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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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 うちには水子がいる。名前はアキナ。僕の姉にあたる。


 普通は水子の性別など分からないのだろう。その方がきっといい。産まれなかった姉のことなど知らずにいられたら、どれだけ幸せか。


「おかえり」


 ドアを開けるとアキナが立っていて、にやにやしながら僕を見上げていた。僕は思わず一歩下がる。絶対にいると分かっているのに、毎日、驚いてしまう。

 アキナは幼稚園児くらいの体格で、体は半分透けて廊下や壁が見えている。何度見ても不気味だ。


「まだアタシのことがこわいか?」


 毎日繰り返される質問を僕は無視した。


 靴を脱ぎ部屋に上がる。アキナは廊下の真ん中で両手を大きく広げている。仕方なくアキナの体をすり抜ける。

 ぞわり、と全身に鳥肌がたつ。冷たい霧が腹の中を通っていったような不快感。これも何度味わっても慣れはしない。


 両手で体をさすって嫌な感触をぬぐいさろうとする。けれどどうやっても嫌な冷えは残る。


 自分の部屋に入って鍵をかける。その扉からアキナの顔がにゅうっと突き出る。顔をそむけて見ないふりをしようとしても、アキナは話しかけてきて自分の存在を見せつける。


「アタシが怖くて震えてるんだろ」


 聞こえないふりでネクタイをはずす。


「アタシが気になって仕方ないんだろ」


 脱いでいたワイシャツを扉に向かって投げつけるとアキナは甲高い笑い声を残して消えた。


 アキナは両親には見えない。透けたアキナを通り過ぎた時に、ふとクシャミをすることがある。それだけだ。


 もしかしたら僕が幻覚を見ているだけなのではないかと病院に行ったことがある。しかし診察を終えた医師は、しっかりと僕の目を見て言った。


「呪われてますね」


 水子供養で有名な寺を紹介されて病院を出た。本格的に僕の頭がいかれて幻聴を聞いたのだろうと思ったが、念のために寺には行ってみた。


 高齢の尼さんが僕を見るなり念仏を唱えだした。ひとしきり唱えると疲れきった表情で言った。


「私の手にはおえません」


 それっきり、諦めた。



 アキナは食卓についた僕の足元をちょろちょろと這い回って隙を狙っている。油断していると足の中に顔を突っ込んで骨に噛みつくのだ。そうすると骨の芯が冷えきってひどく痛む。

 噛みつかれないために常に足を動かしていると、母が言う。


「いい歳してみっともない。だいたい、あなた、いつまでもウチにいないで独立しなさい」


 僕はうつむいて飯をかきこみ自分の部屋に逃げ戻る。アキナの興味が両親にも分散されているからなんとか生活ができるのだ。独り暮らしでアキナにつきまとわれっぱなしになどなったら生きていくのも難しいだろう。


 深夜、息苦しくて目が覚めた。目を開けなくても分かる。アキナが僕の首を絞めているのだ。アキナは命が妬ましいのだ。


「なあ、苦しいだろう。アタシがかわりに生きてやろうか」


 アキナの声はしわがれた老婆のようで、かさかさと耳障りに僕から眠りを遠ざける。


「なあ、やすらかに眠りたいだろう。アタシが永遠に眠らせてやろうか」


 僕はうつ伏せになる。アキナは僕の背中を踏み荒らす。背中が冷たくなって痛んだ。とても痛くて涙が出た。アキナに気付かれないように枕に顔を押し付けて耐えた。


 夜眠れない僕は昼間に居眠りをしてしまうことが多い。会社では能無しのダメ人間と認定されている。その通りだ。僕は幽霊を怖がって泣く子供のまま大きくなってしまった。死者を追い払うことも無視することも、いっそ自ら命を断つことすらできない。勇気など微塵もない。こんなことならアキナが生きていた方が世の中のためになっていただろう。





「アタシが怖いか」


 今日もアキナは廊下で通せんぼするために両手を広げる。しかし、いつものにやにや笑いがない。物凄い怒りの形相だ。僕は思わず呟いた。


「何かあったの」


 アキナはぎろりと僕を睨み付け、ふっと消えた。


「帰ったの?」


 リビングから母が僕を呼ぶ。行ってみると両手で大事そうに抱いていたものを僕に差し出して見せた。小さな木製の地蔵だった。いびつで変な顔だった。


「これね、母さんが彫ったの。アキナの供養にね。もう三十年もほったらかしだったけど。今さらだけど。やっとアキナのこと、諦めがついた」


 母は大粒の涙を流し、地蔵は涙を吸って生きているように見えた。




 それ以来、アキナは消えた。

 僕は独り暮らしを始めた。家に帰ると誰も待っていない。夜寝ていても起こされることもない。産まれて初めての経験に戸惑っている。


「アキナ」


 産まれて初めて名前を呼んでみた。寒々とした部屋に、その言葉は空しく響いた。

 僕の胸の奥に空しく響いた。

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