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時計の針が進むごとに、どんどん気分が憂鬱になっていく。長針がてっぺんに届くまで、あともう少ししかない。そのあともう少しが、そのまま私の心の余裕を表している。本当に、あともう少ししかない。
待ち合わせの駅前。少しもセンスを感じられない銅像の前に制服のまま立ち、私はため息をつく。いまは心に余裕がないから、ダサい銅像を見るだけでも、ものすごくイライラしてしまう。
あと少ししたら、私の平和な夢が蹂躙される。本当はものすごく嫌だけれど、避けて通れない。そのせいで、胸にぐるぐると不快な気分が濁っていく。
私の夢は、平穏な人生。
大金持ちとか、有名人とか、そんなエキサイティングな人生は、私には合わない。普通に、普通の男と結婚して、それなりの生活をしていければ、なんて、いたって普通の夢。
堅実だ。
現実的だし、もっとほめてもらっても良いくらいである。
しかし、本当の現実は……。
「やぁ、待った?」
ダサい銅像の陰から現れた、ニコニコ顔の青年に声をかけられる。私より二十センチくらい大きい長身。だらしなく伸びているわけではないけれど、あまり真面目そうにも見えない髪の毛が手慣れた様子で自然にセットされている。私と同じ高校の制服を着ているけれど、校内で見かけることはほとんどない。
「……いま来たところ」
出来るだけ無愛想に答えると、彼は嬉しそうに笑った。
「いいね。そのつまんなそうな顔、たまんないよ」
またこみ上げてくるため息をなんとか堪えて、精一杯の不快感を込めた目で睨みつけてやる。
「そんなに僕のこと嫌い?」
「すっごく」
「ひどいな、未来の夫だよ」
私が頑張って敵意を向けてやったのに、そう言って笑顔のままゆるく抗議した彼は、冗談っぽく口を尖らせた。
"未来の夫"とは、もちろん彼の事である。
残念ながら、この軽薄そうな男"衣笠枢"は、私の婚約者だ。
父の勤める会社の社長の息子。
成長著しい大企業の御曹司。
彼と私は、大学を卒業したら結婚する予定になっている。
容姿端麗にして人並み外れた頭脳を持っていると評判の枢は、噂によると、父親の会社についていくつか助言をしているらしい。父親の会社が急成長したのは、彼の功績によるところも大きいと聞く。
噂が本当かどうかは分からないけれど、彼は仕事の関係で学校に顔を出さないことが多い。高校生にしてもう会社の経営に携わっているというのは、ある程度は事実のようだ。
財力、頭脳は申し分ない。顔も、印象の柔らかい目に整った鼻筋、よく微笑みを浮かべている優しい口元と、きっと平均からすればかなり上位だ。婚約者として、条件は悪くない。
悪くないが、私は枢が苦手である。
何故なら……。
「やっぱり女子高生の太ももはいいね。今日はどんなパンツ履いてるの?」
枢は少しおかしい。
「ばっかじゃないの?」
「あれ、真面目だけど?」
「ならなおさら馬鹿じゃない?」
「罵られるのも好きだよ」
私がどんなに言葉を尽くして糾弾しても、彼は人当たりの良い優しそうな顔で笑う。
その爽やかな笑顔がまた腹立たしい。
「婚約破棄ってできないのかしら……」
彼と出会ってから何回めか分からないそんな言葉を言う。言ってから、はっとして口元に手をやった。
枢を見ると、少しだけ寂しそうな顔をしていた。
「それは嫌だな」
これだ。
だからこいつは嫌なんだ。
私の気持ちも、平和でささやかな人生設計も無視して現れたくせに、私から拒絶されるなんて思ってもいないような枢が、どうしようもなく嫌になる。
私は我慢できなくなって、大きなため息を漏らした。
嫌われたくないなら、私の嫌がる言動は慎んでほしい。
枢と二人でレストランに入った。私の好物の、駅前にある普通の安いファミレスで夕食だ。
「御曹司のお口には合わないんじゃない?」
嫌味のつもりで私が尋ねると、枢は素直に笑った。こうも普通に返されると、ただ私が
性格の悪いやつみたいになってしまう。
「ファミレス好きだよ。僕は家だとだいたいコンビニ弁当だから」
「どうして?」
「楽チンだし、おいしいだろ?」
偏った食事を当たり前のように言う枢。週に三日は私と夕食を取る彼けれど、それ以外の日はきっととてつもなく忙しいのだろう。
「仕事が忙しくて食事の時間もあんまりとれないんだ?」
「んん、違う違う」
枢が鼻で笑う。
「僕を誰だと思ってるの?仕事なんてチョロいもんさ」
右手でパスタをくるくると回すと、そのまま口に運ぶ。
「ただ料理できないだけだよ」
「何でちょっと自慢気なの?」
「リリが怒るから」
また笑う。
この笑顔、ひっぱたいてやりたい。そう思ったのが伝わったのか、枢はさらに嬉しそうに目を細めた。
「ほら怒ってる。やっぱりそういう顔してると可愛いな」
少しだけ、どきっとした。それがまたむかつく。ひどく嫌いで、なるべくなら顔を合わせたくないはずなのに。私を真っ直ぐ見つめて話す枢が最後に付け足すちょっとした言葉のせいで、いつも胸の奥のイライラが少しだけ治ってしまう。
こいつは私を怒らせて楽しんでいる。そのくせ、本気で暴れだしそうになるくらいは怒らせない。いつか完全に拒絶してやりたいのに、ほんのちょっとだけ、本当に微かに、今回は許してやるか、というような気持ちが滲む。
「馴れ馴れしく名前呼ぶなって言ったよね」
少し緩和されてしまったせいで行き場をなくした胸のイライラを、話をすり替えて枢にぶつける。たしか、名前を呼ぶなって会うたびに毎回言っている。
「え、どうして?」
枢の返答も、同じように毎回聞いている。
それに対する私の言葉も、毎回同じだ。
「ただの知り合いをいきなり名前で呼ぶなんて、不躾じゃない?」
婚約なんて私は納得していないし、もちろん付き合ってもいない。友達と呼べるかどうかも、私の中では怪しいくらいの関係だ。同じ学校に通うただの同級生なんだから、私のことはそれらしく"倉橋さん"とでも呼べばいい。何回も言っていることだ。
そう、何回も繰り返したからこそ分かる。
このやりとりをすると、いつも枢は最後に笑うのだ。
「へへ。ごめんね」
こんな風に。
人当たりの良い笑顔で。
「リリのこと好きだから、距離を感じたくないんだ」
「実際に距離あるんだから仕方ないでしょ」
「違う。僕の気持ちの問題だよ。愛してる、リリ」
私の目を真っ直ぐ見つめて、きっと誰にでも向けているんだろう笑顔で枢が囁く。背中がむずむずしてきた。そんなことを言われても、私は彼のことを受け入れる気にはなれない。
「気持ち悪いこと言わないで」
「そんな蔑んだ視線もたまんないよ」
何がそんなに嬉しいのか。枢は私を怒らせるのが楽しくて仕方ないらしい。怒られるのが好きみたいだ。
こんな下らない話に付き合っていたらいつまでも帰れないので、にこにこと私を見つめる彼の視線は無視して、それなりに中身のありそうな会話を探す。
「何でも出来るんだと思ってたけど、料理はできないのね」
彼のことに興味はないけれど、こんなことでも時間つぶしくらいにはなる。
「全くできないの。君は出来るんだよね?」
「できるけど?」
料理くらい、私にとっては簡単なことだ。レストランで提供されるようなものに比べたらはるかに劣るけれど、自分で食べる分には何も問題ない。
「リリの手料理、食べてみたいな」
お断りだ。
「死んでもいいなら、食べさせてあげる」
「そっかぁ」
少し沈黙。
しばらくしてから、枢が小さく吹き出した。
「まあいいや。愛情のこもった手料理はまたいつかの機会にね」
「いつかって来るのかしら?」
「きっと来るよ」