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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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 あいつが死んで四十九日が過ぎた。法要などするつもりはない。葬儀も、通夜だってしなかった。あいつのために何かしてやる気になどなるわけがない。出来るなら遺体を引き取りたくなかったが、それはさすがに世の中に迷惑をかけてしまうので仕方なく引き受けた。


 法律的には私はあいつの長女にあたる。名字は母方のものに変えることができたが、戸籍は変えられない。あいつと血がつながっている事実は消えない。


 あいつは私が産まれた時から、いや、産まれる前にはもう母を通して私に暴力をふるっていた。母が生きていた頃は身を呈して私をあいつからかばってくれた。けれど母は骨折と臓器の損傷から亡くなった。最期まで階段から落ちたのだと言って、あいつをかばった。私は警察に本当のことをうったえたが、とりあってはもらえなかった。まだ高校生だった私の証言は母の申告をうちやぶることはできなかった。


 警察に言ったことをあいつに知られ、ひどい暴力をうけた。その時の怪我で私の左耳は聞こえない。


 火葬場で焼けて出てきた骨をぐずぐずに崩した。そばで見ていた火葬場の職員が無表情に、ほうきとちりとりで骨粉を集めて骨壺に入れた。


 骨壺はいまだ私の部屋にある。墓になど入れてやるわけがない。かといって適当な山にでも捨てると死体遺棄罪になるらしい。毎日毎日、骨壺を見ながら赤ん坊のころから受け続けた暴力を思い出す。


 独り暮らしを始めてから見ることが減っていた悪夢もまた見るようになった。骨壺をどうにかしなければ。私は駄目になってしまう。


 真っ白な丸みを帯びた壺の蓋をとる。中にはかさかさとした灰と崩れきった骨。焼け焦げた獣の臭いが壺から漏れ出た気がして顔をしかめた。


 そうだ、トイレに流そう。こんなに粉々なんだから、きっと全部流れるはず。

 トイレに骨壺を持ち込み便座を上げた。骨壺をかたむけて少しずつ中身を便器に振り撒いていく。一度に流して詰まったら困る。何度かに小分けして流した。

 最後に骨壺を逆さにして振ると、カツンと音をたてて骨が便器の中に落ちた。輪型の小さな骨だ。崩し損ねていたらしい。まあいい。この程度の大きさなら流れるだろう。

 最後の水洗を終えて、ほっと息を吐いた。これでいい。これでようやく私はすくわれた。

 残った骨壺を粉々にくだいてゴミに出し、トイレを隅々まで掃除して、風呂で身体中を痛くなるほどにこすり洗った。




 安眠を手に入れた私に、世界は優しかった。朝日は希望を産み、夜闇は安らぎをくれた。始めて男の人を好きになった。好きな人から愛される喜びを知った。妻になり、母になった。

 娘は何よりも貴重な宝物だ。この子のためなら、どんな苦労もいとわない。母が死ぬような目にあっても私をかばい続けた理由が分かった。


 娘は健やかに育っていた。海が好きでスキューバダイビングの資格をとった。しょっちゅう海にもぐってはお土産を拾ってきてくれる。

 キレイな貝殻やシーグラス、時には小さな魚をガラス瓶にいれて連れてきた。どれも大切に磨いて置いてある。




「お母さん、これ、お土産」


 ある日、また海に行った娘が拾い物を差し出した。手のひらにちょこんと乗った輪状のもの。


「ひっ!」


 骨だ。

 あの日、トイレに流した父の骨だ。


「不思議な形よね。なんだか骨みたいだけど」


 娘の手から骨をひったくる。


「どうしたの、お母さん?」


 娘が目を真ん丸にしている。


「だめ、これはだめ! さわらないで!」


 私はトイレに走り、骨を流そうとした。後ろから娘の手がのびて骨をむしりとった。


「返しなさい!」


「返さないよ」


 娘の口から老人のような声が出た。


「これは俺ののどぼとけの骨だ。返すもんか」


 それは忘れようもない父の声。ギラリと刃物のように光る目、私を打ちのめすその目、間違いなく父のものだった。


「俺のものだ」


 娘は、いや、父は天をあおいで口を開けると、ぽとりと骨を口に入れた。喉を鳴らして骨を飲み込む。


「俺のものだ。返してもらうぞ」


 金属を引っ掻いたような高い声で笑いながら娘は床に倒れこんだ。しばらく私は動けなかった。足ががくがくと震え、立っているのが精一杯だった。

 時間の感覚がなくなっていた。娘が身じろぎした時には夜になり、真っ暗だった。


「……う、お、お母さん?」


 私は娘から逃げようとしたが、足がうまく動かない。尻餅をついてじりじりと後ずさる。


「お母さん、あたし、へん……。へんなの」


 いつもの娘の声だ。けれど床に伏した娘の顔を見たくない。その顔を上げられるのが恐ろしい。


「どうしてかな……、なんでだろう」


 なんで……? そうだなんであの骨は戻ってきたのだ? 流れ去ったはずだ。消えたはずだ。


「なんでかな、あたし、お母さんを殴りたい」


 娘がゆっくりと顔を上げた。その顔は私を殴った時の愉悦にひたった父の顔そのものだ。

 娘は……、娘? どうして私はあの子を名前で呼ばないの? あの子の名前はなんて言った?


「ほら」


 娘の声が低くなる。娘の声でなくなる。娘の声? それはどんな声だった?


「悪い子にはお仕置きだ」


 ゆらりと立ち上がったのは、間違いない、父だ。私は、私は、いやだ、逃げたい、逃げなきゃ、だめだ、逃げたら殺される、殺される、だめ……

 一歩、私に近寄る。


 だめだ、逃げなきゃ、逃げたら殺される……


 また一歩、近づく。


 いやだ、いやだ、いやだいやだいやだ!


 思いきり突き飛ばした。がん! という音がして倒れた頭が大きくバウンドした。その衝撃で口から骨が飛び出した。父の骨、父ののどぼとけ。


「まりちゃん!」


 突き飛ばした娘にすがりつき頭を抱き上げる。まりはカッと目を見開いて鼻から血があふれている。


「まりちゃん、まりちゃん!」


 呼んでもさすっても、まりはぴくりともしなかった。


 カタカタカタ、音がした方を見ると父ののどぼとけの骨が、冷たく笑っていた。

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