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ーー3ーー

さすがというか、なんというか。やはり高校生の時分から親の会社経営を手伝うような人間は、普通とは違うらしい。

やると言ったからには意地でもやるのか、それともこの程度なら普通に何の苦もなくやりとげられる見込みがあったのかは分からないけれど、このところ枢は完全に真っ当な人間だ。

枢がいかがわしい自分から卒業すると言い放ったあの日から、一ヶ月と少し。この間に夜の食事や休日のデートらしきものを含めて十回は会っているけれど、彼はすっかり妙なことを口にしなくなった。

街を歩きながら、以前だったら最低でも十秒は目で追っていたレベルの女の子がいたとしても、一切気にしていない。視線が全くそちらに向かない。この鋼の精神力はなんなんだと思ったりもするけれど、よく考えたら、道行く女の子をエロい目で見ないなんてそんなに難しいことでもない。

まあ、なにはともあれ、いまの枢は普通に好青年だ。

そのせいか、私の方にも少しずつ変化があったりなかったりするような気がしないでもないけれど、なるべく意識しないようにしていた。

「最近学校でどんなことやってるの?」

いつものファミレスで、私に向かい合って座った枢が微笑む。

「このところ週に二回とかしか行ってないんだよね」

「そんなに?」

枢のことは学校ではほとんど見かけない。あまり気にしてはいなかったけれど、そういえば、同じ学校の同級生なんだった。

「忙しいの?」

週に五回か六回程度しかない学校にもろくに通えないくらいなんだから、きっと忙しいんだろう。分かってはいるけれど、こういうのは何故か聞いてしまう。こういうのが世間話って言うんだろうか。

「忙しいというか、忙しいといえば忙しいけど、時間あっても学校いくのめんどくさくなっちゃうんだよねぇ」

テーブルの上に上半身を投げ出して、欠伸をしながら枢が呟く。

「帰るのが夜中だったりすると、次の日が丸一日空いてたりしても学校の時間に起きるのかったるいというか」

面倒くさそうに投げやりな声で言う枢は、本当に疲れがたまっているようだ。

「今日も忙しかった?」

「昨日の夕方から今朝まで九州。そのあとはさっきまで会社で書類をいろいろと」

軽く絶句する。

完全に社会人じゃないか。

「……高校生のやることなの?」

学生の本分は勉強だ、などと大仰なことを言うつもりはないけれど、十代の枢がそんなことまでする必要があるんだろうか。

「僕が引っ張ってきた取引だから」

「でも……」

会社にはたくさん大人がいるはずだ。まだ高校生なんだから、枢以外は全員が大人のはず。それなのに、枢がこんなに忙しく動き回らなければならないなんて。

「全部自分でやらないといけないこと?その……出張みたいなのとか」

会社のことも仕事のことも全然分からないけれど、つい口を挟んでしまう。自分でも理由はよく分からない。学生が学校にも行かずあちらこちらへ飛び回っているからだろうか。それとも、枢がものすごく疲れているように見えたからだろうか。

「今のうちに顔を売っとくんだ。大学を卒業してから役立つ」

上半身を投げ出した姿勢のまま、枢が上目遣いに私を見る。

「君には楽な生活をさせてあげるからね」

私を見つめたまま、いつも通りの微笑みで枢がそう呟いた。

目を合わせたまま、一瞬だけ息が止まる。

私に楽な生活をさせる。私のために。枢は私のために忙しく仕事をしている。

正直、その言葉だけなら凄く嬉しかった。

けれど、どうしてだろう。少しだけ嫌な気分になってしまう。説明しろと言われたら、うまく言葉にはできないけれど、少しだけ素直に喜べないような、理解できないモヤモヤが胸にわだかまる。

枢はきっと何の悪気もなく、普通に私との将来を夢見て言ってみただけなんだろう。私と目を合わせたまま、いつもと変わらない優しい顔でこちらを見つめている。

枢には何の落ち度もない。彼が当たり前のように私との結婚を視野に入れて行動していて、改めてこの男は私の婚約者なんだって思わされるのも、以前ほどの嫌悪感はなくなってきた。歓迎するほど前向きに考えているわけではないけれど、それでも、絶対に嫌というほどではない。だからこそ、私よりもずっと将来のことを考えている枢に対して、何か私との大きな違いみたいなものを感じてしまう事がある。

それに、枢が私を養うと言うのも、なんだか変な気持ちになる。枢は悪い意味で言ったわけではないことくらい分かっているのに。彼が私よりもずっと大人で、先のことまで考えられるほど頭が良くて、そんな彼が私との将来に期待してなんとなく言ってみただけだっていうことくらい、頭のなかでは完全に分かっている。それなのに、私は勝手に彼との差を感じてしまう。

私は、少しばかり面倒なやつなのかもしれない。

「……忙しかったら、私と食事なんかしてないで休んでてもいいのに」

このまま枢の顔を見ていると変に気分が沈んでしまいそうなので、私は意味もなく視線を逸らして呟いた。

「いまは君と会うのだけが僕の癒しだよ。この時間は幸せだ」

そう返した枢の声はいつも通りで。見えていないけど、優しい顔をしているんだろうことも簡単に想像できた。

枢はきっと、本気で私のことを想ってくれている。


なんだか浮かない気分のままファミレスを出ると、夜空にどんよりと雲が立ち込めていた。まるで私の心のよう、なんて恥ずかしいことを一瞬だけ思ってすぐに打ち消す。

このまま、あと二十分もすれば今日も枢とはお別れだ。隣を歩く優しい好青年に理不尽な劣等感を覚えてグズグズしている面倒な私も、あと少しでいなくなる。

雨が降りそうだ。なんて空を見上げながら、枢が私に声をかける。

「今日もありがとね」

私は枢のことを見なかったけれど、彼はきっとこちらを向いている。今日もありがとう、なんて。私たちがこれから向かうのは私の家の方だ。彼が住んでいるマンションは、こちらとは真逆の方向にある。

いつも、近くまで送ってくれている。

疲れているのに。ずっと笑顔のまま。

それなのに今日もありがとう、だ。

「ねぇ」

彼は私のことを考えすぎだ。

思わず立ち止まって、そのまま一歩先へと進んだ枢の背中に声をかける。

「……無理、しないでね」

枢の腕を掴んでいた。

驚いた様子で振り返り、枢が何か言おうと口を開いた瞬間、私の手に水滴が落ちてくる。

一粒だけだったその水滴は、やがてすぐに数が増えた。

「雨だ」

急に泣き出した夜空を見上げて、枢が呟く。

「ごめん。傘持ってないや」

枢が謝ることじゃない。私だって、用意していなかった。

「帰るまでにびしょびしょになっちゃう」

「別にいい」

「だめだよ」

なんだか胸がモヤモヤするので、このまま濡れて帰るのもいいかもしれない。そう思ってそのまま歩き出そうとした私の腕を、今度は枢が掴んだ。

思っていたよりもずっと力が強くて、不思議と温かい。

「……あのさ」

いつもはっきりと喋るはずの枢が、何故か言いにくそうに口ごもる。彼の手が温かくて、そのせいで雨が冷たく感じてきた。

「……僕の部屋ならすぐそこだけど、来る?」

枢と目が合う。

こんなにはっきりと、真剣な顔で誰かと見つめあったのなんて、生まれて初めてだ。

「……行く」


枢の住むマンションは、駅から何分も歩かないところにあった。こんなに近いのに、彼は毎回わざわざ私の家まで遠回りしてくれていたのか。

「寒くない?」

自分よりも先に私に着替えを用意してくれた枢は、シャワーまで借りた私をさらに気遣ってくれる。

「僕もちょっとシャワー浴びてくるね。いい感じにくつろいでて」

枢が入っていった浴室から、水の流れる音がする。綺麗な浴室だった。まわりを見渡してみると、部屋も片付いている。

というか、忙しくて散らかす余裕もないんだろうか。小さなテーブルにノートパソコン、あとはテレビとベッドとソファーがあるだけの質素な部屋だ。駅から近いマンションの七階、広い部屋なのに、置いてあるものはほとんどない。

「……エロ本とかないかな」

私の制服は枢がきちんとハンガーにかけておいてくれたので、彼が出てくるまではやることが全くない。なんだか気分が優れないので、この部屋にはどんな娯楽があるのかと探ってみることにした。

「……どこに置いとくもんなんだろ」

とりあえず、枢は一人暮らしだ。一人暮らしなんだから、隠す必要もないだろう。ということは、その辺に置いといているはずである。こういう場合は、どこに置いておくのがポピュラーなんだろうか。

なんてことを考えていると、ふと一ヶ月前の会話を思い出した。

「君に認めてもらうために、僕はもうその手のちょっといかがわしいあれこれから卒業する!」

そんなことを言っていた。それ系のものは処分するとも。

まさか本当に何もないんだろうか。

私のために?

テーブルの上に目をやると、そこには私の写真が嵌まった写真立てがある。あれは確か、父が枢との婚約話を持ってきたときに撮ったやつだ。相手に見せるとか言って。

本当に何もなくて、きっとこのところは寝て起きるだけの生活を繰り返している枢の部屋にある唯一の雑貨。

それが、私の写真。

顔が熱くなってきた。

よく考えたら、なんで私は枢の部屋に来てしまったんだろう。

雨に濡れたからってシャワーまで借りて。彼のTシャツを疑いもなく着て、私は何を普通にこの部屋にいるんだろう。

こんなの、まるで……。

「あれ、そんな遠慮しないでくつろいでて良かったのに」

いつのまにか浴室から出てきていた枢が、タオルで髪の毛を拭いながらソファーを指差す。

「ほら、座って座って」

キッチンの方に歩いて行った枢から何か飲むか聞かれたけれど、なんだかうまく声が出ない。不思議だ。いや、単純に動揺しすぎだ。

今日は私の頭のなかでいろいろなことがありすぎる。

「あの……」

会話する当てなんてないのに、ソファーの左端に座っているだけでは何かがもどかしくなって枢に声をかける。

「どうしたの?」

私を見て微笑む風呂上がりの枢は、いつもと印象がまるで違う。

頭のなかで警報が鳴り響く。

こんなのは知らない。

こんなこと、予定にはなかった。

「ほら、これあげる」

枢が優しい顔でペットボトルの水を差し出す。彼も同じやつを持っているので、何本かストックしているようだ。

「ありがと……あっ」

差し出されたペットボトルを受け取った瞬間、指と指が微かに触れた。

思わず手を引いて、床にペットボトルが音を立てて落ちる。

転がるペットボトル。

微笑む枢。

頭が混乱してきて、何を言っていいのか分からなくなってきた。どうしてここにいるのかも、もはや分からない。

「……えっと」

ぐるぐるした頭のままペットボトルと枢を交互に見ていると、彼が笑いながらペットボトルを拾った。

「どうしたの。大丈夫だよ、何もしないから」

心の底から可笑しそうに笑いながら、枢もソファーの右側に座る。もちろん、私とは距離をとって。

「制服はすぐ乾くかな。雨がやんだら帰るかい?送ってくよ」

「……うん」

無性に心臓がどきどきする。

男の部屋で男とふたりきりだからだろうか。それとも、枢が婚約者だからだろうか。

何故かペットボトルを必死に掴んでいた両手を解いて、右手を下げた。

「あっ」

「あ、ごめん」

右手を下げた先には、枢の左手があった。

枢が手を引こうとして、私がそれを掴む。

ほとんど無意識だった。

私は、枢の手を握った。

「……手、離さないの?」

しばらく無言のまま手を掴まれて、枢が遠慮がちに言う。私も彼のことを見ていないけれど、彼も私に顔を向けてはいないようだ。

「離してほしい?」

顔を見ず、視界に枢らしきものを入れる事のないまま、手に伝わる彼の温もりだけを感じながら呟く。

「君が離さなかったら、僕は一生離してあげないよ」

何度もこんなような事は言われている気がするけれど、今回だけは、不思議と胸が高鳴る。それと同時に、少し寂しい。

理由は、考えなくてもすぐに分かった。

「……リリって呼んでよ」

一ヶ月前のあの日から、枢は一度も私の事を名前で呼んでいない。私が呼ぶなと言ったからだ。きっと、ずっとそれを守ってくれていた。

「いいの?」

枢の声が、先ほどよりも少し大きく聞こえる。

顔がこちらに向けられているみたいだ。

「いいよ。名前で呼んで」

私は枢に顔を向けない。いま向けたら、その瞬間に何かが狂う自信がある。

「私も、か、かな……めって呼んでいい?」

それに、顔を見ながらだと、こんな恥ずかしい事は言えない。

「リリの好きなように呼んでいいよ」

彼の発した"リリ"という言葉が、私の耳から心臓を貫いた。

前はこんなことなかったのに。

不思議だ。

「どうしよう。枢に名前で呼ばれるの、ちょっと嬉しくなっちゃった……」

「僕も、初めてリリに名前で呼んでもらったけど、これすごいね」

ソファーの上。ふたりの間で、お互いの指が少しずつ絡まっていく。

「枢……」

「リリ」

名前を呼ばれるごとに、枢が私のなかで大きくなっていく。枢の持つ"何か"が、私の心をかき乱していく。

「まだ全然なにも考えられないけど……」

まるで熱に浮かされたうわ言のように、私の口から言葉が出てくる。

私の意志では止めようのない、妙な強制力を持った不思議な言葉。

「結婚とか、そういうのまだ考えられないの」

「うん」

「今はまだそんな私だけど、でも、枢のこと、あの……」

「うん」

「……枢のそばにいても、いい?」

魔法みたいな言葉だ。曖昧なようでいて、後戻りのできない言葉。

やがて、しばらくの沈黙のあと枢が私の手を握ったまま返す言葉には、私の言葉なんかよりももっとはっきりとしていて、とても強い魔法がかかっていた。

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