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休日には、だいたい家にいる。
家の中で軽く勉強をして、週末は母の代わりに私が家事をする。母は身体が弱いから、本当は私が学校に通っている平日だってもう少し休んでいてもらいたいくらいだ。
外に出るのが特別に好きというわけでもないし、家に篭っているのは楽でいい。掃除をして部屋が綺麗になると嬉しいし、洗濯も好きだ。たまには友達から誘われて出かけることもあるけれど、私の休日は基本的に家のなかで完結する。
「休日にデートなんて初めてだよ」
そんなせっかくの休日なのに、今日の私はあまり楽しくない。
「良かった、来てくれて」
そう言って、私の隣を歩く枢が身体を弾ませた。ものすごく楽しそうだ。
「……変なことしたらビンタしてすぐ帰るからね」
二日前のことだ。枢との食事を終えて帰ろうかという頃になって、彼は私を"デート"に誘った。もちろん最初は即答で断ったけれど、彼がどうしてもというので、仕方なく受けてやった。
「分かってるよ。今日は君に楽しんでもらおうと思って」
そう言って隣で枢が楽しそうにしていると、自動的に私の気分は沈んでいく気がする。けれど、そんな風に悪いことばかり考えているのはいけないことだろう、とも思う。ほんの少しだけれど。
私は枢のことを過剰に悪意を持って見ている節がある。彼自身、少し問題のある言葉を口にすることはあるけれど、私に対して悪意があるわけじゃないことくらい分かっている。けれど、私はどうしても彼が気に入らない。いきなり婚約者だとか何とか言って現れた男が、私の思い描く平穏な人生にとっては敵としか思えないからだ。
たぶん、私と枢では彼の方がずっと大人に違いない。彼だって、本当のところは私との婚約をどう思っているか分からない。もしかしたら、私よりもうんざりしているかもしれない。それでも嫌な顔ひとつせず、私の前に現れたらずっと笑っている。それが、私と違って大人であるということなんだろう。そういうところが、私は気に入らない。
それは、たぶん私が枢よりもずっと子供だから。
「……何してくれるつもり?」
枢も嫌がっているかもしれない。これはお互いに気を使うべきだ。
そう思って、私はほんの少しだけ枢とのデートに対するモチベーションを上げた。
「うん。今日はねぇ……」
私が珍しく乗り気であるように見えたからか、枢は嬉しそうに今日のデートプランを話しはじめた。経験がないから分からないけれど、デートってそんなにきちんと計画をたてて進行するものなんだろうか。
「寝ずに考えたんだ」
「ほんとに?」
「昨日は八時間くらい寝たけど」
とても健康的な生活だ。
「せっかく君とデートするのに、寝不足じゃもったいないからね」
今日の枢は、距離感をはかりやすい。
いつもに比べたら多少は接しやすいと評価してやらなくもない、という程度には。
地元から電車で三駅ほど行ったところにある、それなりに大きな美術館。私は、この美術館で開催されている企画展に以前から少しだけ興味があった。
「……どうしてここを選んだの」
そんな美術館の入り口に立ち、前から来てみたかったと素直に喜ぶのはなんだか負けた気がして、なるべく目を見ないようにして枢に聞いてみる。すると、彼はなんてことない世間話みたいにあっさりと頷いた。
「見たいって言ってたでしょ」
あまりにも普通に言うので、呆気にとられてしまう。私は、そんなことを言ったなんて覚えがない。けれど、いつ言ったかなんて聞くのもなんだか癪だ。
「まあ、場所のチョイスは合格かな」
変なところに連れてこられたらどうしようかと思っていたけれど、これなら大丈夫だ。嫌なことは少しだけ忘れて、普通に展示を楽しませてもらおう。
展示は、私の思っていた通り、普通に面白かった。一時間と少しで全て見てしまったけれど、とても良いものを見た。
意外だったのは、枢が展示品に対してとても熱心に興味を示したことだ。この展示ではヨーロッパの古い装飾品などを扱っていたけれど、枢はそれらを眺めつつ、「これはさっきの腕輪と同じところから出たやつ?」とか「さっきのからまだ百年くらいしか経ってないのにもう加工の技術がこんなに進んでるの?」とか、展示品のキャプションを読んでは話しかけてきた。
私が見たいと言っていたから、という理由でここを選んだらしいから、てっきり枢にとってはこんなものあまり興味ないんだと思っていた。彼ならきっと興味がなくてもそれらしく振舞うことなんて簡単なのかもしれないけれど、だとしても、私の好きなジャンルについてあれこれと熱心に質問されるのは悪い気分ではない。特に、何てことないことでも答えてやると彼はものすごく喜んだから、私もつい喋りすぎてしまった。
「僕はこういうの全然知らないから、初めて見るのばっかりで感動したよ」
美術館から出てすぐ、枢は感心したように呟いた。
「そうねぇ」
私も、日本初公開の品が見られたのでとても感動した。枢のくせに、今日はいい仕事をしている。
なんてことを少し考えてから、小さくため息をついた。
「どうしたの?」
「……楽しかった」
普通に面白かったのだから、ここは素直に感謝しておくべきだろう。そう思ったのに、口から出てきた声は予想外に低く不機嫌そうだ。自分でもびっくりするくらい。
「うん。良かったよ」
さすがにこんな態度では枢に悪い。反省しつつも、これまでの接し方からすると、どういう言葉を使えばいいのか分からない。こんなことでは、さすがに怒らせてしまうかもしれない。
少し悩みながらちらりと枢を見ると、私と目を合わせた彼が優しく微笑んだ。
なんだか、私の考えていることなんて全て見透かされているみたいだ。
今日の枢は、やはりいつもと違う。
デートに張り切っているのか、それとも単純にこういうお出かけを企画するのが好きなのかは分からないけれど、とにかくやることに外れがない。美術館の後は食事をして、近くの大きなショッピングセンターでふらふらと買い物をしていたら、いつのまにか日が暮れていた。
いつのまにか日が暮れていた、なんて、子供の頃以来経験した覚えがない。
電車に乗って地元まで帰ってきて、いつものファミレスで食事を済ませてから、私の家の近くにある小さな公園に立ち寄った。
誰もいない公園のベンチに座った枢が、両手を頭の上に伸ばしてあくび交じりに言う。
「疲れた?」
「……べつに」
私も枢の隣に座る。隣といっても、私たちの間には荷物があるので、ぴったりくっついているわけではない。
「初めて隣に座ってくれたね」
「そうだっけ」
「ファミレスだと向かい合わせだし、そうじゃない時って、どっちかが立ってるよ。僕が座ったら君は立っちゃうからね」
「……あんまり覚えてない」
今日は一日中ずっと隣を歩いていたから、昨日までどんな風にポジションを決めていたのか、あんまり思い出せない。頭に浮かぶのが今日のことばかりだというのが、なんだかすごく嫌なようで、少し楽しくもあるような、胸に変なものが渦巻いているような気分だ。
しかし、今日は少しはしゃぎすぎたかもしれない。今朝まではあんなに嫌だったのに、今ではこれくらいの距離感なら何とも思わなくなっている。モノに釣られた気がしないでもないけれど、枢がいろいろと楽しませてくれたのも確かだ。
「今日は……」
公園のベンチにふたり。
こういう時に限ってなぜか枢が何も言わないので、私は無駄に緊張しながら口を開いてみた。
「……今日は楽しかった」
すると、枢が飴玉をもらった子供みたいにだらしない声で笑う。
「へへ、デートしてみて良かったでしょ?」
不本意ながら、たしかに悪くはなかった。
まさかこんなにあっさりと距離を縮められてしまうとは思っていなかったけれど、今日のことがあったから、これから枢と会う時には今までのように嫌な気分にならなくて済むかもしれない。全くなくなるわけではないだろうけれど、かなり緩和されたのは認めなければいけない。
「良かったかどうかはおいといて……あんたのこと、いろいろ分かったかも」
今日だけで、枢のことをたくさん知った。
計画を立てるのが上手いことも、いつ知ったのか分からない私の好みに合わせるのが上手いことも。それから、よく気遣いのできる男だということも分かった。何気なく荷物を持ってくれたり、歩く場所や距離感を考えながら行動してくれて、私は一日中歩き回ったのにあまり疲れていない。
あと、枢について今日もっとも実感したことがある。
「……この変態」
「えっ」
「私知ってんだからね。あんた道行く女の子のスカートとか見すぎ。それっぽいの見つけたらすぐ目で追ってた」
「あ、いや……」
「今日ミニスカート履いてこなくて良かったわ」
枢は、ミニスカートを履いている女の子を見かけるとすぐに目で追っていた。どう考えてもいやらしい目だった。今日の私はロングスカートだけれど、これがミニスカートだったらと思うと、やはり不快感をおさえられない。さすがに、今日一日でだいぶ仲良くなったとはいえ、まだ彼のそういうところは見過ごせない。
「あの、なんというか、癖みたいなもので……」
まさか私からこんなことを言われるなんて思ってもみなかった。みたいな顔で、あわあわと枢が口を開く。まさかこいつ、女の子を眺めるのを無意識にやっていたのだろうか。それなら重症だ。
「前から思ってたんだけど、女の子の足とか好きなの?」
制服で会った時には、必ず太ももがうんたらかんたらと言われる。セクハラもいいところだけれど、もしかしたら病気なのかもしれない。変態という不治の病だ。
「……あの、いや、えっとですね」
見たこともないくらい枢が慌てている。
面白くなってきた。
「正直に言いなさい。そしたら怒んないから」
「でも……」
「ほら、どうなの?」
「……めっちゃ好きです」
いつもは恥ずかしすぎて逆に引くようなことをあっさりと言うくせに、何故か顔を真っ赤にして枢が頷く。変態のくせに、謎の恥じらいを見せる様がまた少し面白い。変態のくせに。
「変態」
「ごめん……」
「足フェチの変態」
「すいませんでした」
「セクハラ」
「あ、冷たい視線がちょっと気持ちよくなってきた」
「変態!」
足フェチだけじゃなくてそっちの嗜好もあったとは。やはり筋金入りの変態だ。
「だいたい、デートなんでしょ?あんた女の子連れてる時に他の子のこと目で追うってけっこうひどいことしてると思わない?」
「そ、それは……」
枢がひどく驚いたような顔をして、口元に手をやる。大袈裟な仕草だ。
「それは、たしかにダメだね……うぅん」
また大袈裟な仕草で頭を抱えたかと思うと、次の瞬間にははっと何か思いついたような顔をしてベンチから勢いよく立ち上がった。
「分かった!」
「……なにが?」
急になんだこいつは。
「君に認めてもらうために、僕はもうその手のちょっといかがわしいあれこれから卒業する!」
爽やかに何か言い放ちはじめた。
「なんの話?」
私が認めるとか、どういう話の流れでそうなったのか分からない。それに、認めるってなんのことだ。
ちんぷんかんぷんな私を見て、枢がうんうんと頷きながら話しはじめる。
「僕のことあんまり好きじゃないでしょ?」
「あ、分かってたのね」
「分かってたよ。でもあんまりあっさり認められると泣きそうだ」
枢のわざとらしい泣き真似は無視して、顎をしゃくって話の続きを催促する。こんな感じだといつまでたっても話が終わらない。変態の宣言なんて、どうせロクでもないことに決まっている。
「だから、せめてそういう、そっち系のやつから綺麗さっぱり足を洗って、誠心誠意ね、君に尽くそうと思うんだ」
「あ、うん」
「で、そのうち振り向かせてみせようって思うわけ」
「ほう」
言いたいことは分かる。
つまり、キモすぎてちょっと引いているから、私は彼との距離を縮めにくかったのではないかということだ。それだけではないだろうけれど、そうだと言われればそんな気もする。今朝まで考えていたいろいろなことは、今日一日だけでもだいぶ薄れてしまったのだから、きっと私の悩みなんてそんなものなのだ。
というか、変態というのはそういう真面目な悩みを霞ませてしまうほどの威力を持っているということだ。
枢の言っていることを頭のなかで整理していると、彼は何かアピールするように咳払いした。
「なによ」
「いまの、告白だよ?」
「あぁ、そう」
「はぁ……そういうところも好きなんだけどね」
卒業するというのは、そういう軽薄な発言についてではないんだろうかと思ったけれど、また何か意味不明なことを言われても面倒なのでやめておく。
「今日から僕は生まれ変わるよ」
本人が張り切っているから、それはそれでもういいだろう。変なことを言わなくなるのなら、私にとっては得しかない。
「頑張ってね」
「それ系のグッズとかも処分する」
「グッズ?」
なんとなく条件反射的に聞き返して、私は自分の不用意な発言に後悔した。どうせいかがわしいエログッズのことだろう。知らないけれど、なんだかわかる気がする。
「首輪とかムチとか……」
「言わなくていい。教えてくれなくていいから。処分するんでしょ。頑張りなさい」
「はい!頑張ります!」
なんだか枢がとても元気だ。私にとっては、正直もうどうでもいいような気がしてきたけれど、この頑張りが継続している間は、彼に会っても変なことを言われないだろうから、少しでも長続きすることを祈るとしよう。