った。
「なんでこんなところにいるの」
「枢こそ、どうしてこんなところにいるのよ」
私も枢も、自宅の最寄り駅がここなんだから、ここにいること自体は全くおかしくない。
ただ、タイミングが最悪だ。
「なんでこんな時に……」
私が近づいていくと、枢は俯いて、右手を額に当てながら呟いた。その表情は、見たこともないほど暗く、どこか怒りすら滲ませているようにも感じられる。
「リリ、僕は……」
枢が私に向かって一歩踏み出す。
しかし、彼が私の元へたどり着くことはなかった。
「……枢?」
「枢くん?」
音もなく地面に倒れた枢を見て、私と、彼の新しい婚約者が同時に呟く。
私と婚約者の中間でうつ伏せに倒れている枢は、苦痛を浮かべたまま、目を閉じていた。