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今日のおはなし  作者: 溝口智子
金の糸 15
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ベンジャミン

ベンジャミン

 どうやら自分の名前がふつうではないとベンジャミンが気づいたのは小学二年生の時。国語の時間に漢字を習い始めて、自分の名前を漢字で書いてみようという時間があったのだ。みんな『風花』とか「翔馬」とか難しい漢字を先生に教えてもらってノートに書いていった。


「先生、ぼくの漢字はどんなの?」


 担任の先生は困り顔で「ベンジャミンくんの名前には漢字はないのよ」と言った。

 ベンジャミンはわけが分からなかったが、何か自分に悪いところがあるのだと感じて、黙って下を向いた。


 家に帰ってマミーにたずねた。


「どうしてぼくには漢字がないの?」


 マミーは答えた。


「カタカナの方がカッコいい名前なの。漢字なんて古くさいでしょ」


「でも、みんな漢字があるよ。ぼくも漢字がいい」


 マミーはベンジャミンの肩を両手でつかんで顔を近づけた。


「みんなと同じなんてカッコ悪いのよ。ベンジャミンは世界一カッコいい名前なんだから」


 ベンジャミンはもう何も言えずに黙りこんだ。


 カタカナだけの名前だということが胸にしこりを作ったみたいで、ベンジャミンはふさぎがちになってしまった。マミーはそんな様子にもまったく気づかないようで、いつも変わらず「ベンジャミンは世界一カッコいい名前」と繰り返した。


 ベンジャミンも次第に元気を取り戻したが、名前問題はまた再燃した。


 四年生の国語の時間に、作文の宿題が出た。題名は「自分の名前の由来」。ベンジャミンはマミーに名前の由来をたずねた。


「ベンジャミンはね、ピーターラビットのベストフレンドの名前なの」


 マミーがピーターラビットが大好きなのは知っていた。もちろんベンジャミンもピーターラビットが好きだ。小さい頃から今も絵本を読んでもらっている。ベンジャミンが緑の帽子をかぶったピーターラビットのいとこだということも知っていた。けれど自分の名前が絵本から、しかもウサギの名前からつけられたというのは、十歳の男子には恥ずかしいことに感じられた。

 その日からベンジャミンは「マミー」と呼ぶのをやめた。




 ベンジャミンは大学生になると母親の大反対を押しきって独り暮らしを始めた。母親は泣きながら何度も電話をかけてきて、留守番録音は母親の鳴き声であふれた。メールもラインも母親の名前でいっぱいになった。ベンジャミンは母に知らせず新しいスマホを買った。


 大学生活にも夜勤のバイトにも慣れた。母親が余るほどの生活費を送金してきたが、それには手をつけず、自分で稼いだ金で暮らしていた。財布はいつも寂しい状況だったがベンジャミンは静かな毎日に満足していた。

 バイトが終わって帰宅中、深夜の路上にアートパフォーマーがいた。路上にシートを敷いて自分の作品を並べていた。ふと足を止めると、もじゃもじゃとひげを生やした年齢不明なアーティストが笑いかけた。


「なんでも漢字でアートにするよ。何がいい?」


「ベンジャミン」


 思わずつぶやいた。アーティストは筆をとると、色紙に向かった。ベンジャミンの胸が高鳴る。あんなに切望した漢字。自分の名前に漢字がつけられる。


「はい、これ、ベンジャミン」


 色紙にはやわらかなタッチで『弁蛇民』と書いてあった。


「……」


「意味はね、弁財天のお遣いの蛇が民を救うってことだよ」


「弁財天のお遣いは蛇なんですか」


「いんや、知らないけど」


 肩を落としたベンジャミンに、ひげもじゃは色紙を押し付けると千五百円を要求した。ベンジャミンはその金額を支払いながら泣きそうになった。


 家に帰ったベンジャミンは色紙をゴミ袋に突っ込んだ。ついでに昔から使っている母からの着信だらけのケータイも突っ込む。さらについでにベンジャミンと言う名も捨てたかった。捨ててしまったら、ではどんな名前がいいのか考えてみた。タクヤ、イチロウ、マサキ、ケンタロウ、ハヤト、友達の名前はどれも素敵に思えた。だがそれは自分用の、自分だけの名前ではない。自分だけの、他にはない名前。それが欲しかった。

 改名を考えて裁判所に足を運ぼうともした。けれど自分のための名前を自分でつけることができなかった。誰かに命名して欲しかった。けれど頼れる人はいなかった。ベンジャミンはいつまでもベンジャミンであり続けた。


 結婚もした。子供も孫もできた。それでもベンジャミンはベンジャミンだった。母との和解だけはできないままベンジャミンは老いて死の床についた。葬儀の手配をあれこれ指示して息があるうちにと戒名をつけてもらった。生まれて初めての正当な漢字の名前。自分だけのたった一つの名前。ベンジャミンはワクワクして待った。

 彼の戒名は

『大観院弁蛇民居士』

 であった。そうか、自分は生まれたときから死ぬ時まで、いや、死んでもベンジャミンなのだな。ゆっくりと目を瞑ると懐かしい風景が見えた。絵本で何度も見たマクレガーさんの畑だった。そうか、自分はあそこに帰るのか、としみじみと思った。それはあきらめにも似た穏やかな気持ちだった。

 ベンジャミンが亡くなったとき、彼のひ孫がちょうど生まれた。ひ孫は曽祖父の名前をとってベンジャミンと名付けられた。そして彼もまた、一生をベンジャミンとして送るのだった。

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